第31話 夏休み終盤戦、甘々な日々
夏休みも残りわずかとなった、八月の終わり。
外ではツクツクボウシが鳴いているが、冷房の効いた如月家のリビングは快適そのものだった。
「……よし、正解。この応用問題も完璧だ」
俺が赤ペンでノートに大きな花丸を描くと、隣に座る如月ことねは、花が咲くように破顔した。
「やったぁ! 先生、見て見て! ノーミスだよ!」
「ああ。すごい集中力だ。一学期の遅れを取り戻すどころか、完全に二学期の予習範囲まで終わっちまったな」
俺は素直に感心した。
花火大会の夜、俺たちは恋人になった。
浮かれて勉強が手につかなくなるかと思いきや、ことねの学習意欲は爆上がりしていた。「先生の隣に立つためにトップを目指す」という宣言は伊達ではなかったらしい。
「えへへ……頑張ったもん。先生に褒めてほしくて」
ことねはシャーペンを置き、椅子ごと俺の方へ向き直った。
そして、とろけるような甘い瞳で俺を見上げ、自身の唇を指差した。
「ね、先生。……ご褒美、は?」
自然な動作だった。
以前なら「頭を撫でる」程度で満足していた彼女だが、あの一夜以来、ご褒美の要求レベルが跳ね上がっている。
「……お前なぁ。一問正解するたびにキスしてたら、授業が進まないだろ」
「進んでるもん。むしろキスがないと、やる気が出なくてエンストしちゃう」
「燃費が悪すぎる」
俺は呆れたフリをしてため息をつくが、拒否するつもりは毛頭なかった。
周囲を見渡す。お母さんは買い物に出かけていて不在。リビングには俺たち二人きり。
「……わかった。一回だけだぞ」
俺が観念して顔を近づけると、ことねは嬉しそうに目を閉じた。
触れるだけの、小鳥がついばむようなキス。
唇が離れると、彼女は幸せそうに「んふふ」と笑い、そのまま俺の胸に飛び込んできた。
「大好き。……先生、だぁいすき」
「はいはい、わかったから」
「むぅ、つれないなぁ。もっと『俺も好きだ』とか言ってくれてもいいのに」
「……柄じゃない」
俺は顔を背けた。
言葉にするのはまだ恥ずかしい。だが、抱きついてくる彼女の背中を回した手で、俺は無言の肯定を返した。
***
休憩時間。
俺たちはソファに並んで座り、一つのスマホで動画を見ていた。
ことねの頭が俺の肩に乗っている。俺の左手は、彼女の右手と当然のように絡み合っている(恋人繋ぎ)。
「ねえ、先生。二学期になったら、また学校だね」
「そうだな。憂鬱か?」
「ううん。楽しみ」
ことねは俺の手を弄りながら、力強く言った。
「だって、学校に行けば、みんなに見せつけられるもん」
「何をだ」
「先生は私のものだってこと」
彼女の独占欲は、夏休みを通じてさらに強固なものになっていた。
不登校だった頃の怯えはもうない。
今の彼女にあるのは、「最強の彼氏(先生)がついている」という絶対的な自信だ。
「それにね、次のテストが楽しみなの。……私、絶対にリナさんには負けないから」
ふと、彼女の口から元カノの名前が出た。
敵対心というよりは、ライバル……いや、もう眼中にない雑魚キャラを見るような余裕すら感じる響きだった。
「リナか……。あいつも、どうしてるかな」
俺はふと、遠い目をした。
あの日、河川敷で泣き崩れて走り去った彼女。
それ以来、連絡はない。LIMEもブロックされたままだろうか、確認すらしていない。
落ちるところまで落ちた彼女が、このまま腐ってしまうのか、それとも――。
「……先生?」
ことねが頬を膨らませて、俺の頬をつねった。
「あ、痛っ」
「他の女のこと考えちゃダメ。先生の脳内メモリは、全部私が占領するの」
「理不尽な独裁者だな……」
「ふふ、先生が甘やかすからだよ?」
ことねは悪戯っぽく笑い、俺の首に腕を回して、本日二度目のキスをねだってきた。
甘くて、濃密で、幸せな夏休み。
俺たちはこの温かい時間が永遠に続けばいいと思っていた。
だが、季節は巡る。
明日からは九月。新学期が始まる。
俺の知らないところで、愛川リナという少女が、劇的な変化を遂げようとしていることなど知る由もなく。
俺たちはただ、互いの体温を確かめ合っていた。




