第30話 元カレと元カノ
チュンチュン、と小鳥のさえずりが聞こえる。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、俺の瞼を優しくノックした。
「……んぅ」
俺、柏木湊は、重たい瞼をこすりながら目を覚ました。
見慣れた天井。自分の部屋だ。
昨夜は花火大会から帰宅した後、シャワーを浴びて泥のように眠ってしまったらしい。
体は休まったはずなのに、なぜか頭の芯が痺れたように熱い。
「……夢、か?」
そうだ、夢だ。
あんなドラマみたいな展開、現実に起きるわけがない。
不登校だった美少女と浴衣デートをして、花火の下で告白されて、あんな……あんな……。
――瞬間。
脳内のハードディスクに保存されていた「昨夜の映像データ」が、4K高画質かつ大音量で自動再生された。
『好きです。……先生のことが、世界中の誰よりも好き』
『俺も、お前が好きだ』
鮮明に蘇る、如月ことねの声。
俺の腕の中にあった、華奢な体の感触。甘い香り。
そして――。
『ん……っ……』
重なった唇の熱さ。
触れるだけのキス? いやいや、記憶を補正するな。
最初はそうだったかもしれないが、そのあと俺は彼女の背中に腕を回し、角度を変えて、何度も、かなり長い時間、唇を塞いでいたはずだ。
息継ぎの間も惜しむように、貪るように。
「…………」
俺は布団を頭から被り、ダンゴムシのように丸まった。
そして。
「ああああああああっ!!!」
布団の中で絶叫した。
足がバタバタとシーツを蹴り上げる。枕に顔を押し付けて、窒息寸前まで藻掻き苦しむ。
「な、ななな、何やってんだ俺はぁぁッ!?」
冷静になれ。いや無理だ。
いきなりキス!?
付き合うことになった直後だぞ? 普通はこう、「これからよろしく」的な握手とか、ハグとか、段階があるだろ!
それを一足飛びにファーストキス、しかもあんな濃厚なやつを!?
い、いや、一応ハグは台風の日の夜にしたのか……。いや、何誤魔化そうとしてるんだ俺は。
「雰囲気だ……完全にあの場の空気に酔っ払ってた……!」
花火のフィナーレ。美少女の涙。殺し文句。
条件が揃いすぎていた。俺の理性という名のダムが決壊するには十分すぎた。
だが、問題はその後だ。
(……軽い男だと思われてないか?)
俺はガバッと起き上がり、頭を抱えた。
相手は深窓の令嬢だぞ。清純派の権化みたいな子だぞ。
あんなガツガツいって、「先生ってば、実は女慣れしてる遊び人?」とか「体目当て?」とか誤解されたらどうするんだ。
いや、向こうからも「好き」って言ってくれたんだから、好意はあるはずだ。でも、幻滅された可能性はゼロじゃない。
「……謝るべきか? 『昨日は理性が飛んですまなかった』って? いや、それも生々しくてキモいか……?」
俺はベッドの上で、一人反省会を開いていた。
偏差値70超えの脳みそをフル回転させても、「昨夜のキスの正当性」と「事後処理の最適解」が導き出せない。恋愛偏差値が赤点すぎる。
その時。
枕元に放り投げてあったスマホが、ブブッと震えた。
「ひぃっ!?」
変な声が出た。
恐る恐る画面を見る。
通知には、『ことね』の文字。
心臓が早鐘を打つ。
なんて書いてある?
『昨日はビックリしました』か? 『やっぱり早すぎました』か? それとも『訴えます』か?
震える指で、LIMEを開く。
『おはようございます、先生(猫が布団から顔を出しているスタンプ)』
……普通だ。
いや、まだ続きがある。
『昨日のこと思い出したら、顔が熱くて布団から出られません。……どうしてくれるんですか』
『先生のバカ。……大好き』
ドォォォォン!!(俺の理性が爆発する音)
俺はスマホを握りしめたまま、再びベッドに倒れ込んだ。
可愛い。可愛すぎる。
文面から、彼女も同じように布団の中で悶えている姿が想像できてしまう。
怒ってない。引いてもない。
ただただ、俺と同じように「昨日の熱」に浮かされているだけだ。
「……ははっ」
乾いた笑いが漏れた。
なんだ、俺たち。似た者同士じゃないか。
俺は仰向けになり、天井を見上げた。
手のひらを空にかざす。
昨夜、彼女を抱きしめた時の感触が、まだ指先に残っている気がした。
「……恋人、なんだよな」
改めて言葉にすると、じわじわと実感が湧いてきた。
あの如月ことねが、俺の彼女。
「勉強しかできない」と振られた俺を、世界で一番好きだと言ってくれた女の子。
パニックが落ち着くと同時に、胸の奥から温かいものが込み上げてきた。
それは、これまでの人生で感じたことのない、全能感にも似た幸福感だった。
「……しっかりしなきゃな」
俺は頬をパンと叩き、起き上がった。
あんなに可愛い彼女を手に入れたんだ。
「軽い男」なんて思わせないくらい、誠実に、大切にしていけばいい。
それに、「勉強なんてできなくてもいい」と言った彼女に、「トップを目指すぞ」と宣言したのは俺だ。
教師として、そして彼氏として。
俺にはやるべきことが山積みだ。
俺はスマホを手に取り、返信を打ち込んだ。
『俺もだ。……今日の講習、覚悟して来いよ。顔見たら照れて授業にならないかもしれないから』
送信ボタンを押す。
すぐに『既読』がつく。
画面の向こうで、彼女がどんな顔をしているか想像しながら、俺は今日一番の笑顔でカーテンを開け放った。
夏の日差しが眩しい。
俺たちの「交際初日」が、今ここから始まるのだ。
***
一方、その頃。
同じ朝日の下で、全く違う朝を迎えている少女がいた。
愛川リナの部屋は、薄暗かった。
カーテンは閉め切られたままだが、隙間から差し込む容赦ない光が、床に散らばった残骸を照らしていた。
昨日着ていたピンク色の浴衣が、脱ぎ捨てられている。
化粧を落とさずに泣き疲れて寝たせいで、鏡に映る自分の顔は、目の周りが黒く滲んでパンダのようになっていた。
「……最悪」
カサついた声が出た。
頭が痛い。目が腫れている。
昨夜の記憶が、毒のように全身を巡る。
河川敷での出来事。
柏木の冷たい拒絶。
そして、如月ことねの凛とした瞳。
『貴方は、先生を見ていなかった』
あの一言が、呪いのように耳にこびりついて離れない。
「……うるさいなぁ」
リナはふらりと立ち上がり、床に落ちていたスマホを拾い上げた。
通知は何もない。
長谷川からも、柏木からも、友達からも。
今の私には、誰もいない。
スマホのフォルダを開く。
そこには、まだ消せずにいた柏木とのツーショット写真があった。
楽しそうに笑う私。困ったように笑う柏木。
昨日までは、この写真を見て「戻れるはずだ」と信じていた。
でも今は、それが滑稽なピエロの記録にしか見えなかった。
「……見てなかった、か」
改めて写真を見る。
私はカメラ目線で、一番可愛く映る角度をキープしている。
でも、柏木の視線は、少しだけ私の方を向いて、気遣うような目をしていた。
彼は私を見ていた。私のために尽くしてくれていた。
それを利用し、あぐらをかき、踏みにじったのは私だ。
「便利な道具」がいなくなったと嘆いていたけれど、本当に空っぽだったのは、道具に頼り切りだった私の中身の方だったのだ。
「……だっさ」
リナは自嘲気味に笑った。
268位。彼氏なし。友達なし。
前の補習の際に、このままだともうそろ親御さんに来てもらわないとな、と担任の冴島先生にこぼされた。
これが今の私のステータスだ。
カースト上位だと威張っていた数ヶ月前の私が知ったら、泡を吹いて倒れるだろう。
指先が震える。
画面上の「削除」ボタンを押す。
――削除しました。
柏木との写真が消えた。
これで、本当に何もなくなった。
すっからかんだ。
「……はぁ」
リナは大きく息を吐き、部屋の隅に投げ出されていた通学鞄を引き寄せた。
中から出てきたのは、クシャクシャになった夏休みの課題プリントと、まだ新品同様の教科書。
開いてみる。
数Ⅱのページ。
記号と数字の羅列。意味不明な呪文にしか見えない。
これまでは、これを見た瞬間に「柏木ー、わかんないー」と丸投げしていた。
でも、もう柏木はいない。
教えてくれる人は誰もいない。
全部、自分でやらなきゃいけない。
「……意味わかんない」
リナは呟きながら、シャーペンを握った。
手が震える。
どこから手をつければいいのかすらわからない。
1ページ目を見るだけで、吐き気がするほど面倒くさい。
でも。
このまま何もしなければ、私は一生「268位の惨めな元カノ」のままだ。
あの如月ことねに見下された(と思い込んでいる)まま、終わってしまう。
それだけは、死んでも嫌だった。
「……見てなさいよ」
誰にともなく、リナは宣言した。
柏木への未練? そんなものはゴミ箱に捨てた。
これは、私のプライドを取り戻すための戦いだ。
「絶対、見返してやるんだから……!」
カリッ、と。
静かな部屋に、シャーペンの芯が紙を擦る音が響いた。
それは、今まで誰かに寄りかかって生きてきた少女が、初めて自分の足で地面を踏みしめた、小さな、けれど確かな一歩の音だった。
窓の外では、新しい朝が始まっていた。
柏木と如月の甘い物語の裏側で、もう一つの「再起」の物語が、今静かに幕を開けた。




