第29話 今夜は名前で
愛川リナが去った河川敷には、再び静寂が戻っていた。
遠くから聞こえる祭囃子と、草むらで鳴く虫の声。
そして、隣に座る如月ことねの、少し早い鼓動が聞こえてきそうなほどの静けさ。
「……行っちゃったね」
「ああ」
俺は短く答え、夜空を見上げた。
不思議と、心は凪いでいた。
かつて愛したはずの女性に罵倒され、決定的に決別したというのに、喪失感は皆無だった。
なぜなら――俺の空っぽだった手は今、何よりも大切な温もりで満たされているからだ。
俺は、強く握りしめたままの如月の手を、そっと引き寄せた。
「……如月」
「なぁに、先生?」
彼女が俺を見上げる。
浴衣姿の彼女は、夜闇の中でも発光しているかのように美しかった。
出会った頃、暗い部屋で膝を抱えていた少女の面影はもうない。
俺の隣で、俺の手を握り、俺のためだけに怒ってくれる、強くて愛おしいパートナーがそこにいた。
(……俺は、ずっと間違っていたのかもしれない)
俺は今まで、自分に言い訳をしていた。
これは「家庭教師の仕事」だから。
彼女は「勉強を教えてくれる機能」に依存しているだけだから。
未成年だし、生徒だし、立場が違うし。
そうやって線を引いて、彼女からの好意を「勘違いだ」と決めつけ、正面から受け止めることから逃げていた。
それは、傷つくのが怖かったからだ。
また「勉強しか価値がない」と捨てられるのが怖くて、「先生」という安全な鎧を着込んでいただけだ。
でも、彼女は違った。
如月ことねという少女は、いつだって本気だった。
不登校の恐怖と戦いながら俺の手を取り、全校生徒の前で俺の手を握り、元カノ相手に「先生は私が見つけた」と宣言してみせた。
彼女は命懸けで俺を求めてくれている。
なら――男である俺が、いつまでも「先生ごっこ」に逃げているわけにはいかないだろう。
「……先生?」
俺が黙り込んでいると、如月が不安そうに眉を下げた。
「どうしたの? やっぱり、さっきの愛川さんのこと……気にし」
「違う」
俺は彼女の言葉を遮り、向き直った。
正面から、彼女の宝石のような瞳を見つめる。
「考えていたんだ。……俺とお前が出会ってからのことを」
2ヶ月前。あの薄暗い部屋で、俺たちは出会った。
ボロボロのノートと、絶望していた少女。
俺が図を描いて説明した時、彼女は「魔法みたい」と言ってくれた。
あの一言が、どれだけ俺を救ってくれたか、彼女は知らないだろう。
「俺は、お前に勉強を教えることで、自分自身の価値を確かめていたんだと思う。元カノに否定された俺を、お前が必要としてくれたから……俺は救われたんだ」
「先生……」
「お前が俺に依存していると言うなら、俺だって同じだ。……俺はもう、お前がいない日常なんて考えられない」
口に出してしまえば、それはあまりにも単純な「答え」だった。
理屈も計算もいらない。
俺はただ、如月ことねという一人の女の子に、どうしようもなく惹かれているのだ。
ヒュゥゥゥ……。
夜空を切り裂く音が響いた。
直後、ドォォォン!! と腹に響く轟音と共に、視界いっぱいに光の花が咲いた。
フィナーレの始まりだ。
極彩色の光が、如月の顔を照らし出す。
彼女は花火を見上げてはいなかった。
ずっと、俺だけを見ていた。
その瞳に映っているのは、花火の光ではなく、俺というちっぽけな男の姿だけ。
如月が一歩、距離を詰めた。
浴衣の袖が触れ合い、甘い香りが俺を包み込む。
彼女は俺の手を両手で包み込み、祈るように胸元に引き寄せた。
「……先生」
花火の音に負けないように、けれど静かに、彼女は言った。
「私ね、先生に勉強を教えてもらって、たくさんの『正解』を知ったよ」
「……ああ」
「でもね、教科書には載っていなかったことが一つだけあるの」
彼女は爪先立ちになり、顔を近づけてきた。
長い睫毛が震えている。
それは、彼女にとっての一世一代の賭け。
「この胸の痛みも、先生を見ると熱くなるこの気持ちも……参考書のどこにも載ってなかった」
彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは悲しみの涙ではない。溢れ出した感情の結晶だ。
「先生。……私は、先生の『機能』が欲しいんじゃない。先生という『人』が欲しいの」
「っ……」
「勉強なんてできなくてもいい。先生が隣にいてくれるなら、私はバカなままでもいいよ。……だから」
彼女は俺の目を真っ直ぐに見つめ、告げた。
「好きです。……先生のことが、世界中の誰よりも好き」
ドーン! バリバリバリ!
連続する花火の炸裂音。
だが、彼女の声はハッキリと、一言一句漏らさず俺の鼓膜を震わせた。
聞こえなかったフリをして、今の関係を維持することもできるだろう。
「今は勉強が大事だ」とはぐらかすこともできるだろう。
だが、そんなダサい真似はもうしない。
彼女がここまでさらけ出してくれたのだ。俺も、男としての「解答」を出さなければならない。
俺は繋いでいた手を一度離した。
如月の顔が一瞬、不安に歪む。
だが、俺はすぐにその手を――彼女の腰へと回し、強く抱き寄せた。
「きゃっ……!?」
如月の華奢な体が、俺の胸に密着する。
俺は彼女の背中に腕を回し、逃げ場をなくすように抱きしめた。
「……俺もだ、ことね」
初めて呼んだ、彼女の名前。
彼女が息を呑むのがわかった。
「最初は、ただの生徒だと思ってた。守ってやらなきゃいけない、手のかかる子供だと」
「……うん」
「でも違った。守られていたのは俺の方だ。お前の『好き』に甘えて、心地よい場所に安住していただけだ」
俺は彼女の耳元で、噛み締めるように囁いた。
「俺も、お前が好きだ。……教師としてじゃない。男として、如月ことねという女性に惚れてる」
その言葉が、俺の中の最後のブレーキを破壊した。
もう、理屈なんてどうでもいい。
俺はこの子が欲しい。誰にも渡したくない。
「せ、んせい……うそ、ほんと……?」
「嘘をつくような教師に見えるか?」
「ううん……見えない。……うれしい、うれしい……っ!」
ことねが俺の浴衣を強く掴み、顔を埋めて泣き出した。
俺は彼女の顎をそっと持ち上げ、涙に濡れた顔を上向かせた。
花火の光に照らされたその唇は、熟れた果実のように震えていた。
「……一つだけ、訂正させてくれ」
「え?」
「『勉強なんてできなくてもいい』って言ったな? あれはダメだ」
俺は意地悪く笑った。
「俺たちはこれから、二人でトップを目指すんだ。……俺の隣に並びたいなら、覚悟しておけよ?」
「……ふふ、やっぱりスパルタだ」
ことねは涙を浮かべたまま、とろけるように笑った。
「望むところだよ。……私の、大好きな先生」
次の瞬間、俺たちの唇は重なっていた。
触れるだけの、優しい口づけ。
だが、そこにはこれまで感じたことのない熱と、甘さが凝縮されていた。
頭上で弾ける花火の音が遠のき、世界には俺たち二人しかいないような錯覚に陥る。
長い、長いキスの後。
ゆっくりと唇を離すと、ことねは顔を真っ赤にして、へにゃりと俺の胸に崩れ落ちた。
「……もう、勉強できないかも」
「それは困るな」
「だって……頭の中、先生でいっぱいになっちゃったもん」
彼女は俺の胸に頬をすり寄せ、愛おしそうに呟いた。
俺は彼女の背中を抱きしめ返し、夜空を見上げた。
リナに捨てられ、空っぽだった俺の腕の中。
そこには今、世界で一番可愛い「共犯者」がいる。
教師と生徒という禁断の関係を超えて、俺たちは結ばれた。
これが、俺たちの新しい関係の始まり。
もう、誰にも邪魔はさせない。
俺たちはこの手を繋いだまま、どこまでも歩いていける。




