第25話 夏祭りに向けて
夏休みも折り返し地点を過ぎた頃。
いつものように如月家での指導を終え、休憩に入ったタイミングだった。
「ねえ、先生」
如月が、一枚のチラシをテーブルの上にスッと差し出してきた。
地域の広報誌だ。一面に大きく、夜空に咲く極彩色の花火の写真が印刷されている。
『今週末開催! 第30回 清流夏祭り花火大会』
「……花火か。もうそんな時期なんだな」
「うん。……行きたいな」
如月がチラシの端を指でなぞりながら、上目遣いで俺を見てくる。
その視線の意味を察せないほど、俺は鈍感ではない。
「人混みは平気か? 地元の祭りだから、かなりの人出になるぞ」
「う……それは、ちょっと怖いけど」
如月は一瞬怯んだような顔をしたが、すぐに俺の袖をギュッと掴んだ。
「でも、先生が一緒なら平気。……先生が、悪い虫がつかないように守ってくれるんでしょ?」
「……俺はボディガードか」
「ううん。騎士だよ」
あまり違いが分からないが悪戯っぽく笑う彼女に、俺は小さく溜息をついた。
台風の夜の一件以来、如月の俺に対する依存度――いや、信頼度は天井知らずに上がっている。
俺が隣にいれば、どんな場所でも怖くないというのは、あながち嘘ではないのだろう。
それを少し心地よいと感じる自分がいるのも確かだ。
「わかった。勉強の息抜きも必要だしな」
「やったぁ! 約束だよ?」
「ああ。ただし、はぐれないように手は離すなよ」
俺が言うと、如月は「言われなくても離さないよ」とボソリと呟き、嬉しそうにカレンダーに『花火♡』と書き込んだ。
「あ、そうだ先生。……浴衣、着てもいい?」
「浴衣? 持ってるのか」
「うん。去年お母さんが買ってくれたんだけど、着る機会なくて……。先生に見せたいな」
浴衣姿の如月。
想像しただけで、脳裏に鮮烈なイメージが浮かんでしまった。
私服のワンピースであの破壊力だったのだ。艶やかな浴衣に身を包み、うなじを見せたりした日には、俺の理性が蒸発するかもしれない。
「……似合うと思うぞ」
「えへへ。じゃあ、一番可愛く着付けてもらうね。……先生のためだけに」
如月はとろけるような笑顔を見せた。
その言葉の重みに、俺は気づかないフリをしてアイスコーヒーを煽った。
いかんいかん妄想でコーヒーの味を感じない。
***
その日の夜。
俺は自宅で、週末の天気をチェックしていた。
予報は晴れ。絶好の花火日和になりそうだ。
「……浴衣、か」
心のどこかで「浴衣デート」への憧れがあったのも事実だ。
まさか、それを元カノではなく、教え子の如月と叶えることになるとは。
「……いや、デートじゃない。あくまで引率だ」
俺は自分に言い聞かせるように呟いた。
未成年の生徒を夜の祭りに連れ出すのだ。保護者的な責任感が伴う。
決して、美少女との浴衣デートに浮かれているわけではない。……ないはずだ。
ブブッ、とスマホが震える。
如月からのLIMEだ。
『今、浴衣に合わせて髪飾り選んでるの。先生は青と赤、どっちが好き?』
添付されていた写真には、二つの髪飾りを手に持ち、鏡越しに自撮りをする如月の姿。
まだ浴衣を着ていないのに、既に可愛い。
『青かな。涼しげで似合うと思う』
返信すると、即座に既読がつく。
『了解! 先生色(青)にするね!(猫が舞い踊るスタンプ)』
……俺の色ってなんだ。
まあ、彼女が楽しそうならそれでいいか。
俺はスマホを枕元に置き、週末への期待を胸に目を閉じた。
***
一方、その頃。
愛川リナの部屋は、服と化粧品で埋め尽くされていた。
「……これじゃない。もっと目立つやつ……」
彼女はクローゼットの奥から、一度も袖を通していなかった浴衣を引っ張り出していた。
派手なピンク色に、大きな牡丹の花があしらわれたデザイン。
前柏木が「浴衣が見たい」と言っていたのを、「面倒くさい」と断ったが、一応買ったものだ。
「着てあげる。……あんた、絶対喜ぶもんね」
リナは鏡の前で浴衣を体に当て、うっとりとポーズを取った。
目の下のクマはコンシーラーで厚塗りし、痩せこけた頬はチークで誤魔化している。
その瞳は、異様なほどギラギラと輝いていた。
「電話に出てくれないのは、きっと照れてるからよ。私が酷いこと言ったの、まだ根に持ってるんだわ」
彼女の脳内では、台風の朝の通話――如月の声が聞こえた一件――は、都合よく改竄されていた。
『あれは如月の罠だ』『柏木くんは騙されているだけ』『直接会えば、私の魅力に気づくはず』。
「夏祭り……ここが勝負よ」
リナはスマホを取り出し、地域の掲示板SNSをチェックする。
『清流花火大会、カップルにおすすめスポット』
柏木は真面目だから、きっと人混みを避けて、穴場の河川敷あたりに行くだろう。
そこに偶然を装って現れ、泣きながら謝れば――。
「完璧なシナリオ」
リナは口角を歪めた。
捨てられた元カノの最後の賭け。
彼女は自分の首を絞めるロープを、飾り紐だと勘違いしたまま、週末の決戦へと足を踏み入れようとしていた。




