第24話 冷静になってみてどうだ?
台風一過の青空の下、俺は自宅への帰路についていた。
足取りは重いような、ふわふわしているような、奇妙な感覚だ。
歩きながら、俺は昨晩の出来事を脳内で必死に総括していた。
(……結局、邪なことは何もしなかった)
これは事実だ。
同じ布団に入った。密着した。朝まで一緒にいた。
だが、キスもしていないし、それ以上の行為になんて及んでいない。ただ、雷に怯える生徒を教師として保護し、安心させて寝かしつけただけだ。
法に触れるようなことは一切していない。柏木湊の理性は、鉄壁の守りを維持しきったのだ。
「……いや、ハグしてる時点でアウトか」
俺は立ち止まり、頭を抱えた。
冷静になろう。未成年の男女が、薄着のパジャマ姿で、一晩中抱き合って寝ていたのだ。
しかも「先生の匂いが好き」「離さない」などという甘い言葉を囁かれながら。
これを「セーフ」と言い張れるのは、聖人君子か、現実逃避している馬鹿だけだ。
「……責任、取らなきゃいけないのかな」
誰に対しての責任だ? 親にか? 如月にか?
ぐるぐると回る思考を振り払うように、俺は大きく息を吐いた。
***
時間を数時間ほど巻き戻す。
如月家を出る時のことだ。
朝食(これまた絶品の和食だった)をご馳走になった後、玄関まで見送ってくれたお母さんは、実に良い笑顔をしていた。
「柏木さん。昨日はよく眠れましたか?」
「あ、はい……おかげさまで」
「ふふ、それは良かった。ことねも久しぶりに熟睡できたみたいで。……またいつでも『避難』しにいらしてくださいね?」
お母さんの視線が、「娘をよろしく頼みますよ」と雄弁に語っていた。
完全に公認だ。外堀どころか内堀まで埋め立てられている。
「先生、もう帰っちゃうの?」
如月は名残惜しそうに、玄関の柱から半身を出していた。
その顔はツヤツヤしており、昨夜の恐怖など微塵も感じさせない。むしろ「先生成分」をフル充填して満足げですらある。
「一旦帰って着替えないとダメだろ。……また明後日、講習があるし」
「うん。……LIME、すぐ返してね?」
「善処する」
手を振って別れた彼女の姿が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
***
ガチャリ、と自宅のドアを開ける。
「ただいまー」と声をかけるが、両親は共働きで不在だ。
静まり返った自分の部屋に入る。
勉強机とベッドだけの、殺風景な部屋。
「……静かだな」
いつも通りの、俺の日常だ。
勉強に集中するために整えられた、孤独で快適な空間。
それなのに。
「……なんか、寒いな」
真夏だというのに、肌寒さを感じた。
昨夜、背中に感じていた温もりがないからだ。
甘いシャンプーの香りも、耳元での寝息も、服を掴む感触もない。
ドサッ、とベッドに倒れ込む。
自分の布団が、やけに広く感じられた。
(依存してるのは、どっちだか……)
如月のことを「重い」とか「俺に依存してる」とか分析していたくせに、たった一晩離れただけでこの喪失感だ。
俺の方こそ、彼女に「必要とされること」に依存し始めているのではないか。
ブブッ、とスマホが震えた。
画面を見ると、『ことね』からのメッセージと、猫が寂しがって丸まっているスタンプ。
『先生が帰って1時間経ちました。もう会いたいです』
俺は苦笑して、すぐに返信を打った。
『勉強しろ。次の講習で小テストするぞ』
すぐに『はーい!(猫が敬礼するスタンプ)』が返ってくる。
そのやり取りだけで、胸の空洞が少し埋まる気がした。
***
翌々日。
俺は再び、家庭教師として如月家を訪れた。
日常に戻る。そう決めていた。
しかし、部屋に入ってテキストを開いた瞬間、その決意は脆くも崩れ去った。
「はい、先生。ここ座って」
如月がポンポンと自分の隣――というか、ほぼ密着する位置を指定した。
座ると、当然のように俺の左腕が彼女の両手に捕獲される。
「如月、近い」
「んー? 台風の夜よりは離れてるよ?」
「あれは緊急事態だっただろ」
「今は平時だけど……私の心は常に先生不足という緊急事態なので」
彼女は悪びれもせず、俺の肩に頭を預けてきた。
以前のような「怖がりながら」という様子はない。完全に「ここは私の特等席です」という堂々たる態度だ。
俺も俺で、それを振り払おうとはしなかった。
むしろ、この体温がある方が、テキストの文字が頭に入ってくるような気さえした。
日常には戻った。
だが、その「日常」の基準値が、お泊まり前とは決定的に変わってしまったのだ。
俺たちは、互いの体温なしでは落ち着かない体になってしまったらしい。
――そんな甘々な空気が流れる如月家とは対照的に。
俺の知らないところで、最後の時限爆弾が作動しようとしていた。
***
ボサボサの髪、目の下のクマ。
愛川リナは、自室の鏡の前で、虚ろな目で笑っていた。
「……電話じゃダメ。やっぱり、直接会わないと」
手元には、地域の広報誌。
そこには『週末開催! 夏祭り花火大会』の文字が踊っていた。
「浴衣……柏木、浴衣好きだったよね」
論理もプライドも崩壊した彼女は、最後の賭けに出ようとしていた。
この夏祭りが、彼女にとっての「終わりの始まり」になるとも知らずに。




