第23話 元カノからの電話、懐には生徒
『うぅ……グスッ……ねえ柏木、助けてよぉ……』
スマホのスピーカーから、鼻をすする音と、情けない泣き声が漏れ聞こえてくる。
俺はベッド――いや、布団の上で体を起こし、深いため息をついた。
隣では、如月が俺の腰に腕を回したまま、じっと聞き耳を立てている。
変にからかったり騒ぎ立てはしないだろう。
ここで俺が変に騒いでもあれだ。冷静になろう。大丈夫だ、俺はおれだ。。。
「……助けてって、何があったんだ」
『振られたの……長谷川くんに、酷いこと言われて……捨てられたのぉ!』
予想通りの展開だった。
長谷川は軽い男だ。リナの成績が落ち、クラスでの地位が危うくなれば、すぐに乗り換えるだろうとは思っていたが、思ったよりも早かった。
『あいつ最低なの! 私が補習で大変なのに、ゲームばっかりしてて! 私のことなんて全然見てくれなくて!』
リナは長谷川への罵詈雑言を並べ立てた。
だが、それはそのまま彼女へのブーメランでもあった。
かつて俺がテスト勉強を支えてやろうとした時、「つまんない」「勉強ばっか」と切り捨てたのは彼女自身だ。因果応報としか言いようがない。
「……それで? 俺にどうしろって言うんだ」
『会いたいの! 今すぐ会って、慰めてよ!』
リナの声が切迫した響きを帯びる。
『私、わかったの。やっぱり柏木くんじゃなきゃダメだって。……あんな薄っぺらい男より、柏木くんの方がずっと優しくて、私のことわかってくれてたって』
調子のいい言葉だ。
だが、その言葉の裏にある本音は透けて見えていた。
「寂しいから埋め合わせが欲しい」「補習の手伝いをしてほしい」「落ちた自尊心を回復させてほしい」。
彼女は俺を求めているんじゃない。俺の「機能」を求めているだけだ。
『ねえ、やり直そう? 私、反省したから。今ならまだ間に合うよ? 夏休みだし、デートして、また一から――』
「無理だ」
俺は彼女の言葉を遮った。
かつては愛していたはずの声が、今はただのノイズにしか聞こえない。
「俺はもう、お前の彼氏じゃない。……それに、俺には今、優先すべき相手がいる」
俺がそう言うと、隣にいる如月が、ビクンと反応した。
彼女は俺のパジャマの裾をギュッと握りしめ、濡れた瞳で俺を見上げている。
『私だよね?』と問いかけるように。
『優先すべき相手ぇ? まさか、あの如月のこと!?』
リナの声が裏返った。
『あんな引きこもりのどこがいいのよ! 見た目だけじゃん! 私の方が柏木くんと付き合い長いし、相性だっていいし、それに――』
「如月を悪く言うな」
俺の声が低くなる。
自分のことを悪く言われるのは構わない。だが、必死に努力して、恐怖と戦って登校した彼女を侮辱されるのは我慢ならなかった。
「あいつはお前とは違う。自分の弱さと向き合って、逃げずに戦ってる。……俺にとって、誰より尊敬できる『生徒』だ」
そう言い切った瞬間。
如月が、耐えきれないというように俺の胸に顔を埋めてきた。
熱い吐息がパジャマ越しに伝わる。彼女の耳が真っ赤に染まっているのが見えた。
『な、何よそれ……生徒って……ただの家庭教師の分際で……!』
リナが錯乱して喚き散らす。
もう、会話を続ける意味はない。
「悪いが切るぞ。……俺は今、忙しいんだ」
『待って! お願い切らないで! 私、一人なの! 寂しくて死んじゃいそうなの!』
リナの絶叫が響く。
その時だった。
「……んぅ……先生ぇ……?」
俺の胸元から、甘く、とろけるような猫なで声が上がった。
如月だ。
彼女はわざと――そう、確実にわざと、スマホのマイクに近い位置で声を上げたのだ。
「……まだぁ? はやく……続きシて……」
寝ぼけたフリをした、しかし計算され尽くした破壊力抜群の一撃。
静かな朝の部屋に、その声は鮮明に響き渡り、そして通話の向こう側へと届いた。
『――は?』
リナの声が凍りついた。
『え、今の声……如月? なんで……朝なのに……嘘、でしょ?』
「き、如月!?」
俺が慌ててスマホを離そうとするが、如月は俺の首に腕を回し、さらに甘えた声を出す。
「……先生、寒い。……お布団、戻ってきて?」
決定打だった。
「先生」「布団」「朝」。この三つのキーワードが揃えば、状況証拠としては十分すぎる。
俺たちが一夜を共にし、今も同じ布団の中にいるという事実が、リナに突きつけられた。
『い、いやぁぁぁぁっ!!』
耳をつんざくような悲鳴。
ガチャン! プツッ、ツーツーツー……。
通話が切れた。向こうがスマホを投げつけたのか、叩き切ったのか。
画面には「通話終了」の文字が表示された。
シン、と静まり返る部屋。
俺は呆然とスマホを見つめ、それから恐る恐る、胸元の少女を見た。
「……如月?」
「んー? ……なぁに、先生?」
彼女は小首を傾げて、きょとんとしていた。
だが、その口元は、隠しきれない勝利の笑みで緩んでいた。
「……お前、わざとやっただろ」
「まさかぁ。……先生の声が聞こえなくて、寂しかっただけだよ?」
彼女は悪びれもせず、俺の胸に頬をすり寄せた。
「でも、聞こえちゃったなら仕方ないね。……先生は今、私のものなんだってこと」
その瞳に宿る独占欲は、台風一過の青空よりも澄み渡り、そして深かった。
元カノへの未練など入り込む隙間もないほど、俺は彼女にがんじがらめにされていたのだ。
リナは知ったことだろう。
自分が「寂しい」と泣き叫んでいた夜、俺たちがどれほど温かく、密接な時間を過ごしていたかを。
「……さて。邪魔者も消えたし」
如月が俺を押し倒すようにして、上から覗き込んできた。
「――二度寝、しよっか? 先生」
朝日は眩しかったが、俺の理性にとっては、まだまだ長い夜が続きそうだった。




