第20話 嵐と共に嵐
夏休み中盤。
俺は如月家のリビングで、激しい雨音を聞きながら頭を抱えていた。
(……やってしまった)
窓の外は、世界を洗い流すような暴風雨だ。
台風が接近していることは知っていた。だが、ニュースで「夕方から直撃」と言っていたのを甘く見ていた。
今日の指導に熱が入るあまり、スマホの天気予報通知を完全に見落としていたのだ。
朝家を出る前の天気予報の確認も怠ってしまっていた。教師役として、危機管理能力が欠如していると言われても仕方がない。
「……先生、顔色が悪いよ? お茶、飲む?」
対面の席で、ことねが心配そうにカップを差し出してきた。
だが、その瞳の奥が少しだけ笑っているように見えるのは、俺の被害妄想だろうか。
「いや、大丈夫だ。……それより、少し早いが今日は切り上げるぞ。電車が止まる前に帰らないと」
「えっ、もう? まだ16時だよ?」
「安全第一だ。生徒を不安にさせるわけにはいかないからな」
俺が急いでカバンにテキストをしまっていると、リビングのドアがノックされた。
ことねのお母さんだ。いつも穏やかな彼女が、少し慌てた様子でスマホを握りしめている。
「柏木さん、大変! 今、鉄道各社の運行状況を確認したんですが……このエリアの電車、全線で見合わせが決まったそうです」
「えっ……全線、ですか?」
「はい。バスも運休だそうで……この雨の中、駅まで歩くことすら危険な状態です」
終わった。
俺は血の気が引くのを感じた。ここから俺の家までは電車で三十分。歩いて帰れる距離ではない。タクシーもこの天気では捕まらないだろう。
「ど、どうしよう……一旦、雨足が弱まるのを待って――」
「柏木さん。……今日は、うちに泊まってらっしゃい」
お母さんの口から出たのは、悪魔的とも言える提案だった。
「と、泊まる!? いやいや、それは流石にダメです! 俺は部外者ですし、それに未成年の男女が一つ屋根の下で……!」
「あら、部外者だなんて。柏木さんはことねの恩人じゃないですか」
お母さんはふふっと笑い、手元のスマホを見せてきた。
「それに、ご両親の許可ならもう取りましたよ」
「はい……?」
「先ほどお電話しましたの。『台風で帰せそうにないので、一晩お預かりします』って」
「なっ……!?」
俺は絶句した。行動が早すぎる。
というか、そもそも――。
「あ、あの。なんで俺の家の番号を?」
「あら、忘れてしまいました? 最初に家庭教師をお願いした時、緊急連絡先として交換させていただいたじゃないですか。『何かあった時のために』って」
――あ。
思い出した。
冴島先生経由で依頼を受けた後、お母さんと初めて挨拶した時に「大切なお嬢様をお預かりする以上、万が一のために」と、お互いの親の連絡先を交換したんだった。
そうだったようなそうじゃなかったような。
あの時は「しっかりしたお母さんだな」と感心しただけだったが、まさかこんな形で使われるとは。
「お母様も『助かります、息子はどこでも寝れる図太い子なので適当に扱ってください』と仰ってましたよ?」
「うちの親ぁ……!」
完全に外堀が埋まった。
俺が天を仰ぐと、ことねが机の下で俺の足をツンツンと突っついてきた。
「……良かったね、先生」
教科書で口元を隠しているが、隠しきれない笑みが漏れている。
「今日は朝まで補習し放題だね?」
その瞳が、獲物を檻に閉じ込めた猛獣のように怪しく光った気がした。
***
抵抗も虚しく、俺のお泊まりは決定した。
豪勢な夕食(ハンバーグが絶品だった)をご馳走になり、広すぎるお風呂をお借りする。
シャンプーもボディソープも、普段ことねが使っているものだろうか。フローラルの甘い香りに包まれて、俺は湯船の中で顔を赤くした。
(……落ち着け。これは緊急避難だ。やましいことなんて一つもない)
自分に言い聞かせ、パジャマ(お父様の新品を借りた)に着替えて風呂を出る。
通された客間は、一階の和室だった。
清潔な布団が敷かれ、枕元には間接照明。旅館のような風情がある。
「柏木さん、何か足りないものがあったら遠慮なく言ってくださいね」
「ありがとうございます。……何から何まで、すみません」
お母さんが下がると、部屋には静寂――いや、外の暴風雨の音だけが残された。
時計の針は22時を回っている。
二階には、ことねがいるはずだ。
(寝よう。さっさと寝て、明日の朝一で帰るんだ)
俺は電気を消し、布団に潜り込んだ。
だが、緊張で目が冴えて仕方がない。
天井を見上げながら、数Ⅱの公式を羊の代わりに数え始めた、その時だった。
ピカッ――!
ドガァァァン!!
窓の外が真昼のように光り、直後に地響きのような雷鳴が轟いた。
家全体が揺れたような衝撃。近くに落ちたのかもしれない。
「うわっ……!」
心臓が跳ね上がった。
今の音は流石にビビる。
その直後。
――キィィ、と。
客間の襖が、少しだけ開いた。
「…………」
廊下の薄明かりを背に、小さな影が立っていた。
枕を抱えた、淡いピンク色のパジャマ姿の少女。
長い髪を下ろし、少し幼く見えるその姿は――震えていた。
「……せん、せい……」
消え入りそうな声。
ことねだ。
「如月? どうした、こんな時間に」
「かみなり……こわい……」
また、ゴロゴロと低い音が響く。
ビクッ! と彼女の肩が跳ね、裸足の足が一歩、部屋の中に踏み出された。
「だめ……一人じゃ、寝れないの……」
潤んだ瞳が、暗闇の中で俺を捉える。
それは庇護欲をかき立てると同時に、男としての理性を根底から揺さぶる、無自覚な誘惑だった。
「……お願い。入れて?」
俺の返事も待たず、彼女は小走りで俺の布団の横までやってきて、ペタリと座り込んだ。
甘いシャンプーの香りが、鼻腔をくすぐる。
この嵐の夜。
俺の鉄壁の理性は、最大の試練を迎えようとしていた。




