第2話 努力の残骸
指定された住所は、学校から離れた静かな住宅街の一角にあった。
地図アプリが示した場所には、周囲の家よりも一回り大きな、立派な門構えの洋風建築が建っている。
表札には『如月』の文字。
「……ここか」
俺は門の前で足を止め、大きく息を吐き出した。
さっきまでの失恋の余韻が、ここに来るまでの道のりで少しだけ薄れていた。
いや、正確には「これから他人の家に上がる」という緊張感で上書きされただけだが。
インターホンを押すと、しばらくして「はい」という女性の声が聞こえた。
「すみません、私立秀英高校の柏木です。冴島先生に頼まれて、如月さんにプリントを届けに来ました」
「あ……! はい、今開けますね! 少々お待ちください!」
声の主はひどく慌てた様子だった。
数秒後、重厚な玄関扉が開き、エプロン姿の女性が姿を現した。
四十代くらいだろうか、上品だが、その顔には隠しきれない疲労の色が滲んでいる。如月の母親だろう。
「わざわざすみません、柏木さん。学校のお友達が来てくれるなんて……」
「いえ、ついでですので。……あの、冴島先生から『可能ならご本人に直接渡してほしい』と言われているんですが」
俺がそう切り出すと、母親の表情が少し曇った。
「そう、ですよね……。ことねは二階の部屋にいます。ただ、その……最近は私が部屋に入ろうとするだけでも過敏になってしまって」
「無理そうなら、ドアの前に置いて帰ります。とりあえず、行ってみてもいいですか?」
「ええ、もちろん。どうぞ上がってください」
通された廊下は、チリひとつなく磨き上げられていた。
静かすぎる家だ。生活音というものがまるで感じられない。
まるで、この家全体が息を潜めているような、そんな重苦しい空気。
(……息が詰まるな)
俺は案内された階段を上がり、二階の突き当たりにある部屋の前に立った。
母親は階段の下から、祈るようにこちらを見つめている。
俺は軽く一礼してから、部屋のドアに向き直った。
木製の重そうなドア。その向こうに、四月の始業式以来、誰も姿を見ていないクラスメイトがいる。
コンコン、と軽くノックをする。
返事はない。
「如月さん。同じクラスの柏木だ。担任の冴島先生に頼まれて、プリントと課題を持ってきた」
ドア越しに声をかけるが、やはり反応はない。
想定内だ。不登校の生徒がいきなり男子高校生を招き入れるわけがない。
俺はドアノブに手をかけた。鍵はかかっていなかった。
「……入るぞ。置いて帰るだけだから」
一言断ってから、俺はゆっくりとドアを開けた。
入った瞬間。ムッとした空気が流れ出してくる。
部屋の中は、昼間だというのに薄暗かった。厚手の遮光カーテンが完全に閉め切られ、外の光を拒絶している。
目が慣れてくると、部屋の惨状が見えてきた。
ゴミが散乱しているわけではない。
床には分厚い専門書や図鑑、小説が塔のように積み上げられ、足の踏み場もないほどだった。まるで本の要塞だ。
そして、その要塞の中心。
部屋の隅にあるベッドの影に、小さな人影がうずくまっていた。
(……あれが、如月ことねか)
膝を抱え、長い黒髪をカーテンのように垂らして顔を隠している。
俺が入ってきたことには気づいているはずだが、ピクリとも動かない。全身から「関わらないで」という拒絶のオーラを放っている。
俺はため息を飲み込み、彼女の近くにあるローテーブルにプリントを置いた。
「これ、今週の授業範囲だ。数学と英語が進んでるから、教科書の該当ページに付箋を貼っておいた」
彼女からの反応はない。
さっさと帰ろう。そう思った時、ふとローテーブルの上に広げられているノートが目に入った。
俺の足が止まる。
そのノートは、ボロボロだった。
何度も何度も消しゴムをかけたせいで、紙が薄くなり、所々破れている。
筆圧の強い文字で、同じ公式が呪文のように書き連ねられていた。
――ああ、知ってる。この跡を、俺は知ってる。
脳裏に、幼い頃の記憶がフラッシュバックする。
掛け算九九が覚えられなくて泣いた夜。分数の割り算が理解できなくて、悔しさで鉛筆をへし折ったあの日。
『勉強しかできない』なんて言われる今の俺を見て、誰も信じないだろうが――俺は元々、出来の悪い子供だった。
人の何倍も時間をかけないと理解できなかった。だから俺は、人の何十倍も努力した。
教科書を丸暗記するまで読み込み、あらゆる参考書を解き潰し、泥臭く積み上げて今の「学年一位」がある。
(……こいつも、戦ってるのか)
ただサボっているわけじゃない。
彼女は、わからないという壁の前で、爪が剥がれるほど壁を叩き続けているんだ。
その痛みを知っている人間が、このまま見捨てて帰れるわけがない。
俺はしゃがみ込み、彼女の手元にある数学の教科書を覗き込んだ。
「……そこ、教科書の説明じゃ分かりにくいだろ」
俺が声をかけると、彼女の肩がビクリと跳ねた。
俺は構わず、胸ポケットからペンを取り出した。
「教科書を書いているような天才は、凡人がどこで躓くかなんてわかってないんだ。だから説明を飛ばす」
俺はプリントの裏面に、さらさらと図を描き込んだ。
俺自身が昔、ここで躓いて、三日三晩悩んで導き出した「解釈」だ。
「この公式を覚えるより、まずはこの図をイメージするんだ。……文字だけで考えるな。頭の中でアニメーションさせるんだよ。ここが始点で、時間が経つとこう動く」
俺は図に矢印を書き足しながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
相手を見下すわけでも、突き放すわけでもない。
かつての「わからなかった自分」に言い聞かせるように。
「焦らなくていい。ここが一番の難所だから、ここさえ抜ければあとは楽勝だ。……俺も昔、ここで何度も間違えた」
「……え?」
髪の隙間から、困惑したような小さな声が漏れた。
「俺は天才じゃないからな。だから、お前が何で困ってるのか、どこが気持ち悪いのか、なんとなくわかる」
俺はペンを置き、彼女の反応を待った。
沈黙が落ちる。
少し、踏み込みすぎただろうか。
「……悪い。勝手に喋りすぎた。じゃあ、俺はこれで――」
帰ろうと背を向けた、その時だった。
「……まって」
服の裾を、クイクイと引っ張られた。
振り返ると、彼女が顔を上げていた。
顔を覆っていた長い髪が、さらりと肩に流れる。
「――っ」
その素顔を見た瞬間、俺は息をするのも忘れて固まった。
白い。
病的なまでに白い肌は、陶器のように滑らかだ。
そして何より目を引くのは、その瞳。暗闇の中でもはっきりと分かるほど、大きく、澄んだ瞳が、俺をじっと見上げていた。
長い睫毛には、まだうっすらと涙の粒が残っている。
美少女、なんて安っぽい言葉じゃ足りない。
クラスの噂? 根暗?
全部デタラメだ。ここにあるのは、この世のものとは思えないほど完成された美貌だけだ。
彼女――如月ことねは、震える唇を開いた。
「わかった……」
「え?」
「今の説明で……わかったの。教科書を何度読んでも、動画を見てもわからなかったのに……霧が晴れたみたいに、スッと入ってきた……」
彼女の瞳に、熱が宿っていた。
それは恐怖でも拒絶でもない。
暗い海の底で、たった一本の救命ロープを見つけた遭難者のような――強烈な『渇望』と『依存』の色。
「すごい……」
彼女は俺の書いた図と、俺の顔を交互に見つめ、ほう、と熱い息を吐いた。
「魔法みたい……。私、バカじゃないんだ……ちゃんと、わかるんだ……」
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸の奥で、ズキリと何かが疼いた。
今日、俺が一番欲しかった言葉。
『勉強しかできない』と切り捨てられ、無価値だという烙印を押された俺の能力。
それを、この少女は「魔法だ」と称えてくれた。
そして何より――彼女が「わかった」と言ってくれたことが、俺自身の過去の努力さえも肯定してくれた気がした。
彼女は俺の制服の裾を握りしめたまま、上目遣いで俺を見つめた。
その瞳が、不安げに揺れる。
「あの……まだ、帰らないで」
「いや、でも。初対面の男が長居するのも――」
「――もっと教えて……先生」
――先生。
その甘美な響きが、俺の脳髄を痺れさせた。
ただの同級生に向かって「先生」。
それは彼女なりの甘えなのか、それとも敬意なのか。どちらにせよ、その言葉は俺の心に深く突き刺さった。
気づけば、俺は彼女の前に座り直していた。
リナの時は「義務」だった勉強会。
でも今は違う。
目の前の少女は、俺の言葉を一言も聞き漏らすまいと、真剣な眼差しを向けている。
学びたいと願う者に、手を差し伸べない理由はない。
「……わかった。今日は時間があるから、この単元が終わるまでは付き合う」
「ほんと……?」
「ああ。俺の説明について来れるならな。スパルタだぞ?」
俺が少し意地悪く笑うと、如月は花が咲いたように笑った。
「がんばる。……先生がいてくれるなら、私、がんばれる」
その笑顔の破壊力に、俺は思わず顔を背けた。
心臓が早鐘を打っているのを悟られないように。
こうして。
俺と、不登校の美少女による、奇妙な個人授業が幕を開けた。
この時の俺はまだ知らない。
彼女が俺に向ける感情が、単なる「勉強への意欲」だけではなく、もっと深く、重いものへと変わっていくことを。




