第18話 家庭教師というのは建前で
夏休み初日。
心地よい太陽が降り注ぐ朝、俺はクローゼットの前で、かれこれ三十分以上も腕組みをしていた。
「……違う、これじゃない」
ハンガーにかかった服を手に取っては戻し、鏡に合わせては首をかしげる。
普段の俺なら、一番手前にあるTシャツとジーパンを適当に掴んで終わりだ。ファッションになんて興味はないし、そもそも誰に見せるわけでもない。
だが、今日は違う。
「……相手は、あのお嬢様だからな」
今日会うのは、如月ことねだ。
学校では制服姿しか見ていないが、彼女の家は立派だし、何より素材が良すぎる。並んで歩いた時に、俺だけがヨレヨレのシャツでは、彼女に恥をかかせてしまうかもしれない。
そう、これは「生徒に恥をかかせないための配慮」だ。決して、彼女に「カッコいい」と思われたいとか、そういう色気付いた理由ではない。
……断じてない。
俺は自分にそう言い聞かせながら、少し前に母さんが勝手に買ってきた、襟付きの清潔感あるシャツと、スラックスを選んだ。
鏡を見る。うん、悪くない。シンプルだが、不潔感はないはずだ。
ふと、想像してしまう。
制服じゃない如月は、どんな格好で来るのだろうか。
家で見た部屋着やジャージ姿は知っている。フリルたっぷりのブラウスも可愛かった。
だが、今日は「外」だ。夏だ。
涼しげなワンピースか? それとも意外と活動的なショートパンツとか?
そこから伸びる白くて細い手足や、無防備な鎖骨が露わになっていたりしたら――。
「……って、何を考えてるんだ俺は!」
俺は両手で自分の頬をパンッ!と叩いた。
邪念を払え。俺は家庭教師だ。今日は二学期に向けた参考書を買いに行くだけの、あくまで事務的な用事だ。
デートじゃない。デートなわけがない。
元カノ・リナに「つまらない男」と捨てられた俺が、あんな美少女とデートなんて、天地がひっくり返ってもあり得ないのだ。
「よし。……行くか」
俺は深呼吸をして、熱気のこもる外へと足を踏み出した。
***
待ち合わせ場所は、駅前の時計塔広場。
約束の時間は10時だが、俺は15分前には到着していた。
教師たるもの、生徒より先に待機しているのは当然の義務だ。
……決して、楽しみすぎて足が早まったわけではない。
休日の駅前は、多くの人で賑わっていた。
特に目につくのは、やはりカップルだ。
手を繋いで歩く男女、楽しそうにスマホを覗き込む二人連れ。彼らの周りだけ、ピンク色の空気が漂っているように見える。
(……俺は違う。俺は仕事だ)
俺は周囲の幸せオーラから身を守るように、スマホで英単語アプリを開いた。
心を無にするんだ。単語の羅列だけが俺の友達だ。
「――先生ッ!」
その時。
雑踏を切り裂くように、鈴を転がしたような澄んだ声が響いた。
反射的に顔を上げる。
人混みの向こうから、一人の少女がこちらに向かって小走りで駆けてくるのが見えた。
その瞬間、俺の思考回路は完全に停止した。
英単語アプリのことなど、銀河の彼方へ吹き飛んだ。
「お待たせ、先生!」
俺の目の前で止まった彼女――如月ことねは、眩しい笑顔で息を弾ませていた。
破壊力が、桁違いだった。
今日の彼女が着ているのは、淡い水色のワンピース。
清楚で涼しげなデザインが、彼女の透き通るような白い肌をより一層引き立てている。
ウエストはリボンでキュッと絞られ、ふわりと広がるスカートからは、想像通り――いや、想像以上に華奢で綺麗な足が伸びていた。
足元は白いサンダル。綺麗に手入れされた爪先が、夏の日差しを反射して輝いている。
そして頭には、大きなつばの麦わら帽子。
なんだこれ。
避暑地のお嬢様か? それとも映画の撮影か?
周囲の通行人たちが、男女問わず振り返って二度見しているのがわかる。「うわ、何あの美少女」「芸能人?」というざわめきが聞こえてくる。
「先生? ……どうしたの?」
呆然としている俺の顔を覗き込み、如月が不思議そうに首を傾げた。
帽子からこぼれる黒髪が、さらりと揺れる。
シャンプーの香りに、微かな汗の匂いが混じり、それが猛烈に俺の理性を揺さぶった。
「あ、いや……その」
言葉が出てこない。
「似合ってる」とか「可愛い」とか、そんなありきたりな言葉では失礼な気がした。
だが、何も言わないのはもっと不自然だ。俺は乾いた喉を鳴らし、必死に言葉を紡いだ。
「……雰囲気が、違うなと思って。その、すごく……似合ってる」
「ほんと!?」
俺の精一杯の賛辞に、如月はパァァッと花が咲いたような笑顔になった。
「良かったぁ……! 先生に可愛いって思われたくて、朝からクローゼットひっくり返して選んだの!」
「……そうか」
「うん! 先生も、今日の服すてき。なんか、いつもより大人っぽくて……ドキドキする」
彼女は頬をほんのり赤く染め、モジモジと指を組んだ。
やめてくれ。そんな目で見つめられたら、俺の「家庭教師」という仮面が剥がれ落ちてしまう。
俺は健康な男子高校生なのだ。こんな美少女に「ドキドキする」なんて言われて、平然としていられるほど修行を積んではいない。
「……と、とにかく。行くぞ。目的地は書店だ」
「はーい!」
俺は誤魔化すように歩き出した。
だが、すぐに右腕に柔らかい感触と重みが加わった。
「ちょ、如月!?」
「ん? なーに?」
見ると、如月が当然のように俺の腕を抱え込み、しがみついていた。
薄いワンピース越しに、彼女の体温と、柔らかな膨らみが伝わってくる。
「離れろ! ここは学校じゃないんだぞ!」
「そうだよ? 学校じゃないから、先生や他の生徒の目を気にしなくていいじゃん」
「そういう問題じゃない! 人目があるだろ!」
「迷子になったら大変でしょ? 今日は人が多いし……先生とはぐれたら、私、泣いちゃうよ?」
彼女は上目遣いで、うるうるとした瞳を向けてきた。
確信犯だ。絶対に泣く気なんてないくせに、俺がこの表情に弱いことを完全に熟知している。
「……はぁ。わかった、今回だけだぞ」
「えへへ、先生だいすき!」
俺が諦めて力を抜くと、彼女は嬉しそうにさらに強く腕を絡めてきた。
周囲の男性陣からの「あの野郎、爆発しろ」という殺気が、物理的な圧力となって背中に突き刺さる。
すまん、同志たちよ。俺も爆発しそうだ。心臓が。
俺たちは腕を組んだまま(傍から見れば完全にバカップルとして)、駅前の大型ショッピングモールへと向かった。
***
書店に入ると、冷房の効いた空気が火照った体を冷やしてくれた。
だが、密着している右腕だけは熱いままだ。
「参考書コーナーはこっちだ」
「はーい」
俺たちは学習参考書のコーナーへ向かった。
目的の棚の前に立つと、ようやく彼女の手が離れた。正直、ホッとしたような、少し寂しいような、複雑な気分だ。
「二学期からは数Ⅱの微積が入ってくる。まずは基礎から固めるために、このシリーズがいいだろう」
俺は平積みされた参考書を一冊手に取った。
すると、如月が俺の隣に並び、覗き込んでくる。
「ふんふん……結構分厚いね」
「図解が多いからな。文字だけのやつよりイメージしやすいはずだ」
「先生が教えてくれるなら、文字だけでもわかるよ?」
「俺がいない時でも勉強できるようにだ」
「むぅ……先生がいない時間なんて作りたくないのに」
彼女は不満そうに唇を尖らせたが、素直にその本を受け取った。
「じゃあ、これは『先生の分身』として大事にするね」
「本だぞ。書き込んで使い潰してこそ意味があるんだが」
「書き込むよ。ハートマークとか」
「勉強しろ」
俺が軽く手刀を入れると、彼女は「あ痛っ」と大袈裟に頭を抱え、クスクスと笑った。
その仕草の一つ一つが、いちいち可愛い。
本棚の間の狭い通路。静かな空間。
二人で並んで本を選んでいると、まるで本当にデートをしているような錯覚に陥る。
(……いや、錯覚じゃない)
俺はふと気づいてしまった。
リナと付き合っていた頃、こんな風に本屋に来たことがあっただろうか。
いや、ない。
彼女は「本屋なんてつまんない」「足痛い」と言って、いつもカフェで待っていた。俺が一人で選び、一人で買って、彼女に渡すだけだった。
一緒に選んで、一緒に悩んで、笑い合う。
こんな当たり前のことが、こんなにも楽しいなんて。
「先生? この英語の問題集はどうかな?」
如月がまた別の本を持ってくる。
そのキラキラした瞳を見て、俺は自然と口元が緩むのを止められなかった。
「ああ、それもいいな。……如月は頑張り屋だから、きっとすぐに終わらせるよ」
「えへへ。先生に褒められるためなら、私、なんだってできるよ」
彼女の笑顔が、胸の奥に染み渡る。
ああ、認めてしまおう。
参考書を買うというのはただの口実だ。
俺はただ、彼女と一緒にいたかっただけなのだ。
生徒と教師という一線を引いているつもりで、一番この時間を楽しみにしていたのは、俺自身なのかもしれない。
――そんな、幸せな時間を噛み締めていた時だった。
「……あれぇ? もしかして柏木くん?」
書店の静寂を破る、粘着質で聞き覚えのある声。
俺の背筋が一瞬で凍りついた。
振り返りたくない。だが、その声の主は、コツコツとヒールを鳴らして近づいてきた。
「やっぱり! 奇遇だねー! こんなところで会うなんて!」
そこに立っていたのは、派手なミニスカートを履いた愛川リナと、気怠そうに荷物を持たされている長谷川だった。
俺たちの「課外授業」という名のデートに、最悪の邪魔者が乱入してきた瞬間だった。




