第12話 放課後の図書館勉強
放課後の図書室。
期末テスト一週間前ということもあり、普段は閑散としている閲覧席も、今日ばかりは生徒たちで埋め尽くされていた。
その一角、窓際の席に俺たちはいた。
「……先生。ここの古文の解釈、これで合ってる?」
「ん、どれ……。ああ、そこは係り結びの法則だから、意味が強めになるんだ。だから訳し方はこうなる」
「なるほど……! 先生凄い、わかりやすい」
如月ことねは、感嘆の声を漏らしながら、俺の二の腕に自分の肩をちょんと押し付けてきた。
近い。
シャンプーの良い香りが鼻をくすぐるし、彼女の体温が制服越しに伝わってくる気さえする。
「……おい、如月。近いぞ。ここは学校だ」
「……だって、小声じゃないと迷惑でしょ? これくらい近づかないと聞こえないよ、先生」
如月は悪戯っぽく微笑み、机の下で、俺の足に自分の足をトンと当ててきた。
周囲の男子生徒からのあるかは分からない「爆発しろ」という視線が突き刺さる。
だが、俺は自分に言い聞かせた。
これはあくまで「指導」だ。彼女は不安だから身を寄せているだけ。俺に男としての魅力を感じているわけではない。そう、これは雛鳥の刷り込みだ。
彼女が一人で飛び立つまで俺は親鳥として彼女のそばにいていなければいけないのだ。
俺が必死に理性を保ちながら解説を続けていると、図書室の入り口が騒がしくなった。
「ねえ、だからここ教えてってば! 長谷川くん!」
「あーもう、うるせーなリナ。俺もわかんねーって言ってんだろ」
愛川リナと、サッカー部の長谷川だ。
テスト勉強をしに来たようだが、リナは地声が大きく、静かな図書室では悪目立ちしていた。
図書委員が注意しようと腰を浮かせたが、カースト上位の二人に怯んで座り直してしまう。
二人は空いていた席――運悪く、俺たちの斜め向かいの席に座った。
「うわ、最悪……」
リナが俺たちに気づき、露骨に顔をしかめた。
だが、すぐに気を取り直したように、大袈裟な声で長谷川に甘え始めた。
「ねーえ、長谷川くん。この数学のとこわかんないー。教えてよー」
「ん? 貸してみ……あー、これ無理。俺、数学捨ててるから」
「えーっ!? だってここテスト範囲だよ? 赤点取ったらヤバいって!」
「知らねーよ。っつーか、なんで俺が勉強教えなきゃなんねーんだよ。ダルい」
長谷川はスマホを取り出し、ゲームを始めてしまった。
リナが唖然としている。
無理もない。これまでは俺が、彼女が理解できるまで根気強く、噛み砕いて教えていたのだから。
「彼氏なら教えてくれて当たり前」という彼女の常識は、長谷川には通用しない。
「……っ」
リナが唇を噛み、チラリとこちらを見てきた。
その視線の先で、俺は如月の質問に答えていた。
「ここは補助線を引くと見えてくる。ほら、この三角形とこの三角形、相似だろ?」
「あ、ほんとだ! わかった、これなら解ける!」
「そうそう、その調子だ。如月は勘がいいな」
「へへ……先生の教え方が上手いからだよ」
さらさらと答えを書き込む如月と、それを穏やかに見守る俺。
対照的に、何も進まないノートの前で、スマホゲームに没頭する彼氏を睨むリナ。
その「格差」は、誰の目にも明らかだった。
リナの視線が、俺の手元にあるノートに釘付けになっているのがわかった。
俺が如月のために書いた、要点まとめメモだ。
かつてはリナのために作っていた、あの魔法の紙切れ。
あれさえあれば。今、リナが喉から手が出るほど欲している「正解」が、そこにある。
リナが意を決したように、席を立とうとした。
プライドをかなぐり捨てて、俺に声をかけようとしたのだろう。「ちょっと教えてよ」と。
だが。
それより早く、如月が動いた。
「……先生」
如月はわざとらしく身を乗り出し、俺とリナの間の視線を遮るようにして、俺の顔を覗き込んだ。
「ここ、もう一回教えて? ……先生の声、もっと近くで聞きたい」
「お前なぁ……わかったから、耳貸せ」
俺が彼女の耳元で解説を囁くと、如月はうっとりとした表情で頬を染め、俺の腕にしがみついた。
完全に「二人の世界」だ。
リナが入る隙間など、一ミリもない。
「…………!」
リナは顔を真っ赤にして、ガタンと椅子を鳴らして立ち上がった。
「……帰る!」
「あ? もうかよ。じゃあゲーセン行くか?」
「行かない! バカ!」
リナは長谷川を置いて、ドスドスと足音を立てて図書室を出て行ってしまった。
静寂が戻る。
残された長谷川は「なんだよあいつ」と舌打ちし、またゲームに戻っていた。
「……ふふ」
隣で、如月が小さく笑った気がした。
見ると、彼女は教科書の隅に小さく文字を書いていた。
『先生は、私だけのもの』
……ん? 今、なんか怖いこと書かなかったか?
俺が二度見すると、そこには数式が書かれているだけだった。
……見間違いか。最近、勉強のしすぎで目が疲れているのかもしれない。
「先生、どうしたの?」
「いや……なんでもない。よし、この章が終わったら今日は解散だ」
「えー。家でも続きやろうよぅ」
「テスト期間中は学校でのみ指導する。メリハリが大事だ」
俺が厳しく言うと、如月は不満そうに頬を膨らませたが、その瞳はどこか楽しげだった。
図書室の窓の外、夕焼けが校庭を赤く染めている。
俺たちの「初陣」となる期末テストは、もう目の前まで迫っていた。




