第10話 チャイムがなるまで
翌朝。
俺はいつもより一時間早く起き、念入りに制服のシワを伸ばした。
鏡の前でネクタイを締め直す。自分のためではない。
今日から登校する「生徒」に、恥をかかせないためだ。
「……よし」
気合を入れ直し、俺は家を出た。
向かう先は学校ではない。如月家だ。
朝日が差し込む住宅街を歩き、あの大きな門の前に立つ。
インターホンを押す指が少し震えた。
本当に出てくるだろうか。昨日は勢いで「行く」と言ったものの、一夜明けて恐怖がぶり返している可能性も十分にある。
しかし、その不安は杞憂だった。
ガチャリ、と重厚な音がして、ドアが開く。
「……おはよう、先生」
そこに立っていた姿を見て、俺は思わず息を呑んだ。
眩しかった。
光沢のある黒髪は丁寧にブローされ、背中で艶やかに揺れている。
シワひとつないブレザー。短すぎず、長すぎないスカートから伸びる白く華奢な足。
部屋着姿やフリルの服も可愛かったが、制服姿の彼女は、なんというか「破壊力」が違った。
そして何より、顔だ。
いつもは顔の半分を隠すように重たく下ろされていた前髪は、可愛らしいヘアピンで留められ、スッキリと額が出されている。
そのおかげで、今まで影に隠されていた白雪のような肌や整った鼻筋、そして何より――宝石のような瞳が、誰の目にも明らかな形で露わになっていた。
深窓の令嬢。学園のアイドル。
そんな言葉が陳腐に聞こえるほど、彼女は完成されていた。
「……変、かな?」
俺が黙り込んでしまったせいで不安になったのか、如月がスカートの裾をぎゅっと掴んだ。
「いや……似合ってる。正直、見違えたよ」
「ほんと? 先生に褒められるなら……頑張って勇気出した甲斐があった」
彼女ははにかむように微笑んだ。
その後ろで、母親がハンカチを目に当てて泣いているのが見えた。
俺は母親に一礼し、如月に向き直った。
「行こうか。……無理だと思ったら、すぐに帰っていいからな」
「ううん。帰らない。先生がいる場所が、私の居場所だから」
彼女は強い瞳でそう言うと、俺の隣に並んだ。
***
通学路。
駅に向かうにつれて、秀英高校の生徒の姿が増えてくる。
如月の肩が、強張っていくのがわかった。
「……うぅ」
彼女の足が止まる。
視線。ヒソヒソ声。それらが彼女のトラウマ――「見掛け倒し」「要領が悪い」と笑われた記憶を刺激しているのだろう。
彼女の顔色が青ざめ、呼吸が浅くなっている。
(やっぱり、まだ早かったか……?)
俺が声をかけようとした時だった。
如月の手が、迷子のように空を彷徨い――俺の制服の袖を、強く、痛いほどに掴んだ。
「……先生」
「如月?」
「手……繋いでて。離さないで」
それは、切実なSOSだった。
男女が学校で手を繋ぐなんて、誤解を招く行為だ。
だが、今の彼女にとって俺は「教師」であり「命綱」だ。溺れかけている生徒の手を振りほどく教師がどこにいる?
「……わかった」
俺は彼女の冷たい手を、しっかりと握り返した。
華奢で、壊れそうな手。
俺が握った瞬間、彼女の震えが少しだけ収まった。
「……あったかい」
「俺が前を歩く。お前は俺の背中だけ見てればいい。周りの雑音なんて気にするな」
「うん……先生がいてくれるなら、怖くない」
俺たちは手を繋いだまま、学校への坂道を登り始めた。
周囲の生徒が「え、あれ誰?」「柏木じゃね?」「隣の子、めっちゃ可愛くない?」とざわつき始めたが、俺は無視した。
俺の役目は、彼女を無事に教室へ送り届けることだけだ。
***
そして、運命の時は訪れた。
二年A組の教室。
朝のホームルーム前の喧騒。
「あーあ、マジだるい。今日の英語の予習してないしー」
愛川リナは、気怠そうに机に頬杖をついていた。
昨日の柏木湊との口論のせいだろうか、機嫌は最悪だ。
隣の長谷川とも会話がなく、周囲に当たり散らしている空気が漂っている。
「ねえ、柏木まだ来てないの? あいつ、昨日偉そうなこと言っておいて遅刻とか笑えるんだけど」
リナが大きな声で嘲笑った、その時だった。
ガラララ。
教室のドアが開いた。
一瞬で教室が静まり返る。
入ってきたのは、柏木湊。
そして――彼の手を握りしめ、背中に隠れるようにして入ってきた、一人の少女。
「……え?」
誰かが息を呑んだ音が、やけに大きく響いた。
教室中の視線が、その少女に釘付けになる。
透き通るような白い肌。
宝石のように大きな瞳。
芸能人ですら霞むほどの、圧倒的な美貌。
「だ、誰……?」
「転校生か?」
「いや、あれ……不登校の如月さんじゃ……?」
ざわめきが波紋のように広がる。
その中心で、リナだけが口をポカンと開けて固まっていた。
(嘘……でしょ? あれが、あの陰気な引きこもり?)
リナの知っている「如月ことね」の面影はそこにはない。
かつて「見掛け倒し」と笑った少女は今、誰もが羨む美しさを纏って君臨していた。
だが、それ以上の衝撃がリナを襲う。
その美少女が、湊の手を恋人のように握りしめていることだ。
「……柏木?」
リナが震える声で名前を呼ぶ。
だが、彼は彼女を一瞥もしなかった。
彼はことねの手を引いたまま、教室を堂々と横切り、自分の席――リナの席のすぐ近くへと向かう。
「ここが俺の席だ。如月の席は、その隣」
「うん……」
ことねは彼の手を離そうとしない。
クラス中の視線が集まる中、彼女は湊のことを見上げ、とろけるような甘い声で言った。
「先生。……チャイムが鳴るまで、手、離さないでね?」
その言葉は、静まり返った教室に爆弾のように投下された。
先生? 手?
クラスメイトたちが混乱する中、リナの顔色が屈辱で真っ赤に染まっていくのを、湊は視界の端で冷静に捉えていた。




