第1話 便利な道具の廃棄処分
「ねえ、柏木くん。私たち、もう終わりにしない?」
放課後の教室。
夕焼けが差し込む窓際で、俺――柏木湊は、付き合って三ヶ月になる彼女、愛川リナから別れを告げられた。
唐突な言葉に、思考が一瞬停止する。
だが、俺の口から出た言葉は、自分でも驚くほど冷静なものだった。
「……理由を聞いても?」
「理由? うーん、なんて言うかさ。柏木くんって『勉強しかできない』じゃん?」
リナは自分の爪を退屈そうに眺めながら、フッと鼻で笑った。
「一緒にいても会話は真面目すぎてつまんないし、デートも参考書選びとか図書館とかばっかり。正直、息が詰まるんだよね」
「それは……リナが『今度のテストで赤点を取ると留年しちゃう』って泣きついてきたからだろ? 俺は君のために時間を割いただけだ」
「あー、はいはい。そういう恩着せがましいところが無理って言ってんの」
ドサッ、と乾いた音が響く。
リナは俺の机の上に、一冊のノートを放り投げた。
それは昨晩、俺が徹夜で作った『期末テスト対策・英語&数学完全予想問題集』だった。
リナの苦手な範囲を過去問から分析し、出る確率の高い要点だけを抽出した自信作だ。これさえあれば、平均点は余裕で取れるはずだった。
「これ、もういらないから。新しい彼氏はサッカー部のエースだし、柏木くんみたいにガリ勉じゃないけど、一緒にいて超楽しいの。私のことわかってくれるし」
サッカー部のエース。ああ、最近よく話していた長谷川のことか。
確かにあいつは派手で、クラスの中心人物で、俺のような地味な眼鏡男子とは正反対の人種だ。
「それにさ、もうテスト勉強なんてしなくていいじゃん? 長谷川くんが『勉強なんて社会に出て役に立たねーよ』って言ってたし、私もそう思うし」
リナは勝ち誇ったような笑顔を浮かべ、鞄を肩にかけた。
「ま、そういうわけだから。今まで私の課題やってくれてありがとね、柏木くん。せいぜい勉強だけ頑張ってれば?」
じゃあね、と軽い手つきで手を振り、彼女は教室を出て行った。
廊下からはすぐに、「あ、待ってよ長谷川くーん!」という甘ったるい声が聞こえてくる。
残されたのは、俺と、放り出されたノートだけ。
俺はため息をつき、使い古されたそのノートを手に取った。
「……役に立たない、か」
俺は柏木湊。
容姿は十人並み、運動神経も平凡。唯一の取り柄は勉強だけ。
入学以来、学年一位の座を一度も譲ったことはないが、それだけの男だ。
リナにとって俺は、ただの『便利な解答作成マシーン』でしかなかったのだろう。
恋人という名の契約期間は満了し、より高性能で、より見栄えの良いブランド品に乗り換えられた。ただそれだけの話だ。
「……バカバカしい」
胸の奥に、どす黒い感情が渦巻く。
悔しさがないと言えば嘘になる。だが、それ以上に強烈な徒労感が俺を襲っていた。
誰かのために頑張るのは、もうやめよう。
どうせ俺には勉強しかない。なら、とことん一人で突き詰めてやる。他人なんて不確定な要素に振り回されるのは懲り懲りだ。
俺はノートを鞄に乱暴に突っ込んだ。
もう帰って、英単語でも覚えている方がマシだ。
そう決意して、教室を出ようとした時だった。
******
「――柏木。なんだその、この世の終わりみたいな辛気臭い顔は」
教室の入り口に、一人の女性が腕を組んで立っていた。
白衣をラフに着崩し、長い黒髪を後ろで無造作に束ねた女性。
担任の冴島響子先生だ。
担当科目は化学。切れ長の目が特徴的なクールビューティーで、男女問わず生徒からの人気がやたらと高い。
いつも気怠げに見えるが、生徒の悩みには真摯に向き合う――そんな『デキる大人』だ。
「……冴島先生。別に、いつも通りの顔ですよ」
「嘘をつけ。お前はポーカーフェイスのつもりだろうが、図星を突かれた時は右の眉がピクリと動くんだよ」
冴島先生はカツカツとヒールを鳴らして近づいてくると、俺の眉間をデコピンした。
「いっ……」
「愛川と何かあったか? さっき、あいつが上機嫌で廊下を走っていくのを見たが」
「……鋭いですね」
「伊達に教師やってないさ。ま、あいつはお前の価値を理解するには、少しばかり脳の容量が足りなかったようだな」
先生は白衣のポケットから棒付きキャンディを取り出すと、「ほら、糖分補給」と俺に投げ渡してきた。
こういう子供扱いするようなところがなければ、もっとカッコいいのだが。
「慰めなら間に合ってますよ」
「慰めじゃない。これから働いてもらうための先行投資だ」
「は?」
「柏木。お前、今暇だろ? 部活もやってないし、彼女とのデートの予定も消滅したし」
「……言い方」
デリカシーはないが、核心を突いてくる。
先生はニヤリと笑うと、一枚のプリントと分厚い封筒を俺に突きつけた。
「頼みがある。お前にしか頼めない仕事だ」
「俺にしか?」
「ああ。クラス一の秀才であるお前にしか無理だ」
先生の言葉に、俺は少しだけ毒気を抜かれた。
『勉強しかできない』と振られた直後に、『秀才だから頼みたい』と言われるのは、なんとも皮肉が効いている。
プリントには、住所と地図。そしてある生徒の名前が書かれていた。
「如月ことね……?」
その名前に、俺は眉をひそめた。
四月の始業式以来、一度も学校に来ていない『不登校児』だ。
クラスの噂では、対人恐怖症だとか、幽霊部員ならぬ幽霊生徒だとか言われている。
「この子の家に、このプリントと課題を届けてやってくれ。ついでに、勉強の遅れがどの程度か見てやってほしい」
「先生が行けばいいじゃないですか。生徒指導は担任の仕事でしょう」
「私が行くとだな、向こうの母親が恐縮して土下座しかねないんだよ。私の見た目が怖いせいか?」
「自覚あったんですね」
「やかましい。……とにかく、同級生のお前なら、向こうも少しは気が楽だろうと思ってな」
先生はふっと表情を緩め、真面目な声色になった。
「あいつ、学校に来る気はあるみたいなんだ。ただ、きっかけがないだけで。……お前のその堅苦しい石頭なら、あいつの固く閉じた扉もノックできるかもしれない」
「……褒めてるんですか、それ」
「最大限の賛辞だ。頼んだぞ、柏木。これは『特別補習』として内申点にも色をつけてやるから」
先生はポンと俺の肩を叩くと、白衣を翻して職員室へ戻っていった。
「はぁ……」
俺は手元の地図を見下ろした。
元カノに振られた直後に、不登校児の世話係か。
ついてない時はとことんついてない。
地図を見る限り、場所はここから徒歩二十分ほどの距離だ。
断る気力もなかった俺は、渋々ながら鞄を持ち直した。
どうせ家に帰っても、あのノートを見て惨めな気持ちになるだけだ。
暇つぶしだと思えばいい。
「……行くか」
重い足取りで、俺は学校を後にした。
この時の俺はまだ知らない。
この気まぐれな寄り道が、俺の人生を大きく変えることになるなんて。
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