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第三話:僕の荷物と、世界の雑音

 雨はまだ、降り続いていた。


 酒場の扉を抜け、街の石畳を濡らす冷たい滴が、僕の肩を叩く。でも、不思議と寒さは感じなかった。僕の心は、まるで雲一つない快晴だったからだ。


 ああ、すっきりした。


 貸し借りをきっちり精算するのは、人として当然の義務だ。

 僕がどれだけ彼らのことを想っていたか、その正しさを、あの三人は今頃、その魂で感じ始めていることだろう。彼らが僕の与えた「贈り物」の意味を真に理解し、人として成長してくれる日が来るのが楽しみだ。


 僕の愛すべき、最初の仲間たち。僕が正してあげなければ、彼らはきっと間違った道を進み続けるところだった。危ない、危ない。


 そんな自己満足と、世界への貢献を実感する幸福感に浸りながら、僕は雨の中を歩いていた。これからどうしようか。まずはこの街を出て、王都に向かうのがいいだろうか。僕ほどの才能があれば、どこへ行っても引く手あまたのはずだ。僕の『魔法付与エンチャント』は、ただの強化魔法じゃない。世界の理そのものに干渉する、奇跡のスキルなのだから。


 そこまで考えて、ふと、僕は足を止めた。

 一つの、極めて重要な問題に思い至ったのだ。


 ……荷物、宿に全部置いてきちゃったな。


 着替えも、研究ノートの予備も、なけなしの金貨も、全部。あの酒場に持ってきていたのは、今日使う予定だったポーションの材料くらいだ。

 ケインが最後に差し出したあの革袋を受け取っておけばよかったか? いや、だめだ。あれは彼らの罪悪感から生まれた「手切れ金」だ。そんな汚いもの、僕のプライドが許さない。


 しかし、困った。

 宿には、まだ彼らがいるかもしれない。追放された手前、どの面を下げて戻ればいいんだ。いや、僕の理論は完璧だったのだから、僕が顔を合わせづらい理由は一切ない。むしろ、僕の正しさを理解できず、一方的に関係を断ち切った彼らの方が、よっぽど僕に顔を向けられないはずだ。


 そうだ。僕が今戻るのは、彼らのためにならない。きっと彼らは、僕の寛大さに触れて、自分たちの過ちを恥じ、精神的に不安定になってしまうだろう。それはあまりにも可哀想だ。うん、少し時間を置いてからにしよう。それが優しさというものだ。


 僕は、冒険者ギルドの大きな建物の、雨を凌げる屋根の下に移動した。壁に寄りかかって腕を組み、思索にふける。どうしたものか。いっそ、荷物は諦めて新しいものを買うか? いや、あの研究ノートだけは惜しい。僕の天才的な閃きが、いくつも書き留められているのだ。世界の損失だ。


 そんなことをつらつらと考えているうちに、街の向こう側から、何やら騒がしい音が聞こえてきた。複数の人間の、甲高い悲鳴。何事だろうか。ゴブリンでも街壁を越えてきたのかもしれない。だとしたら、衛兵や他の冒険者の出番だ。今の僕は、次のステージに進むための準備期間なのだから、些事で動くべきではない。


 悲鳴は、断続的に続いている。

 ギルドの中から、屈強な冒険者たちが何人か、慌ただしく駆け出していくのが見えた。


 ……ん?

 待てよ。


 街がこれだけ騒がしいということは、当然、宿にいる彼らの耳にも届いているはずだ。ケインのことだ、正義感を発揮して様子を見に行くに違いない。リリアとセレスも、それに続くだろう。


 つまり、宿の部屋は、今頃がら空きなのでは?


 なんて幸運なんだ! やはり、正しい行いをしている人間には、世界が味方してくれるらしい。僕は自分の幸運に感謝しながら、ギルドの屋根の下から飛び出した。目指すは、僕たちが定宿にしていた「木漏れ亭」だ。


 水たまりを蹴散らし、僕は宿へと急いだ。

 宿の扉を開けると、受付のカウンターにいた宿の看板娘、アンナさんがびくりと肩を震わせた。彼女の顔は、なぜだかひどく引き攣っている。僕の姿を見ると、まるで幽霊でも見たかのように目を見開き、喉を震わせている。


「やあ、アンナさん。忘れ物をしちゃってね」

 僕がにこやかに言うと、彼女は「あ、あ……」と意味のない声を発するだけで、何も返事をしない。失礼な子だ。

 まあ、いい。僕の偉大さは、凡人にはすぐには理解できないものだ。


 僕は受付を通り過ぎ、僕たちの部屋がある二階へと続く階段を駆け上がった。

 そこで、僕は再び足を止める。

 階段から、二階の廊下にかけて、びしょびしょの足跡が続いている。まるで、ずぶ濡れの人間が、慌ててここを駆け抜けていったかのように。


 待てよ。この足跡は……僕たちの部屋の前まで続いている。

 彼らは、街の騒ぎを見に行ったのではなかったのか? それどころか、この足跡の付き方からすると、むしろ大慌てで部屋に駆け込んできたように見える。


 一体、何があったんだ?

 僕が首を傾げ、深い思考の海水浴を楽しみ始めた、まさにその瞬間だった。


 目の前の、僕たちの部屋の扉が、ゆっくりと内側に開いた。


 現れたのは、ケインだった。

 その顔には、先ほどまでの虚無とは違う、明確な色が浮かんでいた。どす黒く燃えるような、純粋な憎悪の色が。その瞳が、廊下に立つ僕の姿を、獲物を捉えた肉食獣のように、まっすぐに射抜いた。


「―――アインッ!!」


 地を這うような唸り声と共に、ケインは鞘から剣を引き抜き、僕に向かって突進してきた。それは、いつもの彼の洗練された剣技ではなかった。ただ、目の前の敵を殺すことだけを目的とした、怒りに任せた、獣のような突きだった。


「うおっ!?」


 咄嗟に、僕は体を横にひねった。鋼の切っ先が、僕の鼻先をかすめ、背後の壁に突き刺さる。ミシリ、と木材の軋む音が響いた。


 危なかった。

 『魔力付与エンチャント』をかける隙すらない。

 冷や汗が、背中をすっと流れ落ちる。


 なんてことだ。僕が与えた「停滞」の贈り物は、彼の精神をここまで昂らせる効果もあったのか? 素晴らしい。だが、少し危険だ。今の攻撃、もしリリアの援護魔法でもあったら、いくら僕でも避けきれなかったかもしれない。彼女が杖のことでまだいじけていてくれて、本当に幸運だった。


「てめえ……よくも、よくも俺たちの前に……!」

 壁から剣を引き抜いたケインが、再び殺意を漲らせて向き直る。

 まずい。今の僕は丸腰だ。ここで彼とまともにやり合うのは、合理的じゃない。僕は身を翻し、彼らが出てきたばかりの部屋の中へと駆け込んだ。


 ケインも、すぐさま後を追って部屋に飛び込んでくる。そして、僕が振り返るより早く、背後から扉を蹴り閉めた。


 狭い室内に、二人の荒い息遣いだけが響く。

 窓は閉ざされ、灯りは蝋燭だけ。リリアは部屋の隅からこちらを睨んでいる。

 彼女は一体どうしたんだ? 杖が壊されただけで、ここまで拗ねるとは、流石に予想外だ。


 こんな部屋では折角の夜景が台無しだ。いや、今日は雨だったか。


「な、何をするんだい、ケイン。そんなに僕の贈り物が嬉しかったのかい? 感謝の表現にしては、少し乱暴すぎるんじゃないか?」

 僕がジョークを飛ばしても、彼の表情は変わらない。彼はゆっくりと僕との距離を詰め、その切っ先を、僕の喉元に突きつけた。ひやり、とした感触。


「……元に、戻せ」

 ケインが、歯の隙間から絞り出すように言った。


「セレスを、リリアを……俺を、元に戻せ……! 今すぐだ!」


「元に戻せ? 何を言っているんだい」

 僕は、心底不思議に思って首を傾げた。無論、剣先が喉に食い込まない程度に。


「僕は、君たちに『罰』を与えたんじゃない。『罰』ではなく『精算』を、そして『救済』を与えたんだ。君たちが自分たちの罪と向き合い、正しい役割に戻るための、最高の贈り物だろう? なぜ、それを手放そうとするんだい。理解できないな」


 僕のあまりにも純粋無垢な問いかけに、ケインの顔が絶望と怒りで歪んだ。

「お前は……お前は、やっぱり……ッ!」


 ケインの腕に、力がこもる。剣先が、僕の皮膚をわずかに切り裂いた。


 ああ、やはり、言葉では伝わらないのか。

 凡人を導くというのは、これほどまでに骨が折れることなのか。


―――その、時だった。


「ひっ……ひっ……ぁ……っ」


 部屋の奥、ベッドの上から、か細い呻き声が聞こえた。

 セレスだ。

 その声に、ケインの殺気が、ほんの一瞬、揺らいだ。彼の瞳から、僕への憎悪がわずかに薄れ、ベッドに向けられる。その目に宿ったのは、仲間を想う、深い悲しみと、無力感。


―――ハッ。

 僕は、その隙を、見逃さなかった。


(ああ、セレス。君は、やはり僕の理解者だったんだな。この愚かな男を止めるために、声を上げてくれたんだね)


 僕は、ケインの揺らいだ剣を、左手で思い切り横に払いのけた。

 金属が皮膚を裂く痛みが走ったが、構わない。ケインが体勢を崩したその一瞬で、僕は床に置いてあった自分の革袋を右手でひったくる。


「ケイン! 君も、早く本当の自分に気づけるといいね!」


 僕は、捨て台詞を吐きながら、部屋の扉に手をかけた。背後で、ケインが我に返ったように「待て!」と叫ぶ声がしたが、もう遅い。


 僕は扉を開け放ち、廊下を駆け抜け、階段を転がり落ちるようにして宿から飛び出した。


 受付のアンナさんの悲鳴が聞こえた気がしたが、振り返っている暇はない。


 雨の中を、ただひたすらに走る。

 信じられない。彼らは、僕に刃を向けてきた。僕という、彼らの恩人に対して。

 彼らは、僕が思っていた以上に、どうしようもなく壊れてしまっているらしい。


 僕の道は、決まった。

 彼らのような、救いようのない人間を導くのは、もうやめだ。

 僕は、僕の正しさを理解できる、新しい世界へと進む。


 もし、彼らが再び僕の前に現れるというのなら。

 その時は……。

 もっと、本格的に「修正」してあげるしかないだろう。


 僕は、雨に打たれながら、強く、強く、そう決意した。



 

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