第二話:壊れた世界、残された僕ら
ぱたん、と。
酒場の安っぽい扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。つい今まで、自分勝手な理論を朗々と語っていた男――アインが去った後の静寂は、まるで深海の水圧のように三人の肩に重くのしかかる。
雨音だけが、世界の終わりを告げるように、窓ガラスを叩き続けていた。
ケインは、まだアインが立っていた空間を睨みつけたまま、動けずにいた。
『経験値1000分の1』『魔力消失』『感度3000倍』。戯言だ。
負け犬の遠吠えにすぎない。そう頭では理解しようとしているのに、背筋を這い上がってくる悪寒が消えなかった。あの男の、全てを理解したかのような純粋な笑みが、瞼の裏に焼き付いて離れない。
リリアは、師匠の形見だった杖の、無残に折れた先端をテーブルの上で握りしめていた。怒りで頭が沸騰しそうだ。二年だ。二年もの間、あの男の奇行と、常軌を逸した言動に耐えてきた。いつか分かり合えると信じていた自分が、心底愚かしく思える。だが、それももう終わりだ。二度と会うこともない。そう、これで良かったんだ。
静寂を、最初に引き裂いたのは。
「―――ぁ、きゃ、あ、あ、あああッ!!」
聖女セレスの、絶叫だった。
それは、痛みとも恐怖ともつかない、魂そのものが引き裂かれるような悲鳴。びくりと体を硬直させた彼女は、次の瞬間、椅子から転げ落ちるように床に崩れ落ちた。
「セレス!」
「おい、どうした!」
ケインとリリアは、同時に我に返り、彼女に駆け寄った。床にうずくまるセレスの体は、まるで高熱に浮かされたように汗でぐっしょりと濡れ、浅く速い呼吸を繰り返している。
「大丈夫か、どこか痛むのか!」
ケインが彼女の肩に手を伸ばした、その瞬間。
「さ、さわらないでッ!!」
今まで聞いたこともないような、拒絶の叫び。セレスはケインの手を、まるで灼熱の鉄に触れられたかのように、激しく振り払った。その拍子に、彼女の身体がびくんと大きく跳ねる。
「ご、ごめんなさ……でも、だめ……服が、肌が、髪が……ぜんぶ、ぜんぶ痛い……くるしい……!」
ぜえ、ぜえ、と途切れ途切れに喘ぐ彼女の顔は、恥ずかしさや怒りではない、純粋な苦痛によって真っ赤に染め上がっていた。その尋常ではない様子に、ケインは思わず怯み、後ずさる。なんだ、これは。病気か? いや、状態異常か? だが、アインが何かを盛るような素振りは――。
「……まさか」
傍らで、リリアが青ざめた顔で呟いた。彼女の紫色の瞳が、絶望的な確信に揺れている。
「『感度3000倍』……」
アインが最後にセレスに放った、呪いの言葉。
リリアの頭脳が、高速で現象と理論を結びつけようと試みる。感度。それは触覚だけを指すのか? いや、五感全てだとしたら? この部屋の埃っぽい空気、ランプの光、自分たちの声、湿った衣服の感触……それら日常の全てが、三千倍の強度を持った「刺激」として、セレスの神経を焼き続けているとしたら?
それは、もはや拷問ですらない。意識を保っていること自体が奇跡的な、終わりのない地獄。
「……セレスは、今……」
リリアは、その先の言葉を口にすることを、本能が拒絶した。そんな非人道的なことが、人間のスキルで可能なのか? いや、あいつは……アインは、人間なのか?
「リリア、解毒魔法を! 何でもいい、彼女の苦痛を和らげるんだ!」
ケインの叫び声で、リリアは思考の渦から引き戻された。
そうだ、自分は魔術師だ。こんな時こそ、仲間を救うのが自分の役目だ。
「分かってる! 『キュア・ポイズン』! 『リムーブ・カース』!」
リリアはセレスにかざした手に、必死にマナを集中させようとした。いつもなら、体内で温かい奔流となって巡るはずの魔力が、しかし、うんともすんとも言わない。おかしい。まるで、空っぽの井戸の底から、必死に水を汲み上げようとしているようだ。
「どうして……なんで……来い! 私のマナ……!」
焦りが、冷や汗となって首筋を伝う。セレスの苦しそうな呻き声が、リリアの心を容赦なく抉る。
彼女は一度、自分の身体に意識を向けた。体内の奥深く、魂と繋がる場所にあるはずの、暖かい魔力の源泉。それは、いつだってそこにあった、彼女という存在の証明そのものだった。
だが、今。
そこにあるのは、完全な『無』だった。
乾ききった大地のような、光の届かない深淵のような、絶対的な空虚。
「あ……」
リリアの口から、乾いた声が漏れた。
アインの言葉が、脳内でゆっくりと再生される。
―――君に**『魔力消失』**を付与します。
膝から、力が抜けていく。へなへなと、その場に座り込む。杖を失っただけではなかった。杖を扱うための、魔術師としての魂そのものを、あの男は奪い去っていったのだ。
「リリア!? どうした、しっかりしろ!」
ケインがリリアの肩を掴むが、彼女の瞳は、もう何も映していなかった。
ケインは、絶望的な状況を瞬時に理解した。セレスは原因不明の激痛に苦しみ、リリアは心を折られて動けない。ぐずぐずしている時間はない。このままでは、セレスの精神が持たない。
「……セレス、すまない。少しだけ、我慢してくれ」
ケインは心を鬼にし、苦痛に呻くセレスの身体を、乱暴にならないよう、しかし確実に抱え上げた。
「いやあああああッ!!!」
肌にケインの腕が触れた瞬間、セレスはこれまでで一番甲高い悲鳴を上げた。彼女はケインの腕の中で、まるで捕らえられた小動物のように、全身を硬直させて震えている。その絶叫は、ケインの心に、決して癒えることのない傷として深く刻み込まれた。
「行くぞ、リリア!」
ケインは、呆然自失のリリアの腕を掴んで無理やり立たせると、半ば引きずるようにして部屋を飛び出した。
酒場の主人の訝しげな視線も、他の客のざわめきも、もうどうでもよかった。
雨の降る夜道を、宿屋へと走る。
わずか数百メートルの距離が、果てしなく遠い。腕の中で泣き叫び続けるセレスの重みが、失われた仲間への信頼の重みとなって、ケインの両肩にのしかかる。リリアの、虚ろな足音だけが後ろからついてくる。
この二年間の冒険の日々。
いや、これまでの人生で、間違いなく今が、最も辛く、苦しい道だった。
宿の部屋に駆け込み、扉を閉めた瞬間、三人を繋いでいた最後の緊張の糸が、ぷつりと切れた。
ケインは、そっとセレスをベッドに横たえた。濡れた衣服が肌に触れるだけで、彼女は「ひっ、ひっ」と短い痙攣を繰り返す。その苦痛を取り払ってやることすらできない。リリアは、部屋の隅で自分の両手を見つめたまま、人形のように動かない。
絶望が、部屋の空気を満たしていた。
ケインは、二人を、そして自分自身を鼓舞するように、必死に声を絞り出した。
「だ、大丈夫だ。絶対に、方法はある。俺が、なんとかする……。あいつを見つけ出して、絶対に、元に戻させてやる……」
そうだ、あいつを倒せば。強くなって、あいつを屈服させれば。
いつだって、ケインは乗り越えてきた。生まれつき病弱で剣術の才能がなかった彼が、今こうして冒険者として食えているのは、類まれな努力の才能があったから。
その思考に一筋の光明を見出したケインは、震える手で、ステータス画面を開く。努力、レベルアップだ。こんな状況だからこそ、前を向くんだ。もっと強くならなければ。
手の甲に、微かな光が灯る。そこに浮かび上がった文字を、ケインの目はゆっくりと追った。
——ケイン LV 25 剣士
——年齢:21
——EXP: 245400
——HP: 519/520 MP: 80/80
——筋力:269/470
——体力:289/690
——知力:29/40
——瞬発力:341/400
——器用さ:6/10
——運:1/10
——混沌属性:炎
——スキル:病弱
——状態:魔法付与(経験値獲得量低下:1/1000)、錯乱
最後の、一行。
アインが、まるで戯れのように口にした、三つ目の呪い。
それは、痛みも絶望も、すぐにはやってこない。ただ静かに、冒険者としての未来を、可能性を、完全に閉ざす、あまりにも残酷な宣告だった。
ケインは、拳をきつく握りしめたまま、その場に立ち尽くした。
「ひっ、ひっ、あっ……あっ」
ベットの上で、セレスが小さく呻いている。
「……私……魔法……」
部屋の隅で、リリアが静かに涙を流している。
そして自分は、もう二度と、この二人を守れるほどに強くなることはない。
ケインの脳裏に、あの男の、純粋で、屈託のない笑顔が浮かび上がった。
あの時、自分たちは何を追放したのだろう。
手に負えない、少し変わった仲間?
違う。
あれは、人間の皮を被った、悪意そのものだ。
自分たちは、この二年、怪物のすぐ隣で眠り、食事をし、笑い合っていたのだ。
その事実に、ケインは生まれて初めて、魂の底からの恐怖を感じていた。
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