跋
※最後に挿絵があります。
「儀式の染め物」の日まで後数日が迫ったある日のこと。
梟木の森のニケの元に、思わぬ来訪があった。
「返事がない! 失礼しますよ!!
準備はいかほどで!!!」
染めの練習に熱中していたニケは思わず椅子から滑り落ちた。判補官だ!
「ど、どどうして僕の家が分かったんだい?」
「どうしてって、わたしを誰だと思っているのですか? 宮中顧問兼判補官ですよ? 我が国が誇る伝統職人の住処を把握してないとでも?」
例え伝統職人だとしても、宮廷の関係者と面識がある染め物屋なんて歴代の職長くらいだけだろう。
ニケは若干幽霊をみるような目つきで、判補官を眺める。
対して判補官は遠慮なくずかずかと室内に入り、汚部屋の有様に眉間の皺を深めながら、食台の前に腕を組んで立った。前髪の一房の緩みすら許さないほどにきっちりと整えられた黒髪は、もうすっかり彼の頭の上に馴染んでいる。
「少し用事があって立ち寄ったのでお茶はいりませんよ」
「こちらから招待してもいないのに、茶なんてだすもんか!」
と言わない方が得策なのはニケももう十分に分かり切ったことだ。
手拭いで染料を落としていると、痺れを切らした判補官に手招きされたため、ニケは渋々食台を挟んで向かい合わせの位置に立った。
判補官はずいと、拳をニケに向かって突き出して、それから開いてみせた。仕事で荒れた手のひらの上に乗っかっていたのは、半透明に鈍く輝く、やわらかい白色を灯した大きな石。
「ハンタイトです」
判補官は手中でコロコロと鉱石を転がしてみせた。
「ほら、これで依頼もしっかり務まるでしょう。曲がりにでも王子の成人の儀です。彼の将来が、彼の希望に満ちるものであるように、頼みますよ」
「あ…えっと、その…ごめん。貰えないよ」
「なぜです?」
ニケは若干、判補官の目から視線をそらしながら、食台の下にある大量の大壺を指し示した。中は煌めく純白の砂で満たされている。
「王宮から、王様のご厚意で…この間、兵士さんから隣国の白亜を貰ったんだ。ちょっとこれ以上いらないかも…勿体ないからね」
この間、エラペッロを尋ねて行った宮殿の帰りに、タリクと名乗る護衛がニケを呼び止めて、白亜の入った大壺を二十四瓶、荷車ごと渡してきた。
「丁度隣国に関心があって、出張休暇に出てたんですけど、いいところでしたよあそこは!」などと叫び、軽く走りながら荷車を引いてやってきた恐ろしい光景は忘れられない。
「だから…」
と改めてお断りしようとニケが言葉を続ける。
それと同時に、形容し難い響きが、判補官の握りしめられた手の中から聞こえた。そう、彼はいつの間にか、手を握りしめている。
判補官は拳を食台につきだし、顔を少し俯かせたまま静止している。その指の間から、さらさらと何か砂のような、白いものが溢れ始めた。
「……相、変わ、らず…!
此の親にして此の子ありですね…馬鹿正直にも程がある! そう言う時は…、嘘をついてでも『ありがとう』と受け取るものですぞ……!!」
「えっ?」
判補官は何かに堪えるように、小さな声でそう唸ると、両手で食台をドン、と叩く。
その両手の中央に出来あがっているのはこんもりとした、白色の小山。
「えっ?」
「帰ります。もう散々です」
「えっ??」
ニケは、早々に食台から離れて扉に手をかける判補官の背中と、突如形成された机上の小山を交互に見つめた。確かにハンタイトは鉱物としては脆めに分類されるが、それは爪で傷をつけられるか否かという程度の話だ。
こんな人間が素手で握りつぶすだけで、さらさらな砂状になってしまうなんて、ハンタイトだってびっくりだろう。
ニケはハッとして、部屋の隅の石板を見た。
生前、祖父が大事にしていた染め物で、唯一質屋に持ち出そうと思えなかった一品だ。荒れた赤土の全面に描かれた巨大な鳥獣は翼を広げ、今にも飛び立たんとしている。
その鳥は、汚れひとつない白亜で一色に塗りつぶされていた。
「ちょっと待って!! 判補官!
髪は純白に染め直さなくて…」
扉を開けると、目も開けられないほどの強風がニケを押し返した。
「…いいのかい…」
風が収まって続きを言っても、言葉端を拾って非難する甲高い声の官僚の姿はどこにも見当たらない。
「…いいのかよ…」
そう呟いて森の木々を見回して、何の気なしに足元をみると、羽があった。
手の中にぎりぎり収まるくらいの、大きな羽根だ。
口笛を吹き、ニケは微笑む。
「また『儀式の染め物』の時に、会えるよね」
大丈夫だ。もう、自分の中に迷いはない。
本当は不安で、不安で、たまらなかった。
このままの自分なんかでいいのか。この道でいいのか。
突然、全て自分で判断しなくちゃいけなくなってしまった気がして怖かった。
でも、昔っから、全て雛鳥のように与えられている訳でもなかった。
ならば、これからも。毎日を自分らしく、染めていけばいい。
その都度、不安になって、またその上に色を重ねていく。
羽根は真っ直ぐで、立派だった。
ぱっと見灰色に見えるが、よくよく観察すると白地に所々黒が混じっていることが分かる。ちょっと、祖父の形見に似ていて、でも違う。
きっと僕だけのものだ。
「んふふ。…新しい耳飾り、発見!」