二
霊神様、またの呼び名を大賢者。昔話に聞く神様はどうも厳格な人柄として謳われがちだが、ニケの周りの人たちは随分と自由人である。夜の反省会を開きがちなニケにとっては、更なる悩みの種であり、同時に心を軽くしてくれるような存在だ。
特に、ニケが所属する「梟木の森」の染め物屋連盟の人々は「悩み」という単語が辞書にないような顔つきをしている。全染め物職人が召集される会合でも、職長が皆を静めて発言するなんて珍しい方で、いつもは各々が気ままに井戸端会議みたいな会話を行うくらいだ。
ある日の集いは、贅沢の限りを尽くして捕えられた地方地主が宮廷の入り口に挟まった、という話で持ちきりだった。
お腹と体型が人間限界突破してしまうほどの贅沢三昧だったようだ。
会話に加わる気はない。例の闘技場の地下の一件からニケはずっと上の空だった。寝る時も、食事をする時も、つけペンを手入れする時も、あの衝撃的な出来事を思い出しては、目の前の事に集中できない。
正直、あの後、どうやって帰ったのか覚えていないのである。
ただ、ちょうど真隣には、小指で鼻くそをほじりながら、もう片方の手で染め物を楽しんでいる兄弟子がいるので、無事には帰れたのだろう。
ついこの間、報酬で手に入れた隣国産の亜麻紙というものに、職長のすね毛を描く兄弟子を眺めながら時間を潰すことにする。
なんともったいない使い方をしていることか! そんなことに使うくらいなら僕にくれてやってもいいのに。
「おお、そうだそうだ。皆の者、注目!」
そうしている内に、その職長本人が大声を上げた。会合所の中央で鎮座している老人は何かを振り回している。
「この間、闘技場に行った者はいないかね?」
「おう、おれっす」
兄弟子がニケの肩に手を置いて、すくりと立ち上がった。周囲から笑い声が漏れる。
「お前か。官僚殿を泣かせたのは。髪の毛が毎日、それもド派手な色へ次々と変わって大変らしいぞ」
どっと笑いが起こった。
わ、笑い事じゃない! ニケは思わず兄弟子を見上げた。
「はぁ」
兄弟子は心底つまらなそうに突っ立っているだけだ。そんな反応したら、みんな兄弟子がしたと思うに決まっている。ニケは指先で羽飾りを挟んで激しく捏ねた。
「…あ、あの、それ僕、かも」
意を決して立ち上がると、兄弟子が睨んでくる。
一方、職長は朗らかだった。
「ははは! ビテ=ニケか! こりゃあ彼奴も神の元で喜んでいるに違いない! 王宮からの一仕事だぞ!」
「はぁ??」
ニケの驚きをいち早く代弁したのは兄弟子だった。
「どういうことだよ、おい! どういうことだ。おれがやったっつってんだろ! おれのだ、おれの仕事だ!おい!」
と暴れ始め、弟弟子に掴みかかりそうになる兄弟子を周囲の職人がハイハイと抑えて、ニケの背中を押してくれる。
好奇に溢れた視線の中を抜け、職長から受け取った書状は、ニケが今まで触れたこともないほど柔らかく、上質そうな紙に包まれていた。
夢のような出来事で、くるくる書簡を手の中で回すと、「宮中顧問 判補官」という達筆な字が角に記されている。
ただなぁ、と職長が呟いた。
「例の官僚殿はひどくお硬くて苛烈な奴だって噂だぞ。一仕事とのことだが、最悪の事態に心を備えておいた方が後が楽かもな!」
周りからおーーん、と残念そうな声が沸く。一気に、手の中の書状がとんでもなく重くて凶悪な岩石のように思えてきた。
後方から「そんじゃあおれじゃないな! やったのはお前だ!」という兄弟子の声が飛んでくる。
宮殿訪問の日まで絶対快眠できないな。ニケはそう確信した。