十年
それからの砂漠は平和だった。いや、新しく逃げ込んでくる人間たちはいるが、その程度。戦争は起こっているらしいが、それが砂漠に来ることはなかった。漏れ聞こえてくる噂によると、勇者と砂漠の守り神の怒りを買うとかなんとか、という話になっているらしいが。
ちなみに、ルインと再会した時には、メチャメチャ泣かれた。なぜかごめんなさいと何度も謝られた。そして剣の稽古はもう必要ないときっぱり言われた。
「キクチが守ってくれたんです。だから、無駄にはしたくありません。僕がすることは先頭に立って魔物と戦うことじゃなくて、ここにいる人々を守ることだと思ったんです」
何がどうしてそういう結論に達したのかはサッパリだったが、実際にルインを中心に街ができはじめていた。そして、戦火から逃げてきた人々を受け入れて、その街をさらに大きくしている。
素直にすごいと思った。
俺は降りかかる火の粉をどうにかしただけで、それ以上のことをやろうとは思わないのに、ルインは将来を見据えて行動しているのだ。
時々街に行けば、歓迎される。いつでも住んでいいと言われているけど、それを俺は断り続けている。イビーの側の方が気楽でいい。
「ゲホッ、ゲホッ」
咳が出た。最近、喉の調子が良くなくて、咳をすることが増えた。
『風邪か?』
「勇者も風邪ってひくんだな」
でも、この時はたいしたことはないと思っていたのだ。
※ ※ ※
それから十年ほどの時が過ぎた頃。
俺の体調は、完全に悪化していた。
「ゲホッ、ゴホッ、ゲホゲホッ」
咳が止まらない。喉が痛い。時々血が混じる。呼吸をしようとして、息が詰まる。
『キクチ……』
イビーが寝ない。起きる時期でもないのに勝手に起きて、そして俺の心配をしてくる。
「大丈夫だ」
『そんなわけないよー。ちょっとまっててー』
間延びした声が、泣きそうになっている。目を瞑って何か集中したかと思うと、イビーの鼻先だけが一瞬だけ虹色に光った。――と同時に、俺の呼吸が楽になる。
『こうしたら、平気ー?』
「ああ、助かるよ」
明らかに周囲の湿度が増した。雨を降らせる応用なのだろうか。
俺も分かっている。この咳の原因は、砂漠の乾燥した気候だ。日本にいた頃、冬になって乾燥してくると咳が出たが、この砂漠はそれ以上に乾燥している。それで、十年という月日で完全に呼吸器がやられたんだろう。
フウッと息を吐いて横になる。呼吸は楽になっても、胸の辺りが痛い。何となく、もうすぐ俺は死ぬんだろうなというのが分かる。
「イビー、一つ聞いていいか?」
『なにー?』
「お前に名前を教えたら、どうなるんだ?」
『…………』
珍しい、イビーの驚いた顔だ。
「ただの興味本位だよ」
『嫌だって教えてくれなかったの、キクチなのにー』
ブツブツと言って。
『ボクの従者になる……みたいな感じかなー? ボクの力の一部を使えるようになって、ボクの代わりに仕事ができるようになるよー』
「つまり、イビーに使役されるということか」
『人間じゃなくなるから寿命も伸びるし、病気も治るよー』
「……そうか」
何てことないように告げられた最後の一言に、正直心はグラッと揺れた。
でも何も言わず、目を閉じた。呼吸が楽になったら、眠くなってきた。
※ ※ ※
「よ、ルイン」
「キクチ!」
久しぶりに街に顔を出す。ルインは俺を見て嬉しそうにして……すぐ顔を曇らせた。
「……具合、悪いの?」
「なんだ、すぐ分かっちゃうんだな」
「分かるよ! すごく顔色悪い!」
「そうか」
笑って返せば、神妙な顔になったルインが俺の手を握ってきた。
「キクチ、この街にいなよ。普段どこにいるか知らないけど、治療できないんでしょ? ここなら病気を治せる神官もいるから」
「必要ない。治すつもりはないから」
「キクチ!?」
驚くルインの肩に手を置く。もう少し前なら、頭をなでていたところだ。すっかり青年に成長したルインは、俺より背が高くなってしまった。
「もういいんだ。……悪いけど、この世界が好きなわけじゃない。望みもせずに連れてこられて、帰ることもできないと言われて……。元の世界が好きだったのかと言われたら難しいけど、それでも生きていくなら日本の方が良かった」
十年も過ぎて、もうだいぶ記憶も薄くなっているけど。
生きることを望んでも、後悔する気がする。だったら、死ぬという選択肢がある今、それを選んだっていいんじゃないかと思ってる。
「ルインには、挨拶くらいしておこうと思ったんだ。これが最後になるだろうから」
「……いやだ、キクチ。いやだよ」
「アホ、ここに国を建てて国王になるんだろ。そして魔族と人間の橋渡しをすることが夢なんだろ。俺一人のことくらいで、駄々こねるな」
それでもルインは首を横に振る。小さな子どもがイヤイヤしているみたいで、苦笑する。
「世界に必要なのは、お前みたいな奴だと思うよ。他の世界からの勇者召喚なんて、何の意味もないんだ」
周囲に流されるまま戦って、全部中途半端なまま放り投げる俺みたいな奴など、いる必要がない。
「じゃあな、ルイン」
できるだけ軽く挨拶して、泣きそうな目をしたルインの肩をポンと叩いて、背を向けた。慰める言葉なんかない。この世界がどうなろうと関係ないと思っている俺が、掛ける言葉なんかありはしないんだ。