菊池
五年ほど前に、俺は"異世界転移"を経験した。いきなり足元に魔法陣のようなものが光ったら、日本からこの世界に来ていた。勇者を召喚して俺が現れたと説明されて、魔族との戦いに力を貸してほしいと頼まれた。
当時の俺は大学生だった。もう数年早ければ「来たぜ異世界! ヒャッハーッ!」とか叫んだかもしれないが、さすがにその状態からは卒業していた。
とは言っても、まさかの異世界転移にワクワクしたことは否定しない。帰れないと教えられても「ふーん」としか思わなかった。けれど警戒もしていたから、名前も名字の"菊池"とだけ名乗った。名前を知られると囚われる、という異世界ものの話でよくある設定を気にしたからだ。
結果としては不要な警戒だった。名前を元に相手を縛る魔法など、この世界には存在しなかったから。そして、国王や王子、その周辺の人たちがいい奴ばかりだったからだ。
そいつらに絆されて力を貸すことを決めた。この頃には、菊池としか名乗らなかったことを後悔していた。けれど、何の疑問もなくキクチと呼ばれるから、今さら違うとは言えなかったのだ。
『へー、そーなんだー。だから違う感じがしたんだー』
「だから偽名じゃないって言っただろ」
『でもキクチって、キクチだけの名前じゃないんでしょー? だから、なんか変な感じー』
「そんなもんか?」
名字で呼ばれるなど、日本じゃ珍しくも何ともない。……が、確かにクラスメイトに同じ名字の奴がいたときは、面倒だったな。
『それでー、キクチの名前って、なにー?』
「教えない」
『なんでー!?』
ゾウだから顔色とかは分からないが、明らかにショックを受けた顔だ。ちょっと悪い気もしたが、ここは初志貫徹だ。
「俺の名前に変な感じがするということは、何か名前に関しての魔法を使えるんじゃないのか? 何をされるか分からないのに、なんで教えなきゃならないんだよ」
『えー……。ボクとキクチの仲なのにー』
「そんな仲になった覚えはない」
落ち込んだ様子だが、あえて俺は突っぱねる。大体、俺は興味本位でここに来ただけだ。そんな危ない橋を渡りたくない。
『んーじゃあさー、名前は諦めるけどー、その剣のこと教えてー』
「これか?」
別方向から話を振ってきた。言われて左手で剣の柄を握る。先ほどから一言もしゃべってないが、元々こいつは俺が誰かと話しているときに話しかけてはこない。
聖剣のことなら構わないかと思って、口を開こうとしたら、握った左手から異様なまでの不機嫌さが伝わってくる。何かあるのかと思って待つが、話しかけてくる様子はない。
「こいつは勇者の持つ剣、聖剣だよ。聖剣グラムと呼ばれている」
何も言わないならいいかと思って、イビーに教える。すると左手から怒った気配がした。……が、やはり何も言ってこない。
『うわーやっぱりー。すっごい魔力だもんねー。ねーねーグラムー、しゃべれるよねー。ボクはイビーだよー』
目を輝かせたイビーが、嬉しそうにグラムを見ながら話しかけた。話が出来ると見破ったのはすごいが、その声は俺にしか聞こえない……と思ったときだ。
『我は貴様のようなノンビリして、契約を平気で破るような奴は嫌いだ。話しかけてくるな』
「……は?」
『グラムってそういう声なんだー。よろしくー』
いつも頭の中に響いていた声が、耳から聞こえた。言っている内容はかなりひどいが、言われたイビーは全く気にした様子はなく、語尾に音符でもつきそうなウキウキっぷりだ。
「……しゃべれたのか?」
『疲れるからやりたくない。勇者とこうして話す分には何も問題はないが』
また、今までのように頭に響く声だ。
『我はあのような輩は嫌いだ。今後一切話さぬから、そのつもりでいろ』
「あーうん、分かった」
まあ誰にでも苦手な相手というのは存在するものだろう。人間じゃなくても、自我とか感情とかいうものが、グラムにもあるんだから。
問題は、その辺の機微をイビーが理解するかどうかだが。どんな塩対応にも懲りることなく話しかけて、最終的にグラムがキレるだけな気がする。
『ねー、キクチとグラムはなんでこんなところにいるのー? 勇者って人間と一緒に暮らしてるって思ってたー』
「また質問か」
子どもの成長期に、確か質問魔になる時期ってのがあったよな、という考えが浮かんでしまったのは、声が子どもそのものだからか。
「色々あったんだよ」
『色々ってー?』
納得しないだろうなと思って答えれば、案の定だ。このまま"色々"で押し通そうかという考えもよぎったが、結局俺は話すことにした。
いや、勇者の名に心酔も恐れもしないイビーに、聞いてほしかったのかもしれなかった。