交わされた約束
「ゲホッゴホッ」
街を出た途端に咳が出る。何とか我慢していたが、限界だ。
『キクチ、平気か?』
「平気じゃないけど、イビーのところに戻るくらいは何とかなる」
聖剣の声は、俺がこの状態になっても変わらない。平常通りで逆に安心できてしまう。でも、持ち歩くくらいはどうにかなっても、もう剣を抜いて戦うのは無理だろう。そのくらいには、体が弱っている。
『では、今後どうするつもりだ?』
「今後……?」
『名前を教えるつもりか?』
「……!」
少し驚いた。あの時、グラムは何も言わなかった。いや、言わなくても聞いていることくらいは分かっているが、何も言われなかったから、こうして聞かれることも想定していなかった。
「もし教えて俺がイビーに従う存在になったら、グラムはどうなるんだ?」
『キクチの存在が変われば、それは死と変わらぬ。勇者が死ねば、我は元いた場所に戻されることになる』
「そうか」
そしてその場所でまた新たな勇者が現れるのを、待つことになるのか。……望みもしないのに。
「――ごめんな、グラム」
グラムには選択肢もないのに、俺は選べる道がある。それを思ったら、自然に言葉が出た。――返答は、なかった。
※ ※ ※
『キクチーお帰りー』
「ただいま」
イビーの間延びした声にホッとして、座り込んで寄り掛かった。イビーの体は柔らかいから、こうしていると気持ちがいい。
安心したら、また咳が出た。止まらない。イビーが何も言わないまま、周囲の湿度を上げてくれる。それでもなかなか落ち着かない。ああもう本当に終わりだなと思う。
ゼーゼーしながらそれでも何とか止まった咳に安堵して、俺はイビーの耳元に口を持っていった。
「――、――」
『え?』
「俺の、名前だよ」
久しぶりに口にした。日本の俺の、菊池に続く、俺の名前。
「後はイビーに任せるよ。勝手だし情けないけど、俺はもう、自分のことを決めることさえ、よく分からなくなってるから」
ズルッと体が落ちた。寄り掛かってすらいられず、体が倒れる。
『キクチ!』
咄嗟にイビーが出してくれた長い鼻の上に、俺の体が乗った。ナイス、と笑う。
「起こすって約束したのに、あまりできなかったな……。逆に俺のせいで、寝ることもできなくなっちゃってさ」
何だか眠くなってきた。目をあけていられない。
「ゴメンな、イビー。……ああ、できればグラムがその約束、引き継いでくれると嬉しいな」
とはいっても、聖剣は文字通りに剣だ。持って移動できる人が、やろうと言ってくれなければ、引き継ごうとしたところでできないか。
「ああもういいや、悪い、任せた。俺は、もう……。……………」
※ ※ ※
『……キクチー?』
『死んだな』
『……そっかー』
グラムの冷淡に聞こえる声に、イビーは菊池の体を砂に下ろす。
『それで、眷属にするのか?』
『できないよー。なんの力もなければ、名前だけでできるけどー。キクチくらい強かったら、本人の同意がないとできないー』
『そう言えばいいものを』
『だって同意しないでしょー。キクチ、そんなの望んでないんだからー』
自分のことを決められないと言っていても、この世界から自分の存在が消えることは望んでいた。眷属になれば、その望みは叶わない。
『だからねーいいのー。ボク、ちゃんと起きるからー』
『当たり前だ』
そもそもそういう契約をしているのだから、ちゃんと起きろとグラムは思う。
グラムとて、"魔族を倒すこと"を契約している。それが強引で一方的であっても、その契約に縛られている。だから、半分契約から抜け出ているかのようなイビーに、腹が立ってしまうのだ。
『グラムも、たまには来てほしいなー』
聖剣の周囲に、何かの魔力が渦巻き始めた。持ち主が死んだことで、元の場所に戻ろうとする力が働いていることを、イビーは敏感に察知する。
死んだばかりで、まだ菊池の体に魔力が残っているから何とかこの場にいるが、それも時間の問題だ。
『我は剣だぞ。一人では動けぬ』
『じゃーさー、動けるときにボクが起きてこなかったら、起こしに来てよー』
『…………』
起きないつもりなのか、という無言のツッコミがされた気がしたが……。
『一度だけ。キクチに免じて一度だけ。その時の勇者が行くと言ったなら、起こしに来てやる』
『うん、ありがとー。グラムも好きだよー』
『我は嫌いだ』
グラムは素っ気なく言い放つ。そして、渦巻く力が強くなった。
『またねー』
イビーがそう声をかけた瞬間、聖剣はその場所から消えていた。すでにその存在が遠くに行ったことを確認してから、残された菊池の遺体を見る。
『キクチー、お休みー』
イビーの鼻が虹色に光り、体全体に広がっていく。それは雨を降らせるときと同じ。だが、雲が湧き出ることはなく、水の力が菊池の体に集まった。それは大きな球体を作り、菊池の体を全て飲み込む。
『バイバイ、キクチ。キクチが行きたかった場所に行ってね』
その瞬間、水の中にあった菊池の体はなくなっていた。水に溶けて消えたのか、あるいは本当に“行きたい場所”へ行ったのか、それはイビー本人でさえも分からない。
「パオオォォオォ……」
大きく欠伸をする。少し寂しいけれど、たかだか十数年のこと。数千年も生きているイビーからしたら、ほんの一瞬だ。
『おやすみー』
そうつぶやいて、横になる。
ほんの少し目ににじんだものは何なんだろうと、思いながら。




