&67.バカだ
夕食後に呼び出された。部屋に行けばお父さん、おじいちゃん、おばあちゃんが居た。
「なに……っ」
机の上に写真立てがあった。それは少し前に見たお父さんとお母さんが写っている写真だった。それが見えた瞬間、足が止まった。
ああ、そうか。アイツが喋ったのか。別に隠す必要はないけど……でも、なんだか胸の辺りが痛む。どうして、裏切られたから?
今から怒られるんだろうか。……何を? 離れに行ったこと? でも一度でも行くなと言われたことはない。……そうだよ。なんで私が怒られる側なんだ。おかしいじゃん。怒りたいのは私の方だ。
「どうして……黙ってた。お母さんのこと、どうして黙ってた!?」
握った拳が震える。三人の顔が見えなくて俯いて叫ぶ。どんな顔をしているのか見れなかった。怖くて、見たくなかった。
私は今の今までお母さんを知らなかった。誰も教えてくれなかった。それがとても……とても? なんだろう。とにかくモヤモヤする。
「黙っていたわけじゃない。時期が来れば話すつもりだったさ」
おばあちゃんが答える。いつも通りの冷静さが無性に腹が立った。
「時期っていつ!? 大人になったら? 何年後の話!?」
違う。違う!
こんな話をしたいんじゃない。私はただっ……ただ、お母さんのことを教えて欲しいだけで、教えてくれなかった理由が知りたいだけなんだ。
「なんで教えてくれなかったの! 私のお母さんだよ。家族なんだよ。みんな知ってるのに私だけ知らない! わたっ、私も家族だよ? 家族、だよ……」
目頭が熱くなる。ああ嫌だ。涙なんて流したくないのに。こんな姿、見せたくないのに。だってこれじゃあ心配させる。気持ちがぐるぐるして、頭が痛い。視界がぼやけて立ってられない。
倒れる前に部屋を飛び出した。後ろでお父さんの声が聞こえたけど振り返らなかった。立ち止まったら、これ以上居たら、きっともっとみにくい姿になる。言いたくないことも言っちゃう気がする。それでお父さんを、家族を傷つけたくない。
自室に駆け込んで布団にくるまった。涙がポロポロ出て止まらなかった。喉が引きつって、鼻水も出て、ただ声だけは出さないように押し殺した。
この日初めて、眠れない夜を過ごした。
寂しかったんだ。家族で一人だけ知らないで、それが仲間外れに感じて、とても寂しかった。みんなより子供だから知らないことの方が多いって知ってる。家の事も最近知ったし、難しい話は分からない。でも、でもさ……本当の家族だよ。血の繋がりがある本当の家族なんだよ。一言で良かった。お母さんが居るよって、私にもお母さんが居るんだって、それだけで良かったんだ。
音が聞こえる。声が聞こえる。みんなの話し声が響いて、朝になったんだと気づいた。
「ナギ」
名前を呼ばれて体が跳ねた。この声、お父さんだ。部屋の前にいる。
「ナギ……起きてる? その……朝ごはん食べまい」
いつもより控えめな声だった。お父さんは今どんな顔をしているんだろう。それが気になって布団を捲ると、朝日が眩しくて外に視線が向いた。
目が開けづらくて、顔がベタベタして、気持ち悪くて。それでも朝日は眩しかった。変わらずに眩しかった。
「……ごめんな。朝ごはん持ってくるから食べれそうなら食べなよ」
返事がないから、お父さんが離れていく。そう思ったら体が動いていた。
「お父さん!」
布団から抜け出して、戸を開けて、離れようとするお父さんの背中に抱きついた。
「ナギっ」
「ごめんなさい! ごめんなさい! お父さん……置いてかないでっ」
「わっちはここに居るよ。どこにも行かん。あーあー、こんなに目ぇ腫らして……しゃーないな」
泣きながら謝り続ける私にお父さんは抱きしめてくれた。頭を撫でて、背中を摩って、大丈夫の声をかけてくれた。
泣きやんで、グズグズになった顔を冷やして、朝ごはんを食べた後、お父さんはお母さんの話をしてくれた。だけど寝不足と泣き疲れたのとご飯を食べた後、安心したのもあってか読み聞かせのような声音に誘われて睡魔がやってきた。子供で抗う体力もなかった私は、話半ばで眠りについた。
眠ってしまった事を後悔した。
またいつでも話してくれると言った。
その「また」が来ることはなかった。
お父さんが倒れた。買い物中に突然胸を抑えて倒れた。救急車で病院に運ばれて、そのまま亡くなった。眠っているだけで、また目を覚ますような寝顔だった。でもいつまで経っても瞼は開かなくて、肌が冷たくて、音が聞こえなかった。
あまりにも突然だった。なんの前触れもなかった。だから当然、心づもりも何も出来てない。それはお母さんを知ったあの日からまだ一月も経っていなかった。
お父さんが死んでからご飯の味がしなくなった。楽しくなくて、美味しくなくて、酷い臭いがした。
心に大きな穴が空いたような感じがして、何も考えれなくなった。動く気にもならなくて、どうやって一日を過ごしたのか覚えがない。
そんな日が何日か続いた。
ある日、我慢の限界が訪れた。
「ナギ!!」
怒鳴るように大声で名前を叫んだおばあちゃんは、私の首根っこを掴むと外に放り投げた。庭に打ち付けられ転がったのに痛みを感じなくて、のろりと上体を起こすとぼんやりと顔を上げる。
縁側に仁王立ちするおばあちゃんは鋭い目で私を見下ろした。
「うだうだうだうだと、鬱陶しいったらありゃしない! いいかい、ナギ。一度しか言わないからよく聞きな。文哉さんは死んだ。どんなに待っても帰ってくることはない」
「ぼ、ボス……」
諌めようとする組員を睨みで黙らせる。おばあちゃんを止めれる人はこの場にはいない。
「それを理解するまで敷居を跨がせないよ。アンタらも、分かったね」
それだけ言っておばあちゃんは奥へと立ち去って行った。遠ざかる背中からは反論は許さないという拒絶が滲み出ていた。
一連のやり取りを聞いていた。一方的で理不尽で冷酷な物言いに、けれど何も感じなかった。言葉が頭に入ってこなかった。声が右から左に流れて、言葉として認識していなかった。
戸惑い囁きあう彼らをなんとはなしに眺める。憐れむような視線を向ける者、こっちに来ようとして止められる者、頭を下げて立ち去る者。みんな、おばあちゃんには逆らえない。そのことに悲観も憤慨も湧かなかった。ただその事実を知っている。
立ち上がって足を動かす。行くあてはない。でも、ここには居られない。どこかに行きたかった。
気付けば離れにいた。どうしてここに来たのかは分からない。敷地内には他にも小屋はあるし、四阿だってある。休む場所、隠れる場所は他にある。それでも私の足は無意識に離れに向かっていた。
戸を開けて中に入る。玄関を上がって順に部屋を回る。居間、寝室、小さな台所に風呂トイレ。たったこれだけの小さな住処。下手したら五分もかからずに回り終わった。
居間を眺めるとふと疑問が浮かび上がった。両親はここでどのように暮らしていたのだろう。その疑問に答えは出なかった。
知らない。何も知らない。知らなかった。
お母さんの事も、離れの事も、誰も教えてくれなかった。お母さんがどんな声で、どんな風に喋って、どんな風に笑うのか、何一つ知らない。お父さんの話、ちゃんと全部聞けば良かった。そんな後悔は、今更だ。
「置いてかないって言ったじゃん」
お父さんに向かって言う。幸せそうに笑うお父さんの写真は、当たり前だけど何も言わない。
胸が痛くて苦しくてどうしようもない。張り裂けそうで、吐き出したら楽になるのか。
「早く帰ってきてよ。一緒に映画見よう。お母さんの話、聞かせてよ。お腹、空いたよ……」
涙が頬を伝う。次から次へと溢れ出てくる。
呼びかけても応える声はない。手を伸ばしても掴んでくれる温もりはない。
お父さんが亡くなってから初めて泣いた。
ようやく分かった。死ぬという事がどんな事か。ううん、本当は分かっていた。でも理解したくなかった。受け入れたくなかった。
夢でもなんでも縋りたい。幸せな日常を、楽しかった思い出に浸っていたい。だって現実にはもう居ないんだから。
お父さんとお母さんが写った写真にはとても幸せそうな顔して笑っている。その二人はもう居ない。死んだから消えた。遠くに行って二度と私の前には現れない。
「ごめんなさいっ……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
膝を抱えて、目を膝に押し付けて、丸くなる。無機質な写真を胸に抱く。
私のせいだ。私のせいでお父さんが死んだ。お母さんの事を思い出させたから苦痛になったんだ。一番苦しいのはお父さんで、なのに私は怒って当たった。
こんな事なら知らない方が良かった。今までみたいに知らないフリすれば良かった。
漠然と感じていた。お母さんは日常の端々に存在していた。
どこか遠くを見つめる家族の姿。私じゃないお嬢の話は悲しさが漂っていた。夜に啜り泣く声はお父さんの部屋から聞こえた。
疑問を感じて、それでも言及しなかったのは、してはダメだと思ったから。何かが変わってしまうと感じていたから。だから知らないフリをした。怖くて逃げていた。確証を得た、あの日までは。
その結果がこれだ。お父さんを殺したのは、そうなるまで思い詰めさせた私だ。
「バカだ。私はっ、大馬鹿者だ。………………ッ、うぁぁあアアッ!!」
自分の頬を思いっきり殴る。
一発、これはお母さんの分。
二発、これはお父さんの分。
ヒリヒリと頬が痛む。我が身可愛さで手加減なんてしていない。それでも足りない。こんな痛みじゃ足りない。お母さんの痛みは、お父さんの痛みは、きっともっと辛くてこんなんじゃない。
母屋に戻る。その頃には夕方になっていた。
私が来るのを待っていたかのようにおばあちゃんが縁側に立っていた。見定めるかのように、鋭く冷たい視線を向けられる。
怖い。なんでおばあちゃんがボスって呼ばれてるのか分かった気がする。どうして逆らえないのかも多分同じ理由だろう。
庭で土の上で、膝を曲げて正座すると頭を下げた。額を地面に擦り付けるように低く。お願い事は誠心誠意態度で示す。それが土下座。家族でも他人でも関係ない。
「今までご迷惑をかけました。その上で厚かましくもお願いがあります。私を誰にも負けないぐらい強く鍛えてください」
たくさん考えた。いっぱい考えて考えて、決意した。
弱いから死ぬんだ。弱いから悲しくなって苦しくなって辛くなる。なら、強くなれば……そうすれば死なないし悲しまない。そう、おじいちゃんやおばあちゃんみたいに。
「……バカだね」
誰も聞こえない小さな声で呟く。痛みを耐えるように顔を強ばらせたのは一瞬で、だから気付けた人はいなかった。
「顔を上げな! ナギの気概はよく分かった。アタシは家族だろうが手加減はしないよ。覚悟しな!」
「っ、うん! ……あ、イエッサーボス!」
手をあげて敬礼する。
「おばあちゃんと呼び!」
頭を殴られた。痛い。




