第1章 1'-3 ヴォルハウス卿
「おはよう!ユリエルチャン!」
「ふぁあ……。おはようございま……」
ユリエルは寝ぼけ眼をこすりながら、意識のピントを合わせていく。
だが、目が完全に覚めるよりも早く、猛烈な違和感が彼女を襲った。
硬直。
視界の隅に、見慣れぬ巨体が収まっている。
おしゃれに整えられたヒゲ、丁寧にセットされた髪。しかし、それらとは明らかにミスマッチな、ボロボロのその身の丈にあっていない白衣を纏う大男が、彼女のベッドのすぐ脇に立っていた。
「キャアアアアア——もがっ」
叫ぶ前に、分厚い手が口を覆った。
「ユリエルチャン。オジさんを変質者に仕立てる気?」
「もごがががもごごっ!」
変質者そのものじゃない!と叫ぶも口元を手で押さえつけられ言葉にはならなかった。
抵抗しようとしたが、大男の腕は鉄のように硬く、びくともしない。
もう騒がないから手をどけろ、と睨みつけると、大男はニッコリ笑い、素直に手を離した。
「ヘンタイよぉおぉおぉぉおおおおおお!!」
「ユリエルチャン!?」
数分後、大男は衛兵に捕まった。
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「はぁ……アナタがヴォルハウス卿、ですのね……?」
「そうだよぉ」
会議室のど真ん中。
パンツ一丁で簀巻きにされた巨漢が、何の躊躇もなく正座していた。
「王国随一の魔法研究者、魔種からの魔力精製技術の確立者……。
このヘンタイが、ですの……信じられませんわ……」
「フフゥン オジさんすごいでしょ? ホレちゃった?」
冷え切った視線を投げつけるが、ヴォルハウス卿はむしろ喜々として身をよじらせた。
「イイ……イイよぉ……!」
実に気持ち悪い。
「姫様、『あの』ヴォルハウス卿を発見したとは……ある意味、ここの紛争を収める以上の功績ですぞ」
「見つけたくて見つけたんじゃありませんわ……!」
ユリエルは眉間を押さえ、頭痛を堪えるようにため息をつく。
ヴォルハウス卿。
彼こそが、勇者でない人類が魔法を扱うための鍵——「エーテル」の生みの親である。
魔種から魔力を抽出し、それを液体に変換する。
それを飲むことで、普通の人間でも魔法を使えるようになった。
この技術がなければ、魔種との戦争はそもそも成り立たなかった。
だが、その技術のせいで、ユリエルは今まさに胃が痛くなっている。
「小皺がふえるよぉ、ユリエルチャン」
「だれのせいで!?」
手元の書類を投げつける。
が、ヴォルハウス卿は器用に身をよじり、紙をヒラリと避けた。
「いい機会です。ついぞ聞きそびれていた事を教えていただけないでしょうか」
ガーディウスは腕を組む。
「ヴォルハウス卿、なぜ王城の研究室から姿を消したのです?」
ヴォルハウス卿は終戦後、王城に招かれ、万全の警護の元さらなる研究に励んでもらう予定だったが、彼はそんな待遇を捨て1日で雲隠れをした。
『もっとゾクゾクしたいから。バイビー!』と一枚の手紙だけを残し。
王とは幼馴染であり、その手紙を見た王は「ヴォルハウスらしい」と笑って許した。
「そりゃあ、手紙にも書いたデショ? ゾクゾクしたいからだヨン。ガーディは相変わらずお堅いネェ~」
「……貴公は幼少の頃から何も変わりませんね」
「ガーディなら理解してくれると思ったんだけどネェ~」
「貴公の思考回路を理解できたことは、人生で一度もありませんが?」
「えぇー! ショックぅ!」
ユリエルの眉間のシワが、さらに深まる。
「フフフ、お姫様がキレちゃいそうだから、答えてあげるネ」
ヴォルハウス卿は、簀巻きのまま妙に優雅だ。
「もっとイジめられたかったからダヨ!」
ユリエルは一瞬、言葉を失った。
「まあ、そんなことだろうとは思いましたが……」
「……………………どういうことですの……?」
「オジさんはねぇ、研究を評価してくれる人たちが大好きなのさ!
そのためにもっとすごい成果、もっとすごい技術を生み出したくなる!」
ヴォルハウス卿は楽しげに、縛られたまま縦に横に揺れる。
「王国も貴方を評価していたのでしょう?」
「ああそうさ。でも、もっと! もっと評価されたいんだ! オジさんはねえ!
研究成果が盗まれたり、拉致られたり、殺されそうになったりすることが——サイコォォォに好きなんだぁぁぁ!」
「……」
ユリエルは唖然とする。
ガーディウスは小さく「この男は……」と呟きながら、顔を覆った。
「だからノホホンとした研究所は肌に合わなかったのさ。それだけ!」
ヴォルハウス卿はウィンクを飛ばしてくるが、ユリエルは手を振り払い、想像上のウィンク光線をはじいた。
「ホンモノのヘンタイだという事は、よくわかりましたわ。で、なぜ貴方はここに?」
「古い友人の娘が近くに来てるって聞いたからネェ~。ちょっと顔でも見ておこうかと」
「貴方、頭はいいくせに嘘は下手ですのね。そんな理由で貴方みたいなヘンタイが動くはずないでしょう」
「え!? 何このオジさんに対する信頼感!? アタイたちはもうこんな掛け合いができる仲に……?」
「いいから要件を早く言いなさい!」
しびれを切らしたユリエルが怒鳴ると、ヴォルハウス卿はニコリと笑った。
「ゴメンゴメン。一応、目的はあるんだ」
よいしょっと簀巻きのまま器用に立ち上がる。
「君に見せたいモノがあるんだ。ついてきてくれないかい?」
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ヴォルハウス卿は優雅に身支度を整え、ユリエルとガーディウスを伴って自らの研究所へと向かった。
「昔から、あんな感じなのですか?」
「ええ、何度斬り殺そうと思ったことか……数えきれませんな」
王女と側近が、呆れ混じりに話す。
「ユリウスは元気にしてるかい?」
「貴公が茶化しに来てくれないと、寂しがっておりますよ」
初老の男たちが、楽しげに言葉を交わす。
そして、辿り着いたのは——
「ここだ」
ヴォルハウス卿が指さした先には、とても人が住んでいるとは思えないほど荒れ果てた小屋があった。壁は崩れ、屋根の一部は抜け落ち、扉は見るからにボロボロ。
(まさか……ここが研究所?)
ユリエルが不安そうな顔をする中、ヴォルハウス卿は扉を押し開き、中へと入る。彼が低く呟くと、手にした瓶の液体を地面に振りかけた。
「……!」
瞬間、足元に広がる魔方陣が淡く輝き出し——
ズズ……ッ
鈍い音を立てながら、石畳がゆっくりと横へとずれていく。
「下に参りま〜す」
ニヤリと笑いながら、ヴォルハウス卿は二人を導く。
現れたのは、螺旋階段。薄暗い通路を降りきると、そこには壁一面を埋め尽くす書物の山。散乱する書類と奇妙な道具の数々。整然とはほど遠い光景に、彼の生活感のなさが滲み出ている。
「開けますよ〜」
ヴォルハウス卿が軽い調子で言いながら、部屋の奥の重厚な扉に手をかける。
——ギィ……ッ
扉が軋む音とともに、部屋の中の光景が露わになる。
「なっ……!」
ユリエルは息を呑み、ガーディウスは瞬時に腰の剣へと手を伸ばす。
そこにいたのは——
間違いなく、「魔獣」だった。
しかし、それは檻の中でじっとこちらを見据えている。どこまでも獰猛で、どこまでも恐ろしい。けれど、奇妙なことに、その身は動かない。
「安心して。動けないから。彼」
ヴォルハウス卿はまるで道端の石ころでも見せるかのような気軽さで言った。