第1章 1-3 魔王
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
重力が僕を引きずり込む。
視界がぐるんぐるん回転し、風が容赦なく肌を叩く。
スカイダイビングの映像を見たことがあるけど、これは……それより長い。永遠にも感じる自由落下。
次の瞬間――
ドボン。
水。
全身を貫く激痛。
生きたい。それだけを頼りに必死にもがく。
「ダハァ!!!」
必死の思いで水面に顔を出す。
暗い。視界がぼやけている。
とにかく泳ぐ。ざぶざぶと平泳ぎを続けていると、やがて足が地面に触れた。
「はぁ、はぁ……」
なんとか地面に腰を下ろす。
水辺に向かって、上から途切れることなく水が流れ落ちている。
びしょ濡れの服が冷たくて気持ち悪い。
それより、この水……なんか変な臭いがする。
まさか、汚水じゃないよな?
そのとき。
〔「〈【誰か……いるの?〕】」〉
耳障りなノイズ混じりの声が、頭の中に響いた。
この世のものとは思えない音質。でも、確かに言葉だ。
「あ、ああ。いるけど……そっちは?」
〔「〈【ほんとうに?誰かいるの?〕】」〉
「いるってば」
〔「〈【わぁ……わぁ!嬉しいわ!〕】」〉
頭が痛い。
いや、全身が痛い。
よく生きてたな、僕。
〔「〈【どこにいるの?〕】」〉
「そっちこそ、どこにいるんだよ」
〔「〈【えへへ。どこでしょうか?〕】」〉
「わからん。帰る」
〔「〈【まって、まって!真ん中だヨ〕】」〉
真ん中……?
ぼんやりとした視界の中で周囲を見渡す。
…そこまで広くはないようだ、見渡すと円形の空間であることが認識できる。
暗闇の中に、ぽつんと一本の柱が立っていた。
「これは……」
そこには――
病的なまでに白い肌の女性。
彼女の全身は鋭利な黒い剣や、黒い槍で貫かれ、手足には杭が打ち込まれ、鎖でぐるぐる巻きにされていた。
血はしたたりおち、血が滲んだ目隠しの下からも赤い涙がこぼれ続けている。
〔「〈【貴方。ニンゲン?〕】」〉
「たぶんね」
〔「〈【ふふ、ふふふ!〕】」〉
異常な光景。
異常すぎて、逆に冷静になってしまう。
〔「〈【ヨの結界にニンゲンが入ってきたのは……とってもとっても久しぶり〕】」〉
「結界?」
〔「〈【普通はね、近づく前に、ニンゲンは溶けちゃうんだヨ?〕】」〉
足元の水を手ですくってみる。
光が反射し、どす黒く鈍い色をしていた。
……これ、絶対飲んだらダメなやつだ。
「じゃあなんで僕は溶けないんだ?」
〔「〈【なんでだろうね?えへへ〕】」〉
「なんでだろうね~」
うん。
この人、たぶんヤバい。
「じゃ、そういうことで」
踵を返す。
だが――
【【【【【待って】】】】】
全身が硬直した。
動けない。
〔「〈【ごめんね。長い間も誰とも話してなくて、寂しいの。せめてあと少しだけ、ね?〕】」〉
「ワカッタ。カラ。コノ動ケナイヤツ、ナントカシテ」
〔「〈【あっあっ、ごめんね〕】」〉
その瞬間、呪縛が解けた。
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「で、君の名前は?」
〔「〈【ヨ?名前、長いヨ〕】」〉
「ほう、僕の故郷にも寿限無さんっていう超長い名前の人がいるよ」
〔「〈【じゅげむ?ふふふ!面白い響き!ヨの名前は、ファビウス・アルカンデス・ディオバリウス・エノヴィウス・ルクシリウス・カリガストルム・シャルヴィルディウム・インフェルヌス・セプティミウス・アナトリウス・ヴァルスカリウス・マグナドムス・ノクトルナス・オメガ・ディメンシウス・アビスモンデス・アウレリウス・ヴェスティガス・ドミナス・ヴェラキウス・ディエトリウム・ルウルデウス・カタクリシス・イグナニアス・カルヴァリウス・インテルナクス・アストラグノス・アビロス・アークティウム・メロプティウス・サンクティウス・ソレヌス・ヨクシリルウス・ヨルグナス44世だよ〉】」〕
彼女は淡々と、自分の名前を語り出した。
想像の5億倍長いのきたな…。
「ご、ごめん。覚えきれないや」
〔「〈【ふふ!だから言ったのに〕】」〉
「じゃあ最後の部分だけ取って呼ぶよ。ヨル、ヨル…えっーと」
〔「〈【それがいい!〉】」〕
「え?」
〔「〈【ヨルヨル!ふふ!ヨ、ヨルヨルがいい!〕】」〉
「……さいですか」
彼女はアッサリと自分の長すぎる名前を捨てた。
自己紹介大変そうだったもんね。うん。
「ヨルヨル、君はここに住んでるの?」
〔「〈【うん。ヨルヨル、ずっとここにいるヨ〕】」〉
「……」
どう考えても魔王かそれに類する存在な気がする。
「一応~…聞いておくけど……ヨルヨルって、魔王だったりする?」
――ズンッ。
心臓が縮み、全身の毛が逆立つ。
彼女から放たれる、ドス黒い『圧』。
ほんの少しでも動いたら、確実に死ぬ。
そう思わせる『圧』
〔「〈【その呼び方、嫌い〕】」〉
「……ごめん」
〔「〈【いいヨ。知らなかったんだもんね〕】」〉
圧が消える。
気を取り直して彼女を見る。
微動だにしない。
もちろん口も動いていない。
脳内に直接語りかけてる、ってやつか。
「ゆるすのは、一回だけだヨ」
その言葉だけは、耳元で囁かれた。
「なっ……」
〔「〈【ふふ!ふふふ!イタズラ~〕】」〉
目の前にいるのに、耳元で囁く。
――ヨルヨル。
この人、絶対怒らせたらヤバイタイプだ。
「ここから出たくないの?」
〔「〈【ダメ。守ってるの。約束〕】」〉
「約束?」
〔「〈【ふふ、そう。約束〕】」〉
仮に本物の魔王なんだとしたら、脱獄の手伝いには最高の助っ人だと思ったけど、さすがに無理そうか。
〔「〈【でももっといっぱいお話してくれたら、元の場所には戻してあげてもいいヨ〉】」〕
「本当か?」
〔「〈【いっぱいおしゃべりしようね〉】」〕
そういって彼女は楽しそうに話し始めた。