第1章 1''-7 四指
獣王ナベリウスはナラク城の階段をゆっくりと登る。
深紅の絨毯が敷かれた古びた石段を、硬質な爪がカツリ、カツリと刻む。圧縮された瘴気が壁に染みつき、薄暗い灯火の揺らめきが長い影を生み出していた。獣の王と謳われる男の瞳は、炎のように揺れながらも冷徹だった。
「やぁ、調子はどうです?」
飄々とした声が宙を舞う。振り向けば、闇を裂く漆黒の翼がゆったりと動き、仄かに気品のある香りを匂いを漂わせていた。
「うるさいぞ……アンドラス」
ナベリウスの低く唸るような声に、アンドラスは肩をすくめた。
彼もまた異形の者。静寂を司る魔であり、その影には音すら逃げる。魔王四指——魔王直轄の六階層にて囚人を管理する強大な存在のひとり。四指はそれぞれの階層に君臨し、絶対的な支配を誇る。
第一層、獣王ナベリウス。
第二層、不死ウェパル。
第三層、静寂アンドラス。
第四層、幽冥マルファス。
そして、彼らを束ねるのは第五層の虚無ベレト。
彼らは六層に眠る魔王と共に、かつての戦争で封じられた。——ニンゲンの監視という、忌まわしくも滑稽な役割を背負わされて。
ナベリウスが扉を押し開くと、円卓にはすでに一人の影が座していた。
ニンゲン用の青いゴシックドレス。だが、その生地はじっとりと濡れ、滴る水音と共に鰭や鰓が垣間見える。ウェパルだった。
彼女はナベリウスと目が合うなり、怯えたように顔を背けた。
「やぁ、調子はどうです? ウェパル」
「……………………………………………………………………………」
「皆さん、もっと会話を楽しみましょうよぉ」
「すまない、遅れた」
「マルファス殿! いやぁ、本日もお美しい! マルファス殿がいないと話し相手がいなくて」
人形のように造形の整った少女——マルファスが頬を赤らめ、戸惑いの表情を浮かべた。
「じ、自分にそういうことを言うのはやめてくださいと……何度も申し上げているのですが……!」
アンドラスが楽しげに笑う。
「うるさいぞ」
冷えた声が響いた瞬間、部屋全体が影に呑まれる。
五層を統べる男、ベレト。
四指は即座に言葉をつぐみ、膝をつく。空間そのものが沈黙に呑まれ、支配の威圧が肌を刺した。
「先代四指に恥じぬ振る舞いをしろ」
「約一名、先代=本人がいるんですが……」
「……」
「あ、すみませ~ん」
四指は十年前の戦争で三名が命を落とした。
唯一生き残ったのは王の名を冠するナベリウス。
他の三人は、いわば穴埋めに過ぎない。
「揃っているようですね」
円卓のはるか上方、幽玄な声が響いた。
「チッ……」
ナベリウスは舌打ちをする。
「各層、報告を聞かせてくれますか?」
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「では、今月も変わりなく……ですわね。ありがとうございます」
「変わりねえよ。囚人の数も、魔種の具合もな」
第一層の管理者、ユリエル・グレイヴィアに『何の問題も無いこと』を報告する。
ナベリウスが席につくと、マルファスも続いて第四層の状況を伝えた。
次に、ウェパルが立ち上がる。
「ウェパルちゃん! 逢いに来ましたわよ~!」
第二王女、アルルアリス・グレイヴィア。
彼女はまるで友人に会うかのようにウェパルに笑顔を向ける
ウェパルもパアッと花が咲いたように微笑み、饒舌になる。
「歓談はそのあたりで。あとで時間を取ってあげますから」
穏やかに、だが有無を言わせぬ声が響く。
「アンドラス君、報告をお願いします」
「ええ、オズワルド様」
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報告が終わると、ナベリウスは立ち上がる。
「今日は随分とご機嫌ナナメですね?」
アンドラスが微笑む。
「お前たちは今、幸せか?」
急な問いに、アンドラスは目を瞬かせた。
「……は? いやいや、アナタ、本当に何が……。いや、茶化す雰囲気ではないですね。それがしは幸せですよ。勝手に食料が運ばれてくるし、特に争いがあるわけでもない。退屈ではありますがね。ははっ」
「なら、いい」
ナベリウスは部屋の扉に手をかける。
「ナベリウス」
ユリエル・グレイヴィアが呼び止めた。
「第一層は囚人の入れ替わりが激しい。少しでも変化があれば逐次報告を」
「相変わらず平和だ……問題なんて、この十年、一度もなかったろ」
扉を開け、階段を降りる。
怒りの感情が、二頭の獣の目を覚まさせる。
「すまんな、起こしたか」
「気にするな」
「まだ眠い……」
——あれが魔王だったなら、その存在を俺様は許容できない。
怒りが蒸気となり、獣の皮膚から立ち昇る。
人類解放戦争の最終局面。
勇者に封印された王。
俺様だけが知る、あの戦争のくだらなさ。
——命乞いをした勇者を、踏みにじるべきだった。
あの時の選択を、絶対に許さない。




