94:教育のために
「あ、あの……摂政殿下? ほ、本当に私たちがここで働くんですか?」
ガチガチに強張った顔で震え声を漏らす女の声。
それに振り向けば声を出した白髪混じりの女をはじめ、程度の差はあれども似たり寄ったりな様子で建物を見上げる老若男女混合の大人達が。
やれやれ、そんなに緊張することもあるまい。これまでやっていた仕事の規模が拡大するだけだろうに。
「無論だ。今後のスメラヴィアを担う者を育てる大事業には不足かも知れんがな」
「そんな!? 元はお貴族様の、それも都に住まうための御屋敷じゃありませんか!? そんなところに私どものような……」
「なんだそんな事か? 持ち主はもう存在せず、建物そのものも完全に崩落していたので、跡地に我々で新造した物だ。加えて民のための学舎として使うと陛下からも認可を得ているのだ。むしろこのような箱しか用意できなかった事を悔やんでいるくらいなのだがな」
「そ、そそそそんな摂政殿下!? お、おやめください! 私どものような……教鞭を執った事があるというだけの辺境村の庶民を相手に……」
「何を言う。未来を担う者達を育て、これからもその難事を担おうと、私の呼びかけに応じてくれた皆に敬意を払わずしてなんとする。そこに冠の有無など関係あるものか」
「そのお考えは尊く素晴らしい事かと存じます。存じますが……畏れ多い事でございます」
尊い考え、か。私としてはただただ人材を育てるために見込んだ相手に相応の態度を取っているだけのつもりだがな。
しかし高位の者の言う無礼講を言葉通りに受け止めるわけにもいかんというのも、知恵持つ者の世の常というものか。
「ともあれだ。箱も元はどうであっても急拵え。生徒も冠持ちの子弟ではない庶民の子だ。そう気構える事なくやってもらいたい、というのが私の考えだ」
本当に大層なものを用意したのか。畏まるのは中を見てから言っても遅くはあるまい。と、私が先導する形で学舎に招き入れれば、集めてきた教員達は皆感嘆の息を。
確かに木の香りが漂う程の新築で、教室も複数。窓も多く狭苦しくは感じないだろう空間を確保したものであるが、学舎として建てたものはどれも同じようなもので、興味をそそるような作りでもあるまいに。
そんな私の考えとは異なり、白髪混じりの女教師は開いた扉から見える空っぽの大部屋にまた息を吐く。
「は、はぁ……それにしてもこんな御立派な……それを急拵えだなどと惜しげもなく……この御期待に私のようなのが果たして応えられるのか……」
出来る。出来るのだ。
そうだと見たからこそ声をかけて集めて来たのだからな。
都周りの町や村から集めてきた彼と彼女らは確かに、これまで教師として知識を授けて来た相手はちょっと裕福な庶民の子女程度。名の知れ渡った教育者ではない。
だが実際に見れば未来の民の育て役として決して軽んじて良い相手ではない。
女皇の即位と婚姻。それから私のパートナーに立候補して来た面々が軒並み跳ね除けられた事件からいくらか時を置いて、乱で更地になっていた皇都の強化再建もまずまずには進んでいる。
そうして再建された住宅には、避難していた元々の民に加えて再建に従事して定住を決めた職人、復興の進展を聞きつけた商人らが住民として居つきはじめている。
人が増えれば家族が出来上がる事もあり、そうなれば将来の住民もまた生まれてくるというもの。
現状は帰還者や移住者の子女の相手メインになるであろうが、民の育成のために教育の現場は先々に整えておくに越したことはないのだ。
当然都に住む子どもたちの全員、市民と認めらた者の子だけに限ったとしてもこの一校だけでは賄い切れるものではない。他にも同じような形で持ち主のいなくなった貴族豪商の屋敷跡地に新築する形で各地区に用意してある。
学ぶ事か出来る者には可能な限り機会を与えねばならんからな。
「それは、道理でありましょうが、しかしこんなにも一度に整えてしまって運営に問題はないのですか?」
「そ、そんな事を摂政殿下が考えていないはずがないでしょうに失礼な!」
「いや、良い視点、良い質問だ。疑問や不安を感じたなら解決のために調べる。それを許さず答えられないようでは人材育成すべしとの私の考えもハリボテ同然だ」
事実、教育には金がかかるからな。
箱と教職員さえ整えばそれで出来るというものでもない。
学舎の設備管理に、教員とその他職員の給料。更には教材の用意。サラリと挙げられるだけでもこれだけのものが。これらをどう賄うのか、主導する私というお上がどこまで出すのか。どこからを生徒とその家庭に負担させるのか。それはとても重要なところだ。
「国が運営するのだから、大半はこちらの予算で運営してもらう事になる。都度必要に応じての増額も考えてはいるが、現状ではこれくらいを考えているな」
「こ、こんなにもッ!? これは……その、都中の学校を合わせた額で?」
「何を言う。各校それぞれひとつひとつの基本的な額だ」
そんな中途半端にケチくさい真似をするように思われるのは心外である。使える金に真の無制限は存在しない。が、先行投資に出し渋りをするようでは成功の芽も生まれまい。
「しかしだとしてもこんなにも……これだけの額をどうやって回収するおつもりで……」
「無論、卒業生が身につけた教養による働きで、だが? 私は教育設備に分かりやすい儲けなど求めてはいないからな」
教育、さらに医療は本質的には投資である。そしてその目的、というか大目標は有能な働き手の増加とそのコンディション維持だ。それが達成されているなら丸儲けと言っても過言ではあるまい。
もっとも先の言葉でもあるが、使える資金にはどうしても限りがある。
生きる糧を得て、暮らしを保つ金を得るためには即座の儲けを求めずにはおれんものだ。理想は必要だが、それだけを優先しては餓死者が出るのだからな。
「この資金も、私がこれまでの領地運営で出た稼ぎで賄っているものだ。無視して良いとまでは言わんが、それほど気負うものでも無い。そもそもだ、気負うにも実際の授業を行える時間もまだそれほどは取れまいからな」
「それはどういう事で?」
「ここは庶民向けの学校だ。農村程では無いとして、子どもの手伝いが必要な家庭も多かろう。それが家業についての大切な学びの時間でもあることだろうからな」
何も机に齧りつき、書を貪り、先人の知恵を耳目にするだけが学びではない。現場で体感する事の方が身につく学びもある。
現状のスメラヴィアの社会では、子どもは家業の研修生として養育している面も大きい。そこへお上からとはいえ、事業外の教育も行うように言われては実利を理解しても反感があろう。各家庭は言わば共同投資者だ。そこの納得を無視してばかりでは禍根も出てくるというもの。
よって現状で各地区にて国営で動かす学校は、生徒に貸し出す教材を含め生徒と各家庭の負担は基本無料。授業についても行うのは閑期を中心に、あるいは午前のみとして運用とするつもりだ。
この段階で意欲と才を見せ、もっと学びたいとする者に向けては別の高等教育機関へ導くとして、読書計算をはじめとした基礎教養を遍く施すための設備は、ひとまずこの形としておく。
「摂政殿下はなんという……」
「ここまで民のためを思って……」
「こうして雇われているということは我々も国家の……」
私の説明を受けて希望に輝いた目を交わし合う教員たち。そんな彼らの希望に水を差す形にはなるかも知れんが、ひとつ大切な事は言って置かねばならんな。
「私に雇われていると見たその考えはまさに正鵠を得たものだ。では、私に厚遇されていると公言する我が精兵。彼と彼女らに私が課している法と、それを破った者の末路についても肝に銘じておくようにな」
基本的なものであるが、特にご法度のものを破れば即死罪となる我が軍法。それも知られていたようで、浮ついていた教員たちは水を打ったように静まり返るのであった。