『揺らぐ碧の向こう側』
【揺らぐ碧の向こう側】
浅葱の人生でもっとも古い記憶は、揺蕩う一面の碧から始まる。
昼も夜も-それどころか、どれ程年月が経ったのかすらも解らない。何処までも水で満たされた世界。それが幼く小さな人魚だった頃の浅葱にとっての唯一だった。向こう側が透けて見える程の純度の水晶で創られた外側に、思考を鈍らせ体力を奪う碧の薬剤と無数の頑丈な鎖で満たされた水牢。幼い浅葱はただ邪神に捧げられる器-いわゆる生贄として其処に繋がれていた。
『もう少しで我が神のための器が出来る』
『他種族に虐げられ喰われてきた我ら人魚族の歴史に終止符が』
『喰われ死んでいった同胞にやっと顔向け出来る』
『もう怯えて暮らす必要などない、他種族など滅ぼしてしまえ』
『さあ、その命を我が神のために差し出すのだ』
己を産んだ母という者も、己の兄姉だという者達も。それどころか人魚が棲む村の一つであるこの村を統べる村長という者さえも。数々の村人の人魚達が浅葱の囚われる水牢を覗き込んでは、己の憎悪と私欲に塗れた言葉を浅葱に放っていった。
「(ぼく…しぬために、うまれてきた、の?)」
我が神が誰かなんて解らない。何故村の人魚族が喰われ虐げられているのかも知らない。すでにその心は器とするためにそぎ落とされてしまっている。けれどそんな浅葱でも解る事が一つだけあった。村人達にとって、浅葱は『同胞』ではないという事。浅葱は彼等にとって神へ捧げるための供物であり、自分達の他種族への復讐を遂げるために必要な道具でしかないのだと。浅葱自身を必要としている者など、誰もいないのだと。
同胞達が怯えて暮らす事の無い未来のためと、お綺麗な言葉を並べながら浅葱には死を強いる。正気であれば誰もが気づくだろうその些細な矛盾を、村の上層部の者達に指摘し浅葱を助けようとする者は誰一人としていなかった。
-そう、『彼等が信仰する邪神であった』とある女神以外は。
「(ぼく、しにたく、ない…。だれか、たすけて…!!)」
無音の碧に呑まれ微かな水泡と化し、声にならない悲痛な浅葱の叫びの直後。硬く閉ざされていたはずの水晶の牢は、太陽の光を受けて眩く輝く無数の破片へと変わる。跡形もなく砕け散った牢から浅葱は薬剤と共に外へと流れ出し、数年振りに吸う地上の空気に激しく咳込んだ。そして未だに重い鎖で戒められた身体を滲む視界の中必死に起こすと、浅葱の目の前に一人の女性が音も無く降り立った。
その女性は処女雪の如く真白の繊細なレースで飾られたドレスを身に纏っており、風も無いのに長く柔らかな澄み切った青空のような青の髪が揺れていた。女性はその痩せ細りやつれた浅葱の姿を見ると今にも泣きそうな表情をその端正な貌に浮かべ、その幼い身体を薬剤で衣服が汚れるのも構わず抱き上げた。
「見つけるのが遅くなって御免なさい坊や…!今、鎖も外してあげるわね」
浅葱の大きな紅色の瞳から溢れる滴をそのぬくもりの主である女性ールシスの白魚のように白く細い指が優しく拭う。そしてその手をそのまま浅葱の身体を未だ捕らえる無数の鎖にルシスがかざせば、鎖は純白の光に包まれて一つ残らず砕け散った。長きに渡り己の自由を奪っていた重さを失った浅葱は、バランスを崩してルシスのドレスに包まれた豊かな胸部へと倒れこんでしまった。そして息も絶え絶えに自らを解放してくれた女性を見上げ、浅葱は首を傾げて問いかけた。
「だれ…?」
「私は女神ルシス。この世界の主神の半身。…邪神ルシスと呼ばれていた事もあるわね」
「めがみ、さま…?ぼくを、たすけて、くれるの…?ぼく、しにたくない…」
ルシスの答えに思考の自由を奪う薬剤に漬けられていた結果鈍くなっている思考を懸命に回しながら、浅葱は自らの願いに応えて現れた女神であるルシスに縋った。まだ生まれて間もない幼子が同族しかいないはずの村で四肢を鎖で繋がれ薬剤に漬けられており、見ず知らずの初対面の相手にこんなにまで懸命に助けを求めるなど。浅葱が涙ぐみながら助けを求める姿を見れば、十人中十人がそう感じるであろうと断言できる程、今の浅葱の姿は痛々しかった。勿論、そう感じたのは望んでいない依代を勝手に用意されその依代である浅葱を救いにきたルシスも同じであった。
「大丈夫。…お姉ちゃんが、絶対君を安全な所に連れていってあげる。もう、こんな苦しい所にいなくたっていいのよ」
「あり、がとう…。るしす、おねえちゃん…」
浅葱が漬けられていた装置は強制的に思考の自由を奪うだけではなく邪神の依代として自己犠牲を否と思わぬよう洗脳し続ける装置でもあったためか、強力な洗脳に逆らい続けたあげく突然に解放された浅葱の体力は尽き、そこで幼い浅葱の意識は途切れた。それから浅葱を庇いながら戦ったルシスの負った怪我をみた主神カタルとその保護者であるレーゲンが怒りのままに村で暴れまわり、クーデターじみた邪教信仰を行っていた村は共にきた国王浮婪の手によって取り潰された。
この時ルシスによって救いだされた幼く小さな人魚の少年が生涯をかけて護り抜きたいと願う存在である幼馴染に出会い。彼の笑顔を取り戻すためにその雷の魔力を制御するペンダントを採りに、雷を纏う巨大な馬の魔物が棲むダンジョンに潜り何度もその魔物を撃破して宝物であるペンダントをボロボロの姿で幼馴染である少年に差しだしたり、幼馴染の少年の笑顔を生涯護りたいという想い一つで自分より何倍も大きな身長を持つ成人男性先代騎士団長を剣一つでボコボコにしてトラウマを植え付けるのは、また別の話。