『未来の君への白き祝福』
【Prologue:『未来の君への白き祝福』】
「今日の我はとても気分が良いからな。少しばかり昔の話をしてやろう。」
―血の通わぬ神に勝利した、一人の聖女と三人の英雄の話を。
王都ファルベの隣にある、
竜人族が代々治め発展してきたロストブラオン領。
その一角にある友人の店の隅にひっそりと存在するバーカウンターで、
琥珀色の酒が入ったグラスを揺らしながら黒髪の青年は朗らかに笑った。
時は遡ること、数十年前。
国王浮婪と宰相君尋が共に英雄として、
邪神から世界を取り戻した天雷事変が起きたとされる年の一年前。
そして人々が≪存在しない世界≫と認識している、
時を司る主神カタルの力によって時間を巻き戻された
数多くの世界の内の一つ。
その世界には唯一、
未来の英雄二人を≪ただの子供≫として、
護ろうとした大人達がいた。
誰の力を借りる事も許される事無く、
それも生まれ落ちて数年であるのに。
世界を変えようと、藻掻き続けた幼子達を。
そして繰り返しの世界の中で唯一、
邪神に堕ちた少女をその死をもって解放した者達が。
『世界を護るために死んだアンタなら、必ずまだ居ると思ってたぜ!』
一人は赤き髪と純白の二丁の散弾銃を持つ青年。
その名はジギタリス=コバルティア=ヴァルト=ヴァイス。
彼はいち早く子供達の片割れの死による世界の繰り返しと
隠された御伽噺の真実に気づき。
そして子供達の精神の摩耗を止めようと、
最初に立ち上がった人物でもあった。
『私はまだ子供のあの子達に、
もうこれ以上死の痛みと人の死を背負わせたくない!』
二人目は葡萄色の揺れる長い髪と強い光の魔力を持つ女性。
その名はシェリーディア=ジャンヌエル=ヴァルト=ヴァイス。
ずっと隣にいてくれた恋しい、
そして大切な相手をただ取り戻したいだけ……。
そんな幼くも純粋な二人の願いを知るからこそ。
その聖女の力をもって、
忘れ去られし神への道を繋げた人物だった。
『ローゼン先生が護り、ヴィーとリフが遺した希望は…、
デウスが願った未来は俺が繋ぐ!』
三人目は青みがかった白髪と漆黒の大斧を持つ青年。
その名はサリエリ=サンデュエフォン=ヴァルト=ヴァイス。
死んだ親友が書き遺した、
王家の秘密についての書記を引き継ぎ。
初代王家の罪を暴き、彼の邪神が愛に裏切られた
一人の少女である事を見抜いた人物であった。
『運命を定めるのが神であるのなら、想いを糧に運命を打ち破るのが人だ』
―我らが先祖である白竜が、
嘗て一人の少女の真摯な想いに応えたように。
最後の四人目は顔布越しですらその魂が震える程の、
重圧をかける血通わぬ神の眼差しに。
真白き剣を掲げ真っすぐに見つめ返し、
そう宣言した紅瞳の青年。
その名はロードナイト=ヘリオール=ヴァルト=ヴァイス。
旧き神であるエアが自ら創り出した、
精霊樹キリシュの祝福の正統後継者でもあった。
そしてこの四人が当時世界中に砕け散った
魂の破片の一つを依代とし、血通わぬ神として
憎まれ役を買ってでたエアに≪人の想いの強さ≫を見せつけ。
詰みとなっていた未来の英雄である浮婪と君尋に、
≪力で凌駕するのではなく、剣を捨て少女に寄り添う≫
という世界を救うための選択肢を与えた、四人だった。
そんな四人を嘗て親友に与えられた
人としての感情を全て失った瞳で布越しに眺めると、
神は心底可笑しそうに高笑いをした。
『神の御業を持つ者達ですら打ち破れない運命を、
その魂を燃やしてでも打ち破ろうとするか』
『ああ面白い。
その煌めく魂の炎の輝きは、
我の本霊が嘗て失った愛し子に良く似ておる』
ただ世界を管理し本霊の願い通り
堕ちた聖女を救うためだけに、何度も時を巻き戻す。
淡々とした作業とも言える、
その繰り返しを行うためだけに。
生み出された己に残された、
本霊であるエア=アデールの生前の記憶。
人に疎まれ憎まれ失脚を望まれながらも、
ただ世界に存在する生きとし生ける者を
己の愛し子として愛で。
冷たい王座に座っていた、創生神エア。
そんな彼に贈られたのは、
堕落の毒を有した眩く煌めく宝物。
魔族達は彼を骨抜きにし、
愚鈍な王と化すために宝物を贈ったが。
その宝物は特別を作らずただ無気力に、
周囲の望む王を演じ続けてきただけの彼を
鳥籠の外へと連れ出した。
全知全能と呼ばれた彼ですら、
不可能だと思っていた奇跡を起こした。
ただの分霊となった己の中にすら
鮮明に焼き付いている。
エアが宝物と称した、少年の笑顔。
冷たく冷え切ったエアの魂を温め、
氷漬けになっていたその心を
溶かしたその魂の輝き。
神の目の前にいる四人が持つ魂の輝きは、
一人一人色は違えど、
嘗ての宝物と同じく眩く輝いていた。
神は己をただ役目をこなすだけの
分霊へと足らしめている漆黒の顔布の紐を自ら解くと、
はらりとその布を床へと落とした。
光の届かない深海が四人を見据え、
今やこの世に≪たった一欠片だけ存在する創生神エア≫が
その神気を解き放った。
そして閃光にも近い眩い光が収まった後に、
彼ら四人の前にいたのは。
世界の管理者としての分霊ではなく、
嘗てこの世界を誰よりも愛した本霊、エア=アデールだった。
長くなった黒髪が、神気が起こしたそよ風に揺れ。
そして煌めく光を取り戻した群青色の海が、
四人を見据えながら柔く細められる。
『ならば我はそなたらを一度だけ信じよう。
黎明と同じ輝きを持つ者達よ』
『聖女の力を使ってまで、我を見つけ出したのだ。
我にしか、叶えられない願いがあるのであろう。
言ってみるがいい』
そのエアの微笑みは
御伽噺で邪神と呼ばれていた者とは思えぬ程、柔らかく。
ロード達は誰に強制されたでもなく。
目の前の澄み切った目映い神気を纏う黒髪の青年が、
≪何事も無ければ現代でさえ、仕えていたであろう己の主≫
である事を感じて片膝をつき、騎士の礼を取った。
そして最も年長の竜であるロードは
片膝をついたまま真っすぐにエアの瞳を射抜き、こう願った。
『今代の国王である浮婪=エンドレスと君尋=マイグレッグヒェン。
その両者に今の世界の記憶を授けたまま、
彼らを生きたまま時を巻き戻して欲しい』
迷いの無い瞳でそう告げられたロードの願いに、
エアは驚きに僅かに目を見開いた。
堕ちた邪神である聖女を無理にでも元に戻す事か、
そうでなければ運命に選ばれた者達の役目を
自分達に肩代わりさせろと願われるとばかり。
そう思っていたエアは、
目の前の四人の想いの強さを改めて強く実感した。
この者達はこの世界に存在する誰よりも――、
それこそ神である己よりも――信じているのだと。
世界を救う運命に選ばれた英雄である国王と聖女が必ず、
自ら未来へと続く道を切り開く事が出来ると。
今の自分達の力では、
術が発動するまでの時間稼ぎにしかなれずとも。
その打ちこんだ楔は、未来への架け橋となるのだと。
そして大切な誰かを取り戻したいという強い≪愛≫は、
世界を変えるのだと。
掛け替えの無い存在達を、
己の手の届かぬ場所に攫われてしまった
嘗ての自分に。
彼らのような、熱があれば。
久方振りに感じる悔しさと共にエアは微かに涙ぐむと、
エアは強く頷きこう言い放った。
『相分かった。そなたらの願いを聞き届けよう。
そしてその願いの代償を伝えよう』
『まず我の息子である白竜の
正統後継者である、ロードナイト。
そなたからだ。
…そなたの代償は≪幸運≫。
以降の世界のそなたは、
己の幸運によって回避していた出来事を
もう回避する事が出来なくなる。
未来に生まれる末子の誕生によって、
そなたの妻はその命を落とすであろう』
『あの子達は俺にとっても、
孫娘同然の存在だ。
娘息子同然の旧友達が
遺した忘れ形見を守るためなら、
俺はどんな代償ですらも受け入れよう。
…彼女は自らの命を削ってでも
子が流れ易い人として胎で産む事ではなく、
生まれて来る子が強く生まれてくる卵で産む事を、
とうの昔に決断している。
勿論夫婦二人で決めた事だ。
そして命を落としても必ず、
もう一度互いを見つけ出す約束もしている。
…心配感謝する、優しき旧き王よ』
そんな固い決意を秘めたロードの言葉に、
エアはほんの少しだけ痛みを堪えるような
視線を寄越してから。
真っ白なローブの裾に隠れた、
指先が露わになったグローブをした手を彼に向けた。
そして何かを掴むように、
その開いた掌を握りこむと。
ロードの心臓付近から、
万物の生きる源である揺蕩う海のような
群青色の輝きを取り出し、
四人と己の丁度中間部分へと浮かべる。
そして次はシェリーへと向き直ると、
同じように彼女に向かって手をかざした。
『シェリーディア。そなたの代償は≪運命≫。
以降の世界ではそなたはまず男の姿で生まれ落ち、
愛する男と結ばれる事が出来なくなる。
そして聖女の力も、
乙女でなくなったそなたからは奪われるであろう。
今の戦闘力は全て覚醒した聖女の力が、もたらしている物。
…そなたは、戦う術を奪われた竜となる』
『聖女の力を私から奪うのは、
男として育てられ己を乙女だと知らずに育った
君尋へ贈るためでしょう?
なら勿論受け入れる以外に、選択肢はないわ。
想い人の心ぐらい性別が違ったぐらいで、
射止められずどうするの。
浮婪だって元は男で生まれ落ちたけれど、
姫君としての自分も磨いて年の離れた側近の
叶に猛烈アピールしているんだから!』
何の問題もないとばかりに笑い飛ばし、
己の思惑すらも見通したシェリーに。
エアは驚きながらも
少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
彼女の心臓付近から、
温かく人々を照らす日の光のような山吹色の輝きが
エアによって取り出され。
ロードのものと同様に宙に浮かべられた。
そしてエアは上げていない方の手を
僅かに握り締めると。
ジギへと二人へかざしていた手を向けようとした。
その丁度、その時。
節々が太く微かに剣だこすらある太い男の指が、
ためらいながら手をかざそうとするエアの手を包んだ。
『アンタが俺に求める物は解ってる。
幸運、運命、とくれば後はおのずと絞られる。
そして俺が異様に良いものと言えば≪縁≫だ。
この≪良縁≫を、どうか俺の可愛い妹達を
助けるために使ってくれ。
このなくなった事で出会えなくなる奴とは、
そのうち自力で出会ってやるからさ』
『…ロードナイト、
そなたの子供らは賢い子ばかりだな。
その通り、そなたの代償は≪良縁≫だ。
そなたには良き縁を自ら手繰り寄せて結び付け、
悪しき縁を切る力がある。
己だけではなく、周囲にも影響する力が。
そしてその力は世界の運命を変えるために必要不可欠なものだ。
…そなたがその力を失った代償に、
そなたの親友タンザと出会う事はなくなり
あの者は悪へと堕ちる。
それでも、自ら手放すと申すか?』
ジギの頼もしい言葉と明るい笑顔に、
エアは今にも泣きそうな顔になりながら
最後は震えた声で呟き軽く俯いた。
まるで人の痛みすらも自らの物として、
共感しているかのようなそのエアの姿に。
ジギは少しだけ苦笑するとエアの手を掴んでいない方の手で
まるで幼い子供にするかのようにエアの頭を数度撫でた。
そして幼子を諭すかのような口調で、静かにこう告げた。
『あいつが悪に堕ちるとしたら、
そりゃそれ相応の理由があったからだ。
もう一度出会った時ですら
大切な物を見失ってなんざいたら。
この俺が直々にぶん殴って、あいつの目を覚まさせてやる。
…だから神さんよ。もうアンタ一人でこんな、
寂しい所にいなくたっていいんだ。
信じてくれるっつうなら、俺達の手を取ってくれ』
ジギがもう一度想いを込めるように、
エアのその手を握ると。
静かに頬に透明な雫を伝わらせながら、
エアはジギの手を握りしめ―、そしてジギの中から
煌めく焔のように燃える真紅の輝きを取り出した。
そしてジギの輝きも宙に浮かべた所で
ジギの手を離し、エアは耐えきれなくなったかのように
両膝をついて大粒の涙をいくつも床へと零した。
『我は孤独である事を義務付けられた者だ、
我が手を取ればそなたらも黎明のように破滅する!
願い一つすら叶えるのに、四人全てから惨い代償を奪うような神を、
何故そこまで信じる事が出来るのだ!』
エアの中で神代の親友である黎明を喪った事は、
消えない傷となって残っていた。
自らの努力が足りなかったがゆえに
初めて感じた憤怒を抑えきれず、
数え切れないほどの人々を殺した。
己は邪神と呼ぶにふさわしい。
愚の骨頂であると。そう、エア自身が感じていた。
だからこそ、自ら世界の身代わりになり
死ぬ事を選んだというのに。
そんなエアの前に嘗て視界を奪った、
その色と同じ白が現れ。
その胸倉は、鍛え上げられた男の手
――先程のジギのものより、細い青年のものではあるが――
によって、掴みあげられた。
『無惨に殺された親友のために、お前は怒ったんだろ!?
愛しく想う家族のために、一人悪者になり殺される
その覚悟だってしたんだろ!?
それに伴う恐怖も、辛さも、悲しみすらも
全部たった一人で、独りぼっちで抱え込んで!!
…俺らはお前に願うだけ願って、
理不尽に逆恨みした奴らとは違う。
唯一無二の親友と二度と逢えなくなって悲しむ、
人間一年生の餓鬼から無償で奪う程
俺達は堕ちちゃいねェよ。
…最後の代償に必要なのは、
あいつらが今までの世界で受け続けてきた厄を
次から一心に受けるための人柱だろ。
俺の代償も持ってけ、エア=アデール』
サリエリはエアを立たせて、胸倉を掴んでいた手を離すと。
他の三人の誰も呼ばなかった、エアの真名を微笑みながら呼んだ。
世界中の民から祈られ与える側
であるはずのエアを、餓鬼と呼び。
己が惨い代償として伝える事を嫌がった代償を
持って行けと迷いの無い言葉で言い放つサリエリに。
エアはとめどなく流れる清流を
堰き止めるかのように裾で涙を拭い、
その言葉に応えるように頷いた。
『そなたはまるで黎明のように
我を≪人≫として扱うのだな……。
相分かった。
そなたの代償は、≪人柱≫だ。
以降の世界で浮婪と君尋が
受けるはずであった厄をそなたが引き受ける。
そなたらの弟御である空炉が
裏切る未来は変えられないが。
他の者が邪神となってしまった瑠香の甘言に、
なびく事は防ぐ事が出来る。
親しい者からの裏切り。
そなたに待ち受けるのは、
どの世界でも真実を知り殺されていたはずの
親友デウスによる裏切りだ。
あやつが死ぬ未来は変えられぬが、
厄を引き受けた事によりデウスはそなたを
利用しようとする者達から守るため
そなたを裏切る事になる』
親友を失う痛みを誰よりも理解しているエアは
痛みを堪えるような顔をしてから、
親友が裏切ると告げられたサリエリの顔を見た。
しかしサリエリは想定内だというばかりの表情をしており、
震えるエアの両手をしっかりと両手で包み込むと
静かにその涙で濡れた瞳を見つめ返した。
『あいつがそういう不器用な奴だって事は知ってるし、
次の俺だって裏切られたってあいつの事を信じてるさ。
権力や金が欲しいからって、
自分を信じてくれている奴を裏切るような奴じゃない。
デウスは世界を変えるために独自でお前の事を調べて
王家の秘密まで暴いちまった奴だぜ?
裏切られた俺がそれでも信じてるって知ったら
甘ちゃんかよって笑い飛ばすような奴だ』
親友からの裏切りすらも覚悟の上だと。
それすらすでに覚悟した上で、
世界を救うための人柱と成ると。
そうエアを見つめて真っすぐ言ったサリエリに、
エアは嘗て自らが愛し子として愛した
黎明の強さを感じ取った。
そしてサリエリの中から若々しく大地から芽吹く
緑のような深緑の輝きを取り出すと、
すでに宙に浮かべていた三色の輝きと混ぜて
純白の大きな一つの輝きを創り出した。
そしてその純白な輝きは四つへと分かたれ、
それぞれロード・シェリー・ジギ・サリエリの前に還ると
四人へと纏わりつき皆違う形をかたどった。
ロードの前に還った輝きは彼の首回りを包みこみ、
小さな氷が弾けるような透明な音色と共に
彼の持つ白竜の剣と同色の外套となり。
シェリーの前に還った輝きは彼女の掌の中で身の丈程の杖の形となり、
ロードのものと同じく美しい音色を奏でながら光が弾けると
大きな青緑色の宝石が先端にはめ込まれた青銀色の杖へと変わった。
ジギの前に還った輝きは彼の手首を包みこみ、
紅き炎が弾けるような音を立てて指先までを包み込む
漆黒のグローブへとその姿を変え。
サリエリの前に還った輝きはエアが離した彼の両手の中で
身の丈程の大弓の姿を形作り、白薔薇を模った純白の輝きが舞い散ると
共に薄く緑がかった銀色の大弓が現れた。
自分達の願いを叶えるだけではなく
贈物までされた事に驚きを隠せない四人に、
エアは子供のような無邪気な笑みを浮かべてこう告げた。
『それは我からの贈物だ。
…そなたらの願いを叶えるためには、
時戻りが成された後この世界のあの子を殺さねばならない。
浮婪達が死なずに時戻りをするための条件は、
エーアデという世界の器であるあの子が殺される事だから』
親友を失い神として王座に座り続ける事すらも難しくなった己を、
自由にすると約束してくれた異世界の少女。
その温かな笑顔をエアは
長すぎる時が過ぎ去った今でも、鮮明に覚えていた。
一つの淡い恋のすれ違いから捩じれ続けた運命に巻き込まれ、
その笑みを失ってしまった少女。
自分とレーゲンが助けようと手を尽くしても、
未だに救う事が出来ない黎明とは別ベクトルで
エアの中で大切な存在である彼女。
そんな彼女が殺される事が時戻りの条件である事に、
エアはその歯を食い締めた。
何が全知全能の神だ。
様々なものを犠牲にして、
気の遠くなる程の時間をかけたというのに。
たった一人、大切な片割れを惨い形で奪われ、
愛しい人に裏切られ泣き続ける少女の涙すら
拭ってやる事の出来ない己など。
あの子に必要なのは
自分が己に与えたような冷たい刃の感触ではなく。
傍にいてその凍り付いた心を
溶かしてくれる誰かのぬくもりなのだと。
そう解っているのに。
『解った。
…ならば贈物の礼に、俺達が貴方の願いを叶えよう。
…貴方が世界を繰り返してまで望む、未来はなんだ?』
世界の狭間という鳥籠の中から出る事が出来ない己の願い。
神として願われるだけではなく、まるで友人にでも言うような
気さくさで手を差し伸べられて言われたそのロードの言葉に。
エアの視界は再び滲み、
熱い涙がその純白の外套までも濡らした。
そして長年の絶望から
救い出してくれるかのような光を前に。
縋るかのような気持ちで、
震える指でエアはロードの手を取った。
『…どうか、愛しい人に裏切られ、
大切な人を奪われて泣き続けるあの子を、救ってやってくれ。
犯した罪は確かに重い。
けれど我は、我にもう一度人としての生を
与えてくれようとしたあの子に、温かな笑顔が戻って欲しい。
レーゲンも、ヴァッサーも、ずっと…っ、ずっと、
あの娘を救いたいと願い続けてきたんだ…ッ!!』
世界を管理するような力さえあれど
大切な少女一人救う力は、エアを始めとした彼ら三人には無かった。
運命を管理する身である彼らが、私情を挟んで
一人の少女の運命を変える事などしてはならない事であったからだ。
それでも彼らはあらゆる手を尽くして救おうとした。
けれど、自分達の声はすでに闇に囚われ堕ちた少女には届かない。
愛しい存在を奪われ、惨い形で目の前で嬲られ殺されたアレク。
愛しい兄と引き離され憎しみの種を植え付けられ、
幼馴染である少女と青年への憎しみを募らせていったゴルドー。
強すぎる一途な愛が変貌した結果の、
深すぎる二人の憎悪と共鳴してしまったルシスは。
嘗て愛した存在である勇者ジェイドの生まれ変わりを
――自分と片割れであるカタルへと行った非道な行いを忘れさり、
愛しい人々に囲まれ幸せに笑っている別人格といえど同一の魂――を前に、
ルシスの心は悲しみと憎悪で溢れかえり決壊してしまった。
深すぎる愛によって壊れてしまったものを取り戻すためには、
同等以上の愛をぶつける事でしか
光の元へと連れ帰る事など出来はしない。
けれど世界の狭間にいる己では、それすらする事が出来ない。
そんな感情をこめてエアが泣き叫ぶような声で願いを告げれば、
ロードは元の世界に戻る時間制限が来た事を示す
淡い光に包まれながらも力強く頷いた。
『ああ。…必ず、貴方の大切な娘を取り戻そう。
だから信じて待っててくれ。
…きっと、貴方も愛しい娘にもう一度会える。
いなくなってしまった、貴方の親友にだって。
何の根拠もなくたって、言葉には力が宿るんだ。
…強く信じ続けて未来を掴むために足掻き続ければ、
どんな夢だって叶うんだ』
そうロードが告げると四人の身体は眩い光へと包まれ、
世界の狭間である真白の空間から消え去った。
一人残されたエアは祈るように未だ温かな温もりの残る
己の両手を指を組んで握り、両膝をついて跪いた。
代償を支払ってまで世界の運命を変えようとした、
本物の勇者達に武運があるようにと。
「そして元の世界へ戻った勇者たちは、
『可愛い妹分達の前なんだ、恰好ぐらいつけさせてくれよ』だとか
『ローゼン先生直伝の弟子の俺が、あんなリフの得意属性すら
使いこなせてねェ奴に負けるかよ』などと言って
死ぬと解っていて特攻していってな。
勇者の一人が二人が命を賭して弱らせた邪神を
少女に自らの剣の力で戻し。
聖女が大魔法で邪神であった少女に
トドメを刺してその世界は終わったのだ」
大きな瓶に並々と入っていた
琥珀色の液体を三分の二程一人で飲み干しながら、
エアは上機嫌でそう告げた。
その場にいた四人は自らの知らない
――知るはずもない、前の世界の自分達の記憶――を
目の前の青年に話され少し固まってから。
その内の三人であるジギとサリエリとシェリーが
顔を真っ赤にして羞恥心に耐えかねて叫んだ。
「待て待てエア爺さんッッ!!!
内容的にこっぱずかしい俺の台詞言うのはわかるぞ??
でも元の世界に戻って言った恰好つけの台詞まで
わざわざ言って締める必要性あったか!?!?
しかもドヤ顔で言い放っておいて死んでんじゃねえか俺!!!」
「前の世界の自分がプライドエベレストすぎて辛ェし、
なんなら今の自分でも同じ状況に追い込まれたら
言う自信があるのもまたきっっつい!!!
しかも前の世界の俺が、今の世界の俺の事言い当ててんのも辛ェ!!
そうだよデウスの事裏切られても信じてたわ!!!」
「二人はまだ恰好つけがデフォルトだから
良いじゃないか今の世界でも!!
僕なんか性別違っても好きな相手を絶対振り向かせるって
初対面の相手に宣言してるんだよ!?
どんだけ自信に満ち溢れてたの前の僕!!
今流石に恥ずかしくってそんな事人前で言えないよお!!」
バーカウンターに崩れ落ちるようにつっぷして叫んだ
三人の青年の姿をエアは好々爺じみた笑みを浮かべながら眺めると、
楽しげに手酌で空になったグラスに酒を注いだ。
そして羞恥心で転げまわるかのような心境を
暴露し続ける息子達を少々呆れた顔で見るロードのグラスに、
自分が飲んでいた酒の瓶を傾けて
琥珀色の液体をとくとくと注いで笑った。
「ロードも中々に、
恥ずかしい台詞を連発していたようだかの。
そなたは息子らのように転げまわらずとも良いのか?
まあ最後に言い捨てていった台詞は中々に響いたがの」
「信じれば夢叶う、か?今の信条でもあるから
特に恥ずかしいとは思わねえなあ。
前の俺の言う通り、エアは大切な娘にも
唯一無二の親友にももう一度出会えただろ?
世界が変わろうが、俺は俺なんだよ。
まああいつらはまだまだ餓鬼だから羞恥心が先に来てんだろうが…、
どの世界でも根っこの部分は同じだろ。
なんたって、俺とロスが育てた可愛い子供達だからな!」
ニッと悪戯っぽく楽しげな笑みを浮かべると、
ロードは微かな硝子がかち合う音を立てて
エアのグラスと己の持つグラスを合わせる。
そして美味そうに喉を鳴らして酒をあおると、
自らがボトルキープをしていたらしい
薄い桜色の酒をエアのグラスに並々と注いだ。
その桜色の酒――竜人族の間では元々色んな部分が強靭な
竜人族に伝わる強力すぎる精力剤でもある『夢桜』と呼ばれる酒である――が
家に帰れば可愛い嫁二人がすやすやと穏やかな寝顔で待つであろう己へのささやかなロードからの仕返しだと悟ったエアは、今の世界では友人になり
目の前でしたり顔で酒をあおる彼の笑顔を見て、
してやられたとばかりに顔を歪めた。
「…ロード。
我が王都の家に帰る頃には、
我が嫁達はすでに穏やかに眠っておると思うのだが。
確か解散は日を跨いでからであったよなあ、この宴会は??」
「可愛い嫁ちゃん達を叩き起こして翌朝怒られるか、
一晩中悶々して爆発して夜怒られるか。
俺は前者に賭けるけど、どっちになったか
息子達と賭けてるから次の宴会の時教えてくれよな!」
そういい笑顔で言い放ち
可愛い息子達を羞恥心を煽っていじめたエアへの
倍返しを告げるロードの楽しそうな笑い声と。
悔しそうに次の酒を所望し、
酔いで感情を制御しようとするエアの唸り声。
そして羞恥心で転げまわるうちに、
今世の恥ずかしい過去すらも叫び始めたサリエリ達の叫び声が、
貸し切りにした酒場の中で響き。
その酒場の騒がしさに呼応するように、
周囲の店も負けじと客を寄せ。
楽しげに客達は並々と注がれたグラスを手に、
互いのグラスをかち合わせて笑顔を浮かべる。
そうしてまだ月も夜空に上ったばかりの
ロストブラオン領の夜は、
賑やかに更けていくのだった……。