08
「ダンスが踊れない? あなた、16歳でしょう?」
きっかけは、本来ならデビュタントの時期なのに、という夫人の何気ない一言からだった。
私がダンスができないのでデヒュタントに参加できない事は逆に気が楽です、と言った瞬間、夫人はその美しい眉を吊り上げて、こちらを睨むような顔で見てそう言ってきたのだ。
私は畏れと恥ずかしさで身を縮こまらせながらも、夫人の問いかけに辛うじて口を開いた。
「あの、小さいころは伯母がつけてくれた先生がいたので、基本的なステップなら、多少は……」
「ということはヴェロニク様が亡くなられてから、子爵はご息女の淑女教育をなさってなかったという事ね……なんということ」
夫人はその麗しい眉を八の字に歪めた。ダンス以外の勉学の家庭教師も父は『女には不要だ』と言ってすべてやめてしまったのだ。それを知っている夫人はダンスもかと頭を抱えているのだ。
「家政婦長に相談してダンスの時間は設けましょう――ダンスの一つも踊れないで貴族令嬢は名乗れないもの」
「夫人にそこまでしてもらう必要は……」
「いいえ。私は貴女をお預かりしていると思っているわ。だから、貴女が貴族令嬢としての教養を身に着けるのは私の義務よ」
「申し訳ございません」
「貴女が謝ることではないわ。 ――その代り、素敵な殿方に出会ったら是非私にダンスを見せて頂戴ね。これはお約束よ」
罪悪感で顔を歪める私に、夫人はにっこりと笑ってそう言った。
* *
「アデリー! 素敵なダンスだったわ!」
久しぶりのダンスに愉悦にも似た達成感に息を吐いた途端、聞き覚えのある声が聞こえて思わず目を見張る。
いつの間にか群衆から解放されていたらしい夫人が、割れた川を渡ってくる様に人の波を背に此方へ向かってくる。それはいつもの余裕たっぷりな社交界用の夫人ではなく、ドレ伯爵邸の夫人の態度に似ていた。つまりは少し子供っぽく、感情が豊かだ。
「周りの方がどんどんいなくなっていくから何かと思えば、素晴らしいダンスを披露しているんですもの、私も思わず見入ってしまったわ!」
「夫人……」
「それで、こちらの方はどなた? 私初めて見たお方だわ」
私の落ち着いてくださいという呼びかけに夫人は気付かず、そのままぱっとヴァレーズ騎士の方を向いた。天真爛漫な夫人の姿に私が少し苦笑いをしていると、ヴァレーズ騎士がニコリと笑って夫人の手を取った。
「お初にお目にかかります、ドレ伯爵夫人。私はミシェル・ヴァレーズと申します。王都の騎士をしております。以後、お見知りおきを」
ヴァレーズ騎士はそう言うと、夫人の指先に軽く口付ける。その姿に、周りのわっという喜色の声が聞こえた。当の私は、横の二人を薄眼で見ていた。直視してしまったら目が潰れると思ったからだ。それくらい2人は眩しかった。
「まあ、騎士様なのにダンスがお上手ね」
「体を動かすことは得意ですので」
夫人の言葉に私はハッとなった。たしかに、貴族だったら必須だが、彼は騎士とはいえ平民。社交用のダンスを何故踊れるのだろうか。騎士というのは、行儀見習いでダンスも習得するものなのだろうか。
そう思って、彼の騎士をちらりと見ると、ばちっと音がなりそうな程目が合って、思わず肩が強張る。
「楽しかったですね、アデライード嬢」
「え、ええ」
楽しかったですか、ではなく、楽しかったですねと言うところ上手いところだ、と私は思う。満足気に笑う彼を前にそれを言われたら、私は頷かないわけにはいかないではないか。
そんな私たちを見て、夫人はとても良いわねとこちらも満足そうに笑っていた。
「アデリー、約束を果たしてくれてありがとう」
「あ……」
「私も久しぶりに誰かと踊りたくなってしまったわ」
だれか、と夫人が手を宙に浮かせれば、今度は紳士がその美しい花に群がってきた。手の動き1つであんなにも人を寄せ付けることが出来るなど、やはり夫人の影響力は強大だ。
「約束とは?」
「あ。ええと、素敵な殿方に出会ったら是非私にダンスを見せてほしいと、ドレ伯爵夫人と約束していて……5年も前の約束だったので、まさか夫人が憶えているなんて」
私の口から出た言葉なのに、もう5年も経っていたことに改めて長い時間の経過を感じて驚いた。あの時は、あと1年と立たずに借金が返済出来る予定だった。だから夫人の申し出を申し訳ないと思っていたのだった。
それが、やれ妹の家庭教師代だ、弟のギムナジウム代だ、妹の持参金だと次々に別の借金が現れて、それら全てを伯爵家に用立ててもらっていた。結局、家に帰ったのは去年だった。
おかげで5年間も勉学とダンスに勤しみ、結局どちらも『十分すぎる程に上出来だ』という評価を貰っていた。
「良い関係なのですね、ドレ伯爵夫人と」
「ええ――恐れ多くも、姉の様に思っております」
騎士の声音があまりに優しかったので、つられて普段は決して口にしない事を言葉にしてしまった。あ、と思った時にはすでに時遅し。横にいる騎士はやはり笑顔でこちらを見ていた。
今のは何卒内密に――そう口止めをしようとした瞬間。
「なんておこがましい」
思わず水を頭からかぶったような冷たさを感じた。振り返れば、扇で口元を隠した人物がこちらを睨み上げていた。そして彼女を取り巻く様にこちらを睨む数人の令嬢がそこにいた。
「あなた。あんな噂がある中でルイーゼ様を『姉のように思っている』ですって? 本当失礼にもほどがありましてよ」
「全くです」
「本当に」
「ああ、そこの殿方。そこの子爵令嬢はあろうことか姉と慕う方の夫とご関係があるお方――くれぐれもお気を付けあそばし」
そこ言葉に周りの取巻き達がクスクスと笑いだす。私はそれに思わずぐっと拳を握った。
夫人の信奉者だろう。夫人がダンスに夢中になっているときに話しかけてきたのが、その証拠だ。きっと先ほどまでの言葉にも聞き耳を立てていたに違いない。全く悪趣味で、性格が悪い。
「それはただの噂だと再三申しております。私もドレ伯爵も、ドレ伯爵夫人も否定していることでしょう」
「ではなぜ噂がなくならないのかしら? それに、嘘なら貴女はとっくにご夫人になられているのではなくて?」
ちゃんとしたご令嬢ならその年でとっくに結婚しているぞと言外に馬鹿にされて、私は思わず目を細めた。本当は唇を噛み締めたかったが、そんな姿を見れば彼女の加虐心に火をつけてしまうだろう。今ですら楽しそうに目を三日月に歪めているのだから。
それに、ここで言い募れば、年端いかない令嬢をを黙らせる年増令嬢、という噂をこの目の前の令嬢か、後ろの令嬢が吹聴するのは明らかだ。
ここは黙って、この令嬢が勝手に勝ち誇っていなくなるのをやり過ごすしかない。
何も言わない私に満足したのか、嫌味な令嬢はフン、と私を一つ鼻で笑うと、一転、騎士ヴァレーズに憐みの顔を向けた。
「悪女に付きまとわれて大変でしたでしょう。よろしければあちらで一休みいたしませんこと?」
「そうですね、一休みしようと思います」
「まあ嬉しいわ。私は……」
「ですが、性悪女とご一緒する気はありません」
「……は?」
その場の空気がビシリと音を立てそうなほどに固まった。性悪女と呼ばれた令嬢は、まるで信じられない者でも見たように目を見開き、ヴァレーズ騎士は対照的に朗らかに笑っている。いや、笑っているように見えた。
(目が、全く笑っていない)
「おや、ご自覚がない? それは、随分と目と頭が悪くいらっしゃる。 ――ああでも、だから二人のやり取りを見て根も葉もない噂を信じられるのですね。納得です」
「な、な、貴方、失礼じゃない!」
「先に私が踊ったパートナーへ失礼な物言いをしたのはそちらです。 まずはそれを謝罪されては如何か」
「……何故、わたくしが」
「では私はこれ以上貴女と話す義理もありませんね――失礼」
ヴァレーズ騎士はそう言うと私の手を思い切り引っ張った。私は思わず足がもつれて倒れそうになるが、腰に添えられた彼の手が転倒を阻止した。
そうして彼は黙ったまま、丁寧にでも強引に私を中庭までエスコートしてくれた。音楽は辛うじて聞こえるが、人の喧騒は聞こえない。布の擦れ音すら騒がしい程の静寂。
「あの、よろしかったのですか? あの方、シャリエール侯爵の愛娘で……」
「私は騎士です。貴族社会とは無縁なのですよ」
私はその言葉に素直に納得できない。確かに彼は騎士で平民身分であるが、だからこそ貴族、それも上位貴族たる侯爵家のご令嬢に歯向かって大丈夫なのだろうか。
私の心配が伝わったのだろう、彼はもう一度にっこりと笑って、大丈夫ですよと再度口にした。
「ご存知でしょう? 私、カスティヨン公爵と懇意なのです」
私は思わず口に手をやった。私が彼と最初に会った場所であり、友人のレティシアの嫁ぎ先。ああいう手合いは権威と階級に物を言わせてくるが、彼にはさらに上の公爵家との伝手があるのだ。いくら愛娘の願いでも、シャリエール侯爵は今回ばかりは娘に我慢をさせるだろう。
私はそのことにほっと胸を撫で下ろした。
「アデライード嬢」
「はい」
「踊りましょう。 ここなら誰も来ませんから」
ヴァレーズ騎士はそう言うと、先ほどと同じようにこちらに手を差し出してきた。
「私、そこまで慈悲深くないんです。――初対面のあなたの言葉も覚えているんですからね」
「はい」
「あれでも私なりに考えた服だったんですよ……似合ってなくても。 それはお分かりいただけてますか?」
「はい」
「だから、これはお礼です」
私はそう言うと、差し出された手に自分のそれを乗せた。本当はこれがお礼になるのかなんてわからないが、今、彼に差し出せるのはこの身だけだ。
ヴァレーズ騎士は私の手を握ると、すっと流れる様な手つきでワルツの体勢をとった。
「ヴァレーズ様……噂を信じないでいてくれて、ありがとう」
「私は貴女の敵ではありませんから。 ――貴女を信じるのは当たり前です」
「……こちらを、見ないで頂ける?」
「今日は有明の月ですからね」
ヴァレーズ騎士はそれだけ言うと、やはり慣れた手つきで私をリードした。少し薄暗い月夜に照らされながら、私は声もなく涙を流した。
こんな暗い月明かりの中なら、きっと誰も見ていない、そう信じて。