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二人の物語  作者: 瀬生莉都
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第2章 始動 その1

 デュエールがいなくなった後は、特に変わりない日々だった。彼がいないことなど、珍しいことではなかったから。

 毎日、神殿に通い、与えられた仕事をする。合間には犬神に会いに行き、森で昼寝をして過ごす。そしてジュノンの分の家事を引き受ける。

 そうやって、二ヶ月はあっという間に過ぎていった。



 今日のルシータは快晴。空は雲ひとつなく朝から穏やかに晴れ上がり、時折気紛れに吹く緩やかな風が街を抜けていく。朝からエルティスが張り切って干した大量の――ザラート家の分も含めて――洗濯物も、日が傾き始める頃には綺麗さっぱり乾いているだろう。

 犬神の統治する森にも陽の光は絶え間なく降り注ぎ、穏やかな風が木々の間を抜けていく。

『どうしたのだね、エルティス。今日は機嫌がいいようだね』

 犬神は寝そべった岩の上から顔を上げ、同じ岩に寄りかかる、今日の陽気が乗り移ったかのような雰囲気の少女を見下ろし声をかけた。

 エルティスの表情は花が咲いたように明るい。ここ二ヶ月はついぞ見ることのなかった表情だ。それを見ただけで、犬神にも理由は簡単に予想がついたのだけれど。

「え?」

『今にも鼻歌でも歌いだしそうな顔だ』

 犬神にからかうように言われ、エルティスは嬉しそうに笑った。屈託なく笑うその笑顔を見れば、彼女の容姿がとても綺麗であることがわかる。普段は周囲に対し警戒と嫌悪を放つことしかないから――。

「うん……、あのね、デュエールがもうすぐ帰ってくるの!」

『見たのかね?』

「たぶん、レンソルの近くまで来てるの。ルシータの周りと植物が似てたから」


 デュエールの視界を追うと、見たこともない植物や生き物を見かけることがある。同じファレーナ国内とはいえ、ずいぶん遠くへ行っているのだなと、そんな光景を見るたびにエルティスは思っていた。

 だからこそ、よく見慣れた風景が目立ってくると、彼が帰ってきているということがわかる。

 そして何よりエルティスが嬉しかったのは、彼が一目散にルシータを目指していることだった。

 エルティスが目の前の木々をとらえた瞬間に、それはあっという間に後方へ流れていく。馬を走らせている証拠だ。それが、いつも見る速度よりずっと速かった。


『思えば、たいした力だな。その力は。いつでも、望むときにデュエールの視界が見えるのか』

「うん。でも、いつも見ているわけじゃないよ。本当に時々だけ」

 彼がどこにいるのか、どうしているのか、本当に気になるときだけだ。度を越えて彼の視界を覗き見ることは、デュエール自身を侵害することだと、エルティスは知っている。

 エルティスは空を仰いだ。深緑の枠に囲まれる空は、目に痛いほど真っ青だ。

「小さい頃は、そんなことできなかったんだけどね。いつからだろう、こんなことができるようになったのは」

 昔を思い出し、懐かしむようにエルティスは言った。それに同じような口調で応じる犬神。

『昔は、デュエールの方がエルティスを捜すのは得意だったかな』

「うん、そうそう。おかげで、かくれんぼなんか大嫌いだったもの」

 犬神の言葉に、エルティスは笑う。


 昔は、相手の居場所を容易に知ることができたのは、彼の言葉通りデュエールの方だったのだ。彼自身に魔力を抱える力はなく、魔法を使うことはできなかった。だから、それは幼い彼にあった唯一の不思議な力。

 どんなに遠く離れていても、どんなに木々や茂みに身を隠しても、デュエールはあっという間にエルティスを見つけ出してみせたのだ。

 デュエールが鬼になればすぐさまエルティスを見つけ出し、エルティスが鬼のときは彼女が近付くのを察知して隠れる場所を変えるものだから、幼いエルティスは自分が圧倒的に不利なかくれんぼが大嫌いだった。

 けれど、いつからだったろうか。デュエールはエルティスの居場所を容易に探し当てることがほとんどなくなった。代わりに、エルティスはデュエールの視覚と聴覚を借りて、彼と感覚を共有することができるようになったのだ。

 あるいは、デュエールがミルフィネル姫とよく遊ぶようになった頃からだったかもしれない。幼い頃よりずっと遠くなっていく距離を、一緒にいられなくなる時間を埋めるように、エルティスはデュエールの視界を一緒に覗き、彼が聞くものを聞くことができるようになっていた。


「こうして、変わっていくのかもしれないね」

 エルティスはぽつりと呟く。自分が新たな力を得て、そしてデュエールがただひとつの力を失くしたように、自分たちはゆっくりと変わっていき、そして戻ることはないのだろう。

 けれど、今の自分に、どこかにたどり着く未来の自分の姿は見えない。

 今と同じことをずっと繰り返すのだろうか。それともどこか違う場所へ、未来へ、到達することはできるのだろうか。

 デュエールが帰ってくるというのに、時折発作のように思い浮かぶ暗い思考が、エルティスの心に影を落とした。

 変わらないものは、この森。ここで過ごす時間だけ。

 街を覆う風と同じものが森を抜け、さらさらと葉擦れの音を立てる。辺りを埋め尽くす木々のそれは合唱となり、耳に心地いい響きを残していった。



「ごちそうさまでした! 美味しかったよ、小父さん」

 重ねられた空の食器を前に食後の挨拶をして、エルティスは目の前にいた中年の男性に声をかけた。

 デュエールとよく似た深い茶色の髪と深緑の瞳を持つその人が、デュエールの父親、ジュノン・ザラートである。穏やかな笑みを見る度に、デュエールの容姿と雰囲気がまるっきり父譲りであることをエルティスは実感するのだった。


 その日、たまりにたまった洗濯物を綺麗さっぱり片付けてくれたお礼に、エルティスはジュノンから夕食の招待を受けていた。

 といっても、お互い一人暮らし状態であるため、一緒に食事を取ることはよくある。そしてジュノンは料理人の性なのか、自分の作った料理を振るうのが大好きなのだ。つまり、洗濯のお礼というのは、ある意味口実なのである。


「どういたしまして。そうやって残さず食べてくれると、作る側も本当に嬉しくなるね」

 ジュノンはエルティスの言葉を受けて、心底嬉しそうに笑った。

「うん、あたしはジュノン小父さんの料理はどれも大好きだよ。おかげで好き嫌いもなくなっちゃったし」

「そう言われると、作る楽しみが増えるねぇ」

 満腹になったら、お茶が飲みたくなる。勝手知ったる幼馴染みの家、エルティスは台所を借りてお茶を入れ始めた。


 湯気を立てるカップを二人分、テーブルに置く。彼専用のカップを手元に引き寄せると、ジュノンは早速口をつけた。

「――うん、美味しいな。エルちゃん、お茶を入れるのがうまくなったね」

「本当?」

 ジュノンの言葉に、エルティスは水色の瞳を輝かせた。一流、と形容詞のつく料理人にそう評されれば、嬉しくもなるというもの。

 その向かいに座ったエルティスは、自分用に入れたお茶を一口飲む。体を流れていく温かさ。自分でも、結構美味しく入れられたと思う。

 まだ熱いそれを、一息に近い勢いで飲み干すと、ジュノンは満足そうにカップを木製の卓に置いた。


「こんなに美味しいお茶を入れてもらえるし、家事も上手だし。エルちゃんにうちにお嫁に来てもらえるといいんだけどなあ」

 ジュノンがそう言うと、エルティスはぴたっと動作を止めた。持っていたカップの水面が揺れる。わずかな間をおいて、一瞬にして顔が真っ赤になった。

「や、やだなあ小父さん。そんな冗談、いきなり。そんなこと言ったって何も出ないからね」

 エルティスは椅子を蹴倒しそうな勢いで立ち上がり、ジュノンの前に積み重ねてある空の食器と自分の前のそれとを抱えると、しゃべりながら逃げるように台所へと向かった。

 顔が、熱い。たぶん、耳まで真っ赤になっているに違いない。

 桶に張った水に食器を浸す。食器を洗うための布に石鹸をこすりつけながら、エルティスは先ほどのジュノンの言葉を思い出し、思わず泣きそうになった。

 大好きな人の父親に、こんなに大事に思ってもらえること。幼馴染みだけの特権だと思ってもいいだろうか。

 ふと横に目をやれば、料理に使った鍋が、水を張ったまま放置されている。これも洗ってしまおう。

 まだ頬に残る熱さを吹き払うように、エルティスは声を張り上げ、隔てられたところにいるジュノンに叫んだ。



 鍋も洗っちゃうねー、との声に返事を返しながら、ジュノンは呟く。

 彼の脳裏に浮かぶのは、まだ自分の息子が幼かった頃の光景。

「……冗談でもないんだけどねぇ」

 ――もちろん、彼の呟きも真意も、エルティスの知るところではなかったのだが。

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