第一章⑦
その夜、タイコは夢を見た。
熱帯夜だ。今夜はきっと太陽を掴んでしまうのだろうって、微睡ながら、タイコは予感していた。部屋を冷やせばいいのだろうが、エアコンは苦手だ。寝苦しい夜。足から引きずり込まれるように、タイコは夢に潜る。
そして予感の通り、太陽を掴んでしまった。
そして滞りなく、太陽は炸裂し、この小さな世界を激しく光で包み上げる。
そしてタイコは太陽と同化し、神様になるのだった。
「神様なんかじゃないわ」と声がする。澄んでいて、それでいてざらついた、割れたガラスの破片のような声がする。
夢はまだ、続いている。
続いている?
「……え?」
雨上がりのように、光は地面にその痕跡を水たまりのようにわずかに残しながら、収束していた。そこに立っている、赤い髪の彼女に。「……どちら様?」
「まあ、座りなさい」
赤い髪の、ショートヘアの彼女はそう言って、タイコをベンチに座らせた。この小さな世界にはいつの間にか公園によくあるような木製のベンチが存在していて、タイコの隣に、ほとんど寄り添うように、彼女も座った。彼女の方がタイコよりも目線が少し高い。年齢は四つか、五つくらい上だろうか。彼女は髪の色とほとんど同色の赤いシャツを着ていた。そして可愛らしいユニオンジャック柄のネクタイに、赤いスカートに、チェリーレッドのブーツというアバンギャルドな格好だった。そして左耳にはシルバのイヤリングを付けていて、小さくて透明な宝石が輝いている。そこに光が収束しているようだった。
私が掴んだ太陽の光はそこに残らず全て閉じ込められているようだった。
「心配しなくて大丈夫、この光はあなたの光だから、私には使いようがないのよね、まあ、厳密に言えば、君の認可が必要だっていうことだけど」
「私の光? 私の認可?」タイコは彼女の顔を覗き込むようにして見る。近くで見れば彼女は瞳さえ、赤かった。「……ウサギみたい」
「あながち間違いじゃないわ、」彼女はクスリと笑って言う。「そしてあなたは太陽なんだから」
「太陽、」タイコは大きく頷く。「……ええ、そんな気はしていたの、私は太陽なんだって、ずっと心の底では、思い続けていたんだわ」
「あなたは神様なんかよりも、ずっと尊くて、大きなものよ、」彼女はいつの間にか煙草を吸っていて、雅やかに煙を吐いている。「太陽は全ての命の源であり、全てをメラメラと焦がしえる天体、全てをメラメラと惑わせる天体、要するに力があるのよ、大きな大きな力が、あなたの小さな体にはね」
彼女は両手を広げ、大きな両目をくわっと見開き、タイコの青い瞳をじっと見つめる。
「大きな大きな力って?」タイコは首を傾げ聞く。「原子力みたいな、エナジー?」
「なぁに小さなこと言っているの?」彼女は笑う。「原子力以上のエナジーよ!」
「……ふうん、そうなんだ」
「なぁに、つまらない反応ね?」
「ぴんと来ないんだもの、私に原子力以上のエナジーがあるって言われたって、どうしたらいいの? なんの使い道が? 発電機にでもなればいいの? 私はエレクトリック・ジェネレイター?」
「発電機とは、あははっ、」彼女は肩を揺らして笑う。「とっても退屈そう」
「……ねぇ、私のエナジーって勇気とか、度胸とか、そういうものに変換出来る?」
「変換出来るかって? 同じようなものでしょうに、同じ力でしょうに、変換の必要なんてない、君流に言うならジェネレイターを回転させればいいだけの話よ」
「回転」
「そう、回転、動かせばいいのよ、力を、」彼女はタイコの心臓を指差す。「それだけ、最初はなかなか動かないかもしれない、けれど回転し始めれば君の力に勝るものはないのよ、とにかく君には力があるんだから」
「……私には力がある」
「うん、」彼女は大きく頷き、そしてタイコにそっとキスをする。「太陽なんだ」
そのキスはとても熱くて、溶けるようだった。タイコの心臓は大きく高鳴った。
「……ねぇ、あなたは誰なの?」
彼女は空に向かって指差す。
見上げた夜空には奇妙なほどに大きくて、そして赤らんだ月が浮かんでいた。
「私はアカツキ、君の光で輝く月のようなものよ」
タイコははっと目を覚ます。汗だくだ。額に手の甲を当て汗を拭う。今日は心がきっと興奮してしまうどうしようもない日なんだろう、と思い、息を吐く。眠っていたにもかかわらず、夢のせいで疲れ切ってしまった。あるいはトレーニングで追い込みすぎて、そのつけが夜に周ってきてしまったのだろうか。体は酷く怠かった。呼吸の辛さと、重力の重みに襲われる。
この街は深夜の二時を過ぎていた。
タイコはベッドを出て台所に行く。冷蔵庫を開け、冷たい水をゴクゴクと飲んだ。ビターなチョコレートをかじりながら、再び部屋に戻る。ふと、机の上に何かが立ち上がってこちらに視線を向けているのに気付いた。
ファンシィ・キディ・ラビットだった。
タイコは部屋の明かりを付けると机の上に立っている、赤い服を着たファンシィ・キディ・ラビットのぬいぐるみがよく見える。ユニオンジャック柄のネクタイに、チェリーレッドのブーツ。左耳にはシルバの指輪が通されている。指輪には小さくて透明な宝石がくっついている。抱き上げ、まじまじと見つめたが、このファンシィ・キディ・ラビットに見覚えはなかった。そしてこんなにもふわふわな感触のウサギを抱き上げたのは初めてだった。体温を持っているとさえ錯覚してしまうほどに柔らかく、臓器をその中に秘めているみたいにずっしりとした重みがある。
タイコの部屋は沢山のファンシィ・キディ・ラビットで溢れている。ぬいぐるみはもちろん、カーテンや絨毯やベッドカバーや文房具にいたるまでほとんど全てがファンシィ・キディ・ラビットだった。そうでないものを見つける方がきっと難しいくらいに、溢れ返っているのだった。しかし、このファンシィ・キディ・ラビットはその中のなにものでもなかった。
……なにものでもない?
「……新しいウサギ、」タイコの部屋に新しいウサギを、律儀に、何度も、連れてくるのは決まっている。「……お姉ちゃんだ」
帰って来たんだ。タイコは部屋をまた出て、隣の姉の部屋に向かう。静かに二回ノックする。「……お姉ちゃん、帰ってるんでしょう? お姉ちゃん?」
しかし応答はなかった。すでに寝入ってしまったのだろうか。タイコはドアノブを回し、扉をそっと開ける。部屋の明かりはなく、真っ暗だ。「お姉ちゃん?」部屋の明かりを灯すスイッチを押す。部屋は眩しく灯る。姉はいなかった。音もなく、密閉されて膨らんだ熱を持った空気だけが呻いていた。ギターは相も変わらず整然と並んでいる。膨らみのないベッドの薄い掛布団をめくってみても、クローゼットを覗いてみても、机の引き出しを引いてタイムマシンの入り口を探してみても、姉はいなかった。タイコは部屋の明かりを消し、自室に戻り、新しいウサギを抱きながらベッドに横になり目を瞑った。
お姉ちゃんはこの子を私の机の上に置いて、再び出かけてしまったのだろうか?
どこへ?
赤座さんのところだろうか?
きっとそうだろう。
お姉ちゃんは私のために月曜日に連れてきてくれる。
その約束を、お姉ちゃんは今夜だって、忘れていなかったんだ。
私は新しいウサギにキスをする。
私はファンシィ・キディ・ラビット・コレクター。
私は狂おしいほどに、このファンシィで、キディなウサギを何よりも、愛してる。