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私はファンシィ・キディ・ラビット・コレクター(The Rabbit Collector)  作者: 枕木悠
第一章 私はファンシィ・キディ・ラビット・コレクター
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第一章④

 民間のジムのような設備はこの地方の公立高校のトレーニングルームにはなかった。使われなくなった牛舎のパーティションを取り除き、そのまま器具を軽トラで乱暴に運び込んだような粗末なもので、まず扉はなく全て取り払われていて、床はいたるところがひび割れたコンクリートだった。扉がないということもあって、雨風に晒されダンベルやシャフトなどの器具はすっかり錆び付いてしまっているし、比較的新しく導入された風なエアロバイクは四台あるうち四台とも見事に故障していた。ラッドプルダウンやレッグエクステンションも、いくら油を刺してみたところで動かすたびにクラッカが弾けたようなけたたましい音がしてうるさくて堪らない。そのため利用者は少なく限られていて、筋トレが趣味の国語の先生が帰ってしまえば、ここにはタイコとカナミしかいなかった。

 タイコはジャージのポケットに一週間入れっぱなしでうす汚れた軍手をはめてベンチプレスを始めた。まず自分が持ち上げることの出来る限界の重さで三セットやり、少しインターバルを置いて、重量を落としてさらに三セット行った。そしてさらに重量を落とし、筋肉が機能しなくなって痛みが走り出すまで追い込んだ。ランニングの時と違って、粘り気の強い汗が全身から滲み出る。そして脳内に麻薬のような快感物質が溢れているのが分かる。頭の中がかなりクリア。ぜいぜいと激しく息を吸ったり吐いたりしながらタイコはベンチに仰向けになった状態でカナミに視線を向ける。カナミはフリーラックの中でかなりの重量を担いでスクワットをしている。カナミのお尻の形は同性のタイコから見ても溜息が出るほどに美しく、セクシィだった。あの形のいい筋肉がカナミを市内で一番の短距離選手に仕立て上げているのだろう。カナミは高い声を張り上げ、自分の限界を持ち上げる。「くそったれ!」

 この街は夜の七時。

 トレーニングを終え制服に着替えてタイコとカナミの二人は学校を後にし、最寄りのバス停に向かった。バスが来るまでに時間があったので近くのコンビニに入り、おにぎりと菓子パンを買った。ハードなトレーニングの後はいつだってお腹がペコペコになる。すでに太陽を掴んでしまった夢のことなんてすっかりタイコの頭の中にはなく、ご飯のことで頭が一杯になっていた。バス停のベンチに戻ると、二人で黙々とおにぎりと菓子パンを食べた。カナミはプロテインバーも齧っていた。一通り食べ終えた頃合いに、学校の方から三人の男子がやってきた。そのうち二人はギターケースを背負っている。軽音楽部の三人だった。タイコもカナミも彼らと一度も会話を交わしたことはない。けれど、彼らはだいたいこの時間に練習を終え、バス停に現れ、同じバスに乗るのだから、顔見知りのようなものだと、向こうはどう思っているか分からないけれど、タイコはそんな風に思っていた。それにタイコは三人が割にいいロックンロールをやることを知っていた。新入生の歓迎会か何かだったと思う。彼らは体育館のステージに立って演奏した。タイコの好みのパワーポップだった。だからタイコは勝手に、彼らに親近感のようなものを抱いていた。タイコはカナミとたわいない会話をしながら彼ら三人の会話に聞き耳を立てていた。彼らのリーダーの声は大きいからよく聞こえる。いつだって彼らは、タイコの好きなロックンロールの話をしている。タイコは好きなアーティストのラジオを聴いているようで楽しい。彼らの他愛ない冗談に思わずクスクス笑ってしまう。カナミは「どうしたの? 急に、気持ち悪い」とか言って、タイコのことを全く分かっていない。カナミはロックンロールが好きじゃない。それがタイコとカナミの決定的な違いだと思う。相容れないのだ。

 銀色のバスがのろのろと像みたいに巨体を揺らしてやってくる。

 バスに乗ってからも、タイコは窓をぼうっと見ながら彼らの会話を聞いていた。新しいメンバーを入れるとか、入れないとか、言っている。新しいヴォーカリストが必要だって。

 歌には自信がないのよね、とタイコは指に髪を巻き付けながら溜息を吐く。

 ルックス重視、だとかなんとか、言っている。

 悪くわないわよね、夜の車窓に移る自分の顔を見ながらタイコは思う。タイコの遺伝子の半分はロンドン由来だ。きっとロックンロールにうってつけだわ。男性に自分のルックスを評価されたことは一度もないけれど、客観的に見て、決して悪くはない、と思うんだけどな。

 なんて。

 悶々としていたら、カナミはタイコの肩に頭を乗せていびきをかいてすっかり寝入ってしまっている。彼らはバスを下車していた。タイコは彼らの姿を目で追ってしまう。バスが扉を閉め、走り出す。そのタイミングで、ふと、彼らのリーダーと目が合った。振り向き様にしっかりと目が合ってしまった、ような気がする。

 一瞬だったが、しっかりと見つめ合ってしまったようだ。

 一瞬だったが、タイコの体は激しく緊張し、呼吸さえも忘れてしまったようだ。

 どきどきしてしまう。

 顔が熱くなる。

 私が彼らの新しいヴォーカリストになれればいいなと思う。

 でもそのためには、勇気のようなものが全然足りてないと思う。

 目が合っただけで、どきどきしてしまうんだから。

 顔が熱くなってしまうんだから。

 太陽を掴んでしまった夢を見て、動揺してしまうんだから。

 バスを下車し、能天気にも欠伸が止まらないカナミと別れ、タイコは自宅のマンションに向かった。エントランスに入り、オートロックを解除するためにカリマのリュックから鍵を取り出そうとする。

 その時だった。

「タイコちゃん?」

 背後から男性の声がして、タイコは咄嗟に振り返る。タイコから少し離れたところ、エントランスの端に並ぶベンチの傍に見知らぬ男性が立っていた。ピンクがかったストライプ柄のシャツに、淡い色合いのジーンズに、コンバースの赤いハイカットという出で立ちの大人の男性だ。人懐っこい笑みを無理に作っているようで、なんだか不気味だった。

「……え、えっと」どきどきしながら、今日はなんてどきどきする日なんだろう、タイコは言い淀んだ。この状況の判別がつかなかったのだ。

 敵か、味方か。

 虚構か、現実か。

「似てるね」男性が突然、言う。

「え?」

「目元が、お姉さんに、」男性は自分の目元を指差しながら言う。「でもそれ以外は、あんまり似てないね、ヨウコの方がずっと日本人だ、タイコちゃんの方がずっとイギリス人っぽいね」

「だ、誰ですか?」タイコは男性に全く心当たりがなかった。

 タイコは彼との間合いを伺いながら、スカートのポケットに手を入れ、いつでも警察を呼べる準備をしていた。でも手が震えてしまっているから、無理かもしれないとも思う。

「あれ、もしかしてヨウコから何も聞いてない?」

 タイコは無言で頷く。

「ああ、そうなんだ、」と少し落胆した風に男性は後頭部を擦りながら、渇いた笑みを浮かべる。「そうなんだ、じゃあ、しょうがないね」

 そして男性は一枚の名刺をタイコに差し出した。


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