第一章③
タイコは更衣室に行き、学校指定の紫色のジャージに着替えてグラウンドに出た。グラウンドでは陸上部の面々が赤い顔をして走り込みをしていた。彼らの髪の毛は水を被ったみたいにしっかりと濡れていた。タイコもグラウンドに出てきただけだと言うのにすでに体中が汗ばんでいた。それくらい暑い。タイコは手を額に当て、太陽が沈みゆく方角の空を見る。濃いオレンジ色の斜陽。夕方だっていうのに、本当に、酷い暑さ。
「あ、遅いぞ、シンデレラ!」
陸上部の鈴白カナミが破裂するような笑顔で叫んで、こちらに駆け寄って来る。カナミは二年生でタイコよりも一学年上だったが、家が近所だったこともあって幼馴染で、タイコの親友だった。カナミはたまにふざけてタイコのことをシンデレラとか、シンディ・ローパーとか呼んだりする。それはタイコが父親から受け継いだ青色の目のせいで、決して素敵な王子様との遭遇を心待ちにしているとか、奇抜で派手なファッションをしているからという理由ではない。
「シンデレラじゃないわよ、」タイコはカナミに向かって軽く微笑みながら言う。「走らせてもらっていいですか?」
「ええ、どうぞ、お好きに」
いつも通り奇妙なものを見るような視線を送ってくる陸上部の面々に向かってタイコは「お邪魔します」と軽く会釈をして、かがんでナイキのスニーカーの紐をきつく結び直し、腰まである重たい黒髪を一つに縛った。そしてハードな練習メニューをこなしていく陸上部の横で入念なストレッチを始める。自ら決めた手順通りに上半身と下半身のあらゆる筋肉を出来得る限り引き延ばしていく。ストレッチが終わった頃にはタイコはすっかり汗だくで、紫色のジャージにも染みていた。最後にアキレス腱をしっかりと伸ばし上げ、タイコはグラウンドを走り始める。陸上部に所属していないのにこうやってグラウンドにお邪魔することが出来るのは、全てカナミのおかげだった。彼女は市内で一番の短距離の選手で、陸上部のエースだった。男子も含めて今の陸上部に実績のある選手はカナミ以外にいない。実質カナミがキャプテンのような存在だった。だからカナミが認可をくれればタイコはグラウンドを自由に走ることが出来るのだった。東側では野球部が、西側ではサッカー部が激しい練習をしている。その中を一周三分のペースを決して乱さずに、イヤホンで耳を塞ぎ、ベースボールベアのC2を聞きながら、タイコは体の律動のようなものを感じながら走り続ける。
律儀に。
私は律儀な女なのだ、とタイコは自分のことをそう評価している。自らが決めた一日のルーティンを滞りなくこなすことに快感を覚えるタイプなのだ。毎日ペースを乱さず、包丁を研磨するように、自らを鍛え上げることが自分の生きがいのようなものだと。
けれど、今日は少し呼吸が乱れている。体も若干重たいような気がする。
なぜか今日は。
この酷い暑さのせい?
太陽を掴んでしまった夢のせい?
それとも。
あなたの血を、血と呼ぶには赤過ぎるから。
その一節が、タイコになにかしらの影響を及ぼしているのだろうか?
とにかく。
血が沸騰するほどに、暑いな。
「タイちゃん!」遠くでカナミが呼ぶ声がする。「もうランニングはいいでしょうに!」
はっと気付けば空はすでに薄暗くナイター照明が点灯していた。どうやら一時間近く走り続けていたようだった。汗でTシャツはぐっしょりと濡れていて、喉もカラカラに渇いていた。タイコは手洗い場で水を飲み、顔を乱暴に洗った。
蛇口から出てくる水は温かったが、今のタイコにとっては十分に冷たかった。
「ランナーズ・ハイ?」カナミがタイコにタオルを渡しながら聞く。
「そんな感じ、」タイコは顔を拭いて、髪を拭く。「暑さにやられたのかな、火照ってる」
「へぇ、大丈夫?」カナミは不思議そうな顔でタイコのことを見る。「ウェイトはやってくの?」
「もちろん、」タイコは大きく頷き、タオルをカナミに返す。「ルーティンは欠かせない」
「無理するんじゃないよ」カナミはタイコの頭を昔からそうするように乱暴に撫でながら言う。
「うー」タイコはカナミの手を払って体育館に隣接するトレーニングルームに向かった。