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第三章④

「ほら、電車が来たわよ、」口の大きい天使と名乗る女は電車がやってくると立ち上がり、黒い日傘を畳んだ。「どうしたの、あなたはあなたの街へ帰る電車に乗るためにここで待っていたのでしょう?」 

 赤座は立ち上がることはせずに、沈黙しながら女の姿を観察していた。いや、正しくは足がすくみ立ち上がることが出来なかった。恐怖で声を発することが出来なかった。そして女のことを無条件に天使だと信じ込んでいる自分が信じられなかったのだ。

 女は自らのことを天使だと言った。一般的に考えればこの世界に天使だなんて存在しない。天使は架空の存在に過ぎない。ある場合には比喩に用いられるが、あくまで表現上の誇張に過ぎない。そんなものはこの世界に実体としてあり得ないはずなのだ。赤座の理性はそう答えている。しかし、心は彼女のことを天使だと断定している。天使が一体何なのかすらはっきりと分からないまま、彼女がハッキリと、その大きな口を動かして、自分が天使だと名乗ったのと同じように赤座の心が断言しているのだ。葛藤はなかった。だから戸惑う。彼女は天使である方に赤座はすっかり軍配を上げてしまっているのだ。その軍配を持ち上げる左手はブルブルと大きく震えてはいるが。

「恐がっているの? 安心なさい、なにも取って食おうだなんて思っていないから」赤座の戸惑いを察してか、天使はその大きな口の端っこをゆっくりと持ち上げて奇妙で禍々しい笑顔を赤座に向けた。お世辞にも、天使のような笑顔だとは思えなかった。往々にして理想と現実の激しいギャップがあるように、天使の笑顔とは、実は、そういうものだったようだ。

「電車が行ってしまうわよ」天使はすでに電車の中にいて、そこから立ち上がれずにいる赤座に声をかけた。発車を告げる汽笛がけたたましく鳴り出す。

 赤座は何とか体を奮い立たせ、電車に飛び乗った。その際、天使の華奢な腕に触れ、体重を預けたつもりだったが、彼女の体温を感じることはなかった。暖かくもなければ、冷たくもないのだ。

 電車が動き出す。

 そして赤座と天使が向かい合って座席に座ると車窓に雨粒が衝突し出し、瞬く間に本降りとなった。この雨は天使が降らせたのだろうか。

「ただの気圧の変化よ、今の私にそんな力はないもの」

「今の私に?」

 天使は奇妙な笑顔を作る。「ええ、この世界では私は幼稚に過ぎないの」

「幼稚に過ぎない?」

「ええ」天使は頷き、表情をニュートラルに戻し、押し黙った。

 そして沈黙の中、電源が切れてしまったかのように目を瞑った。

 背筋をピンと伸ばし、手を膝の上で重ね合わせ、その姿勢のまま彼女は微動もしない。

 眠ってしまったのだろうか。

 一切の変化が彼女から消える。

 呼吸すらしていないように見える。

 血液さえ、循環していないかもしれない。

 車窓の景色だけが、めまぐるしく変化していく。

「聞かないのね」

 唐突に彼女は再起動し、その細い目を開けていた。「私がここにいる理由を」

「あなたがここにいる理由?」赤座は問われ、どうしてそれを疑問に思わなかったのか、と首を捻った。天使の登場は唐突で、理解不能には違いなかった。しかしなぜか、いつの間にか恐怖心は消えていたし、彼女が向かいに座っているという事実を赤座は自然に受け入れていた。

 彼女が天使だからだろうか? 「……ああ、何故です?」

「……秘密よ、」天使はいたずらに微笑む。天使はどうやら、普通に愛らしい笑顔を見せることも出来るようだ。「あなたに言ってもきっと、理解出来ないでしょう?」

「そうかもしれません、」赤座は天使に合わせて苦笑する。「住む世界が違う、けれど大枠なら分かるかもしれません、あなたが小学校の先生のように幼稚な生徒を辛抱強く教えてくれるなら」

「回転の速度が違う、」天使は胸元に人差し指を当てとんとんと軽く叩いた。「要するに心の大きさが違うのよ」

「心とは、心臓ですか?」

「あなたたちにとっては、そのようなものね」

「僕たちの心臓は考えません、考えるのは脳みそです」

「そうかしら?」天使は首を僅かに傾ける。

「そうではない?」

「私の専門じゃない、詳しいことは分からないわ」天使は嘘を付いているように首を小さく振って言う。

「じゃあ、あなたは何の専門なんです?」

「あなたたちの職業から拾い上げれば、詩人」

「詩人? 詩を書くんですか?」

「書くんじゃない、刻むのよ」

「石か、何かに?」

「そうね、堅い空間に」

「堅い空間?」

「そうよ、」天使は視線を一度車窓に向ける。「ねぇ、カズマ、私の名前はなんだっけ?」

「え? あなたの名前?」一瞬だけ過ったものがある。けれど思考は適当な答えを紡がない。「いや、その前にどうして僕の名前を知っているんです?」

「変わらないものじゃない、名前は、カズマはカズマじゃないの」

「どういう意味です?」

 天使は退屈そうに欠伸をする。大きな口はさらに大きく開かれる。「私の名前を知りたい?」

「……ええ、」赤座は少し遅れて頷く。「そうですね、とても」

「いいえ、んふふっ、」天使は堪えられないという風に、禍々しく微笑む。「あなたが思い出すまで待つわ」

「僕が思い出すまでに?」赤座は少し頭を回転させて返答する。「おそらく、僕はあなたの名前を知らない」

「今はそれでいいでしょう」

「それでいいとは、どういう意味です?」

「そのときはいずれ、来る、ということよ、今こそ、その時にね」

「今こそ、その時、」赤座は天使の言葉を反芻する。「それはいつです?」

「そんなの、分からないわ、」天使は突き放すように言う。「天使は万能じゃない、ある場合では、望遠によって未来の線描を描き得るかもしれないけれど、あくまで未来を予告するに過ぎない、そして予告は大筋を外さない限り何度でも変幻させることが出来る」

「変幻?」

「ねぇ、カズマ、」天使は赤い唇を尖らせる。「煙草が吸いたいわ」

「電車の中じゃ吸えませんよ、」なぜか赤座は天使が煙草を咥える姿を容易に想像出来る。彼女が好きな銘柄も、なんとなく、察しが付いた。「街に帰るまで待ってください」

「電車は悠長だから、嫌いよ、」天使は不機嫌そうに眉を顰め、そして何かを思いついたように微笑む。「ねぇ、カズマ、全てが終わった時、またジェットコースターに乗せてね」

「ジェットコースター?」

「海が見える街のジェットコースターよ、覚えてないの?」

 赤座は首を横に振る。「海が見える街?」

「まあ、いいわ、全てが終わった頃には、思い出しているはずでしょう」天使は愉快そうに言う。

「一つ確認させてください、全てが終わるまで、天使だというあなたは、僕の傍にい続けるつもりですか?」

「ええ、全てが終わるまでは、宿命的にね」

「宿命的に、」赤座は繰り返した。そして天使の大きな口元をじっと見つめながら、指で頬を摘まんでみる。痛みの感覚は、どこまでも希薄だが、確実にあった。「もう一つ、……僕は夢を見ているわけではない?」

「お願いだから泣きそうなほどにつまらないことは言わないでよ、」天使は大きく溜息を吐き、不機嫌そうに靴のつま先で赤座の脛を軽く蹴り上げた。「とにかく安心なさい、なにも取って食おうだなんて思っていないから」

「つまり敵ではないと」

「あなたが警戒するのは勝手だけど、詩人はどこまでも詩人だわ、武器を持たない」

 しかしそれが武器である。

 赤座は天使の前で警戒を解くことはなかった。緊張を維持し続け、すぐに天使に対処出来るようにしていた。彼女の前で何が出来るか分からないが、咄嗟に動けるように肩の力を抜くことはなかった。電話越しのセンイチの声を思い出す。

 くれぐれも気を付けてな。

 しかし気付くと、赤座はすっかり眠り込んでしまっていた。疲れが溜まっていたせいだろう、電車の揺れが心地よくて眠ってしまっていたみたいだ。はっと気付き目を覚ましたときには電車は赤座が住む街の傍まで来ていた。

「よく眠れた?」天使は目を覚ましても、まだそこにいた。

「……ええ、とても、」事実、疲れは大分抜けていた。天使が目の前にいることを除けば、かなり爽快な目覚めだった。ヨウコが消えて以来、かなり久しぶりにしっかりと眠れたような気がする。車窓の景色は、朝と同じように晴天だった。時刻を確認する。この街は午後の四時を回ろうとしている。「魔法に掛けられたみたいに、よく眠れました」

「魔法を掛けたのよ」天使は冗談を言って、笑う。

 赤座はぞっとする。天使の大きな口にはまだ慣れない。


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