第二章⑨
そしてこの土曜日の夜、タイコとカナミは赤い華の公園に訪れた。時刻はすでに十一時を回り、日の境目を迎えようとしていた。酷い暑さの夏の夜は少しひんやりとしていて、ゆっくりと風が吹いている。ライブで吹き出した汗はすっかり渇いていたが、まだ余韻は消えなかった。ブレーキを利かすことなくはしゃいだせいでトレーニングで鍛えている体もすっかり疲れていたが、タイコはまだ家に帰りたくなかった。まだ土曜日の夜を楽しみたかった。その気持ちにカナミは同意し、それならとタイコを赤い華の公園に誘った。カナミはこの前交わした、忘れ物を取りに行くみたいに、という軽い約束のことをしっかりと覚えていたようだった。コンビニでアイスクリームとソーダを買い込み、二人は公園にやって来た。二人は昔よく遊んだ赤い華の公園のブランコに揺れながら二人はゆっくりとアイスクリームを舐めている。
「あ、これ、おいしい」カナミが言う。
「うん、」タイコは頷く。「おいしい、ちょっと高いやつだからね」
今日は特別だから、いつもよりも高いアイスクリームを買ったのだ。
赤い華の公園は外灯が少なく敷地内は疎らに照らされているだけだった。奥の神社の茂みの方には明かりが当たらずに真っ暗で、この世のものとあの世のものが混在していてもおかしくないような、かなり不気味な雰囲気が漂っていた。その手前にあるはずの柵に囲まれた、幼い頃のタイコたちがクレーターと呼んでいた、大きな穴はちょうど敷地の真向かいに当たるブランコの位置からは暗くて、その存在を確認することは今のところ出来ない。
「懐かしいね」そう言うカナミの声はしんと静まりかえった公園によく響いた。夏の夜は蝉だって鳴いていない。ブランコの金属音と、時折、大通りの方からトラックが走る音が聞こえてくるくらい。大音量のスピーカーのせいで耳鳴りが続いていて、こっちの方がうるさいくらいだった。
「そうね、」タイコはじっとクレーターの方の青い瞳で見据えながら言う。「懐かしいね」
「別に何っていう訳じゃないけどさ、懐かしい、」カナミは少しセンチメンタルになっているみたいだった。「ここで遊んでたのは十年も前だって言うのにね、ついこの前のことみたい」
「そして同時に、遥か遠く、昔のことのようにも思えるわ」タイコは続ける。
「あるいは夢のように、」カナミは言ってクスリと笑う。「よくもまぁ、私たちはこんなにも大きくなったものですよ」
「小さな頃の私は今が永遠だと思っていた、季節が変わっても、それは循環しているだけでまた同じようにやってくる、月の満ち欠けが繰り返されるように、」タイコはアイスクリームを大きく頬張り、咀嚼する。そして全て平らげソーダを飲む。「でもそうじゃなかった、このアイスクリームと一緒でいつかはなくなってしまう、このソーダと一緒でいつからは空になってしまう、私たちは変化の渦の中にいるのね、世界は私たちに容赦しない、勝ち目のない苛烈な環境の中で私たちはどうにか、この永遠でない未来を生きていかなくちゃいけないみたいね」
「大変だけどね」カナミもアイスクリームを平らげる。
「大変よ、でも悪くないわ、今日みたいな日があるから、」タイコはカナミに青い瞳を向ける。「ありがとう、カナちゃん、今日は一緒に来てくれて」
「ありがとうって、別に、」カナミは照れた風に笑い鼻先を人差し指で掻く。「大したことしてませんよ、私だって楽しかったもの、それに飛び込んでいったのはタイちゃん自身じゃない、私は背中をそっと押しただけ、ああ、神様、引っ込み思案だった女の子はこんなにも大きくなりました、積極的に男性の手を握れるようになるまでになりましたよ、んふふふっ」
「もぉ、カナちゃんてば、」タイコは少し赤くなる。「からかわないでくれる」
「で、タイちゃんはトレインの三人の中で誰がタイプなの?」カナミは悪い目をして聞いてくる。「やっぱりリーダー?」
「誰がタイプって、そんなんじゃないって、私は別に、そういう不純な気持ちであの三人のこと見てないから、」タイコの顔は瞬間的に赤くなる。汗がまた出てきてしまう。「私は純粋に、彼らのファンなだけだから」
「本当にぃ?」カナミはねちっこい笑みを浮かべている。「本当に、プラトニック? あのはしゃぎっぷりを見てる身からすると、にわかには信じられませんなぁ」
「本当ですぅ!」
しばらく恋愛話に花を咲かせ、二人ともソーダを空にしたところで「そろそろ帰らなくちゃね、」とタイコはブランコから立ち上がった。「もう十二時だよ」
「あ、タイちゃん、」カナミは立ち上がって言う。「クレーターの中、まだ確かめてなかった」
「え、確かめる?」タイコは首を傾ける。
「ヨウ姉ちゃんがいるかもしれないでしょ?」カナミは真剣に言った。
「え、本気で言ってるの?」
「そんな訳ないじゃない?」カナミはキディに微笑み、タイコの手をぎゅっと掴んだ。「でも、一応確かめておかなくちゃ」
タイコはカナミに引っ張られるがまま、クレーターがある神社の茂みの方に近づいていった。不気味な暗闇の方へは行きたくはなかったが、カナミがいやに強い力で引っ張るから抵抗出来ないまま、タイコはクレーターを囲む柵へと近づいている。
気のせいかもしれないけれど、そこに近づくに連れて気温がぐっと低くなったように感じた。背筋が寒さを感じている。体がいけない場所に近づいているように感じている。暗闇の方から近づくことを拒絶するような風が吹いているように感じる。きっとここへの立ち入りは禁じられているのだ。クレーターへの立ち入りは禁じられている。
どうしてカナミは分からないのだろう?
立ち入りは禁じられているのに。
ここは立ち入りを禁じられている場所なのに!
なぜかタイコは声を出せなかった。
恐怖のせいか、体はこわばり、カナミのいやに強い力がなすがままに、タイコは連れて来られてしまった。
カナミはタイコの気持ちを知り得ないでいるようだった。カナミはスマートフォンの小さなライトを点灯させた。彼女は笑みを浮かべ振り返ってタイコの青い瞳を見て言う。「有刺鉄線がある」
「有刺鉄線?」
クレーターを囲む柵を見ればカナミが言うように、有刺鉄線が絡み付いていた。柵の高さは腰ほどまでで、タイコたちが子供の頃と変わっていないようだった。それでも子供たちにとってはそれなりの高さだ。そこに有刺鉄線が絡めば子供たちがこの柵を乗り越えることはほとんど不可能だと思えた。そしてタイコたちが子供の頃にはなかったものがもう一つ。立ち入り禁止の立て看板だ。おそらく有刺鉄線が柵に絡められるのと同時期に立てられたものだろう、色あせ錆び付いてはいたが、確かにその立て看板はクレーターへの立ち入りを、赤い危険という文字で、はっきりと禁じていた。クレーターの中は暗く、底まで光が届かなかった。
ここに立ち入ってはいけない。
タイコははっきりと分かった。一刻も早く、ここから立ち去らなくてはいけない。
カナミはそんなタイコの気持ちを余所に「おーい、ヨウ姉ちゃーん!」と脳天気に穴の底に向かって大音量で叫びながら穴の周囲をぐるりと歩き始めた。「ヨウ姉ちゃーん、いるなら返事してよぉ!」
「か、カナちゃん、そんな大声出したら近所迷惑だよ、」タイコは震える声で諌める。「暗くてよく分からないし、もう帰ろうよぉ」
「うーん、ちょい待ち、」カナミはハイキングにでも出かけているみたいに楽しんでいるようだった。「あ、ここからだったら下に降りれそうだよ」
「え?」
その部分は木製の柵が途切れていて有刺鉄線が何者かによって強引に引きちぎられ、手前に湾曲していた。体を横に入れれば確かにここから下に降りることは可能だろう。しかしタイコは真っ暗闇のクレーターの底に降りる気はさらさらなかった。ここは立ち入りを禁止されているのだし、タイコはもう無邪気な子供ではないのだ。
「じゃあ、タイちゃん、」カナミはふざけるように言って力強くタイコの背中を叩く。「ヨウ姉ちゃんを暗闇の穴から探し出して来て!」
「え、もぉ、カナちゃんってば、冗談言わないでよ、もう帰ろ、帰ろうよ」
「なぁに、怖いの?」カナミは柵の隙間から身を乗り出し穴の底をスマートフォンで照らしながら言う。
「怖い、怖いよ、」タイコは虚勢を張ることはしなかった。「暗いし、なんだか涙が出てきたし」
「そっか、何か見つかると思ったんだけどね、」カナミは穴から離れてタイコに視線を向ける。「本当だ、青い瞳が潤んでますよ、お嬢さん」
「もぉ、」タイコは片方の頬を膨らませて睨む眼をカナミに向けた。「怒るよ」
「あはは、ごめん、ごめん、そんなに怖がるなんて思わなくって、」カナミは笑いながら後頭部を掻く。「でも、何か見つかればいいなって」
「何かって、何よ?」
「忘れ物だよ、」カナミは目を伏せて言う。「タイちゃんがいなくなったとき、私とヨウ姉ちゃんはこの穴の中でタイちゃんのことを発見した、でも、タイちゃんはそのことを覚えていない、小さかったからっていう理由もあるけど、それだけじゃない気がするんだ、この穴の中に、クレーターの中にタイちゃんがいたのには何らかの理由があったと思うんだよね、その理由をタイちゃんはこの穴の中に忘れっぱなしにしているんじゃないかな、もしかしたらその忘れ物がヨウ姉ちゃんを探すためのヨスガのようなものになりはしないかって私は思うんだけど、」カナミはタイコの背中を優しく押して柵の隙間に誘導し穴の縁に立たせた。「そんな風に考えるのはちょっと荒唐無稽かな?」
タイコは否定も肯定もせず、穴の暗闇をじっと眺めた。
浮かんでくるのは、赤い月。
赤い月。
赤い月が暗闇の中の水面に浮かんでいる。
水面?
水面に映る赤い月が揺れている。
そして。
強い風に吹かれたのか、穴に向かって髪が舞う。
カナミに背中を押されたのか、穴に向かって体が傾く。
「え?」タイコは墜ちた。
穴の中に。
暗闇の水面に。