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第二章⑥

 駅前の東側の広場にはステゴサウルスの巨大なオブジェがあって、そこはこの街に住む人たちの待ち合わせ場所になっている。今日はライブの日。耳をイヤホンで塞ぎ、タイコはステゴサウルスに寄りかかり、そわそわしながらカナミが来るのを待っていた。カナミはロックンロールに興味がないだろうけれど、タイコは彼女のことを半ば強引に誘っていた。姉に連れられて何度か大きめなコンサートホールで人気のバンドのライブを見たことはあったけれど、今回のクラブソレイユのような小さなライブハウスに行くのは初めてで、一人で行くのはちょっと怖かったからだ。

 とにかく、ドキドキしている。

 タイコは腕時計で時間を確かめる。この街は夜の六時を回っていた。クラブ・ソレイユの開場は夜の六時。待ち合わせた時間は夜の六時の三十分前。

「ごめーん、遅れちゃって!」カナミがポニーテールを揺らしながらこちらに走ってくる。広めのストライドですぐに目の前に到着。息も切らさずに「ごめーん」と両手をタイコの顔の前で合わせる。今日のカナミは青いアディダスの半袖のパーカーに、黒いアディダスのハーフパンツに、ブルーのカントリーという、いつもよりもほんの少しだけおしゃれな出で立ちだった。

「遅すぎる、」タイコはイヤホンを外して、青い目でカナミのことを睨み見る。「どういうことなの?」

「思ったより練習が長引いちゃってさ、シャワー浴びて着替えてご飯食べてたら気付いたら時間過ぎてて、ごめんごめんごめん、あとでアイスクリームおごるからさ、」カナミはタイコの腕を掴んで引っ張る。「ほら、確かもう開場してる時間でしょ、行こう行こう、ていうか、今日はオシャレだね、タイちゃん」

「ライブだもの、んふふっ、」タイコは白い丸襟の赤いワンピースという格好だった。「少しくらいオシャレしたっていいでしょ?」

 二人は高架下を潜り、駅の反対側に出る。バスのロータリーの横を南に抜けると低いビルが建ち並んでいる。一階にアイスクリーム屋が入っている隣のビルの地下にクラブ・ソレイユはある。チケットはトレインのギターの市村ソウイチロウからすでに購入していた。受付の愛想のない男性にチケットを渡し、ドリンク代を払う。「今日の目当ては?」

「え?」タイコは聞き返す。

「どのバンドを見に来ました?」彼は言い直す。

「あ、えっと、トレインです」タイコは答える。

 彼はトレインと書かれた付箋の張ってある缶にもぎったチケットを入れる。次のカナミにも同じことを聞いている。カナミも一応「トレイン」と答えていた。

「面白いね、人気投票みたいな感じかな」カナミはタイコに顔を寄せてニコニコしながらそう言った。

 BGMはラモーンズのロックンロールレディオ。

 教室よりもちょっと広いくらいの小さな会場に入ると、すでに三十人くらいの観客がいた。ステージ前に陣取っている人たちもいれば、隅でお酒を飲んでいる人たちもいる。今日のイベントにはトレインのように高校生の軽音バンドが何組か出るから、タイコたちと同世代の女の子が多かった。同じ高校の人たちもいたようで、タイコが物販を覗いている間にカナミはその人たちのところにしゃべりに行ってしまった。

「よぉ、平良さん、」物販に立っていた市村が声をかけてきた。彼の声は低く、程良いくらいにしゃがれている。「本当に来てくれたんだね」

「あ、市村さん、」タイコは笑顔を作って市村に向ける。「はい、えっと、楽しみしてました」

「嬉しいねぇ、」市村は人懐っこい笑みを浮かべる。「グッズも買ってくれたらさらに嬉しいけど、タオル安いよ、セール価格、五百円」

 市村の手前の長テーブルにはトレインのグッズが並んでいた。Tシャツにタオル、缶バッチ、それから欲しかった彼らのファーストEPもある。

「買います、」タイコはポケットからユニオンジャック柄のお財布を出した。「買いますよ、全部」

「え、いいよ、無理しなくて」市村は驚いた風に言う。

「無理してないです、」タイコは大きく首を振った。「欲しいんです、全部」

「そう?」市村は笑う。「悪いね、気を使わせちゃったみたいで、割引きするよ」

「いえ、そんなんじゃないですよ、気なんて使ってないです、本当に欲しいんですってば、純粋な私の欲望なんです」

 タイコは本当の気持ちを伝えたが、結局市村は千円割引してくれた。タイコは彼の厚意が素直に嬉しかった。そして年上の男の人に純粋に優しくされて、ドキドキしている。市村さんにしろ、赤座さんにしろ、私は年上の男が好きなのだろうか、とタイコは考えたりする。

「今日やるのは五曲くらいだけどさ、楽しんで帰ってよ、他のバンドも割にいい演奏するからさ、楽しんで行ってよ、じゃあ、俺たちトップバッターだから、そろそろ準備しなくっちゃ」

 タイコは大きく頷き、市村に手を振ってその場を離れた。フロアに設置されているコインロッカーにバッグを入れ、タオルを首に巻き、Tシャツをワンピースの上から来た。タイコは嬉しくなる。彼らのちゃんとしたファンになった気分。

「準備万端みたいだね、」カナミがタイコの格好を見てからかうように言ってくる。「厳戒態勢ってやつ?」

「厳戒態勢って、意味が違うんじゃないかしら?」タイコはむっとした顔をして見せて、「あ、これ、プレゼント、」とカナミの首にもトレインのタオルを巻いた。「セール価格だったから、カナちゃんの分も買っちゃった」

「えー、こんなペラッペラのタオルなんていらないよぉ、」カナミはタオルを頬に擦り付けながら言う。「タオルはアディダスって決めてるんだからぁ」

「でも今日はタオル持ってきてないでしょ?」

「汗なんてかかないでしょ? 走るわけじゃないんだから、トレーニングするわけじゃないんだから、まあ、ちと熱いから有り難く頂いとくけども」

 開演は夜の七時。タイコとカナミは四列目くらいでちょうど真ん中くらいで待った。ステージはロールカーテンで隠されていたが、BGMの合間を縫って彼らの音が聞こえていた。

 この街は夜の七時をゆっくりと迎える。いつしかタイコもカナミもおしゃべりするのを止めていた。

 BGMはフーのマイ・ジェネレイション。

 後ろの方から誰かが歌っていのが聞こえる。トーキン・バイ・マイ・ジェネレイション!

 会場が徐々に高揚し始めている。会場の密度がステージに向かって酷なる。ドキドキしてしょうがない。観客の誰かが手拍子を始める。それに併せてコールが起こる。「トレイン! トレイン!」

 タイコも小さく声を出す。カナミもいつしか叫んでいた。カナミを見ると愉快そうに叫んでいた。「トレイン! トレイン!」

 カナミに負けないように、タイコも両手でメガホンを作り声を張り上げる。観客に広がるトレインのコール。タイコが思っているよりもずっと、彼らのロックンロールは知れ渡っているみたいだ。凄い。そして嫉妬する。彼らは私だけのものじゃないみたいだ。けれど、彼らを愛する気持ちはここにいる誰にだって負けない。負けたくない。彼らのロックンロールをちゃんと聞いたのは一度しかない。けれどタイコは人目を盗んで彼らの音を聞くために練習している教室に接近したことは何回もあるし、頭の中で何百回、彼らの音を再生したか分からない。トレインはタイコにとって特別だ。スペシャルだ。そのスペシャルさ加減は、ここにいる誰よりも、世界中の誰よりも、タイコの方が、ずっと大きい。

 そうでしょ、リーダー?

 BGMが急に鳴り止む。

 会場の照明が消える。

 暗転。

 幕がゆっくりとせり上がる。

 彼らのオープニングSEはブルーハーツのトレイン・トレインだった。

 栄光に向かって走る、あの列車に乗っていこう、裸足のままで飛び出して、あの列車に乗っていこう。

 きゃあ、と歓声が上がる。

 タイコも声を張り上げていた。

 何かのスイッチが入ったみたいに一秒も経たずに体が熱くなる。沸騰寸前の熱い血が全身を駆け巡り汗が吹き出るような感覚がある。とにかく凄くドキドキしている。

 暗転したまま、市村の歪んだギターが聞こえる。ブルーハーツに合わせてバスドラムが激しく踏み込まれる。リーダーが途中からトレイン・トレインを歌い出す。幕が上がりきる。リーダーは酷いハウリングも気にせず、一番をすっかり歌い上げた。観客も拳を振り上げ熱唱していた。

 曲がピタッと鳴り止む。

 彼らの後ろから照明が光る。彼らの姿は逆光で見えない。

「じゃあ、」リーダーがとても落ち着き払った声で言う。「僕は太陽機関車」

 これがタイコとトレインの遭遇。

 それは世界が変化した瞬間だった。

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