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第二章⑤

 この街は金曜日の夜の七時。

 夕立が先ほど収まり、強く雨の匂いがする。

 この日、赤座はいつもよりも一時間早く仕事を切り上げ、店の扉にクローズの札を掛けた。本来だったらさらに一時間早く店を閉める予定だったのだが、珍しく客入りがなかなか途切れずに七時まで店を開けることになってしまったのだった。赤座はエプロンを解き、カウンターに置き、急いで店を出て駅の反対側にある雑居ビルに向かった。高架下を潜り線路の西側に出て、バスのロータリーの横を南に抜けると低いビルが建ち並んでいる。赤座が用があるのはその中で四階立ての、一階にはアイスクリーム屋が入っていて、二階にはファミレス、三階は貸しオフィスになっている雑居ビルだった。赤座が用があるのはその四階だった。

 すでに約束の時間を三十分以上も過ぎている。労いの意味も込めて一階のアイスクリーム屋で一番人気のアイスケーキを買い、狭いエレベーターに乗って四階へ出る。エレベーターを降りると左右に通路が伸びていてそれぞれ別の扉に突き当たる。正面にも扉があり、その横には木製の表札に黒須探偵事務所と書かれている。その扉を二回ノックして、返事を待たずに赤座は中に入る。

「悪いね、遅れちゃって」

「遅いですわよ」

 中の応接セットの右手のソファに腰掛ける黒須リツコがコーヒーカップを片手に赤座を睨むように見て言う。彼女は黒須探偵事務所の代表の黒川センイチの妹で、まだ高校生ながらここで秘書のようなことをしている。センイチとは高校生の頃からの付き合いで、大学も一緒だった。東京から引き上げてぬいぐるみ屋を継いでからも、同じ駅前で店を構える者同士、今でも交流は続いていた。「四十分の遅刻です、全く赤座さんは時間というものをなんだと思っているんですか」

「ごめんごめん、店が少し混んじゃってて、」赤座は申し訳ないという顔を作って対面のソファに腰掛け、テーブルの上に先ほど買ったアイスケーキを乗せる。「これ、一応お詫びの印、りっちゃんアイス好きでしょ?」

「いつまでも子供扱いしないでくださいます? 私はもう高校二年生、もうすぐ十七歳です、小学生みたいにアイスごときで私の機嫌が治るとでも思いまして?」リツコはそのつり上がり気味なエキゾチックな両目で赤座を睨みつけることを止めない。「全く、こんなもの買ってくるのなら一秒でも早くここに登場してくださいな、忙しい私たちのことを思うのでしたらね」

 センイチはその界隈では名の通った探偵だった。全国の企業から案件がひっきりなしに届くらしく、この事務所にいることはほとんどなかった。そして妹のリツコの方は本を読むのに忙しい文学少女だった。彼女の背中の大きな書棚にはありとあらゆるジャンルの本が並んでいる。

「でもりっちゃん、アイス好きでしょ?」赤座はヘラヘラと笑いかける。「機嫌治してよぉ」

「べ、別にそんなに機嫌が悪いわけじゃありませんよ、」リツコはアイスケーキの箱を手にして一度中身を確認し、軽く表情を緩めてから立ち上がり、部屋の角にある冷蔵庫の冷凍室にそれを入れた。「晩ご飯の後に頂きますね」

「どうぞお好きに、」赤座は微笑み、そして黒須探偵事務所の中を見回す。応接セットの横の窓際のデスクは空席だった。ノートパソコンは畳んである。けれど乱雑に積み重ねられた書類の横には、コーヒーカップが佇んでいる。「センイチは?」

「兄様はもうすでに次の仕事に出てしまわれましたよ、」リツコはわざとらしく溜息を吐き、ソファに座り直す。「赤座さんが約束の時間を守らないからです、兄様は十分も待ってくれたんです、でもそれ以上は待てなかったんです、なぜなら兄様は忙しいので、今頃飛行機に乗って新しいクライアントの元に行っています」

「なるほど、」赤座もわざとらしく溜息を吐いた。「それはしょうがないな、でも店が混んじゃっていたからしょうがなかったんだよ、とにかく、センイチのアドバイスを聞きたかったんだけど、残念だ」

「なるほど、」リツコは長い黒髪を手で払って言う。「私では力不足だと」

「そんなこと思ってないよ、」赤座は彼女の機嫌を損ねないように慎重に言葉を選ぶ。「りっちゃんのアドバイスも聞きたい、第三者の意見を聞くことは今の僕にとって割に重要なことだと思っているんだよ」

「アドバイスも何も、」リツコは立ち上がり赤座のためにコーヒーを用意する。「よくある話でしょうに」

「よくある話?」

「ええ残念ながら、よくある話です、気にすることはありません、ささいなことです、くよくよしてもしょうがないことです、悪い話かもしれませんが、もう心配することはありません、心配したって答えなんて見つかりません、見つかりっこないです、私から出来る最良で最前のアドバイスは、もう一度初めからやり直してください、」リツコはそこまで一気に言って、赤座の前にコーヒーカップを置く。「ということです」

「というと?」赤座は熱いコーヒーをすする。「熱いね」

「浮気です、」リツコは赤座の目を真っ直ぐに見て歯切れよく言う。「あるいは単純に赤座さんと別れたかった、シングルになりたかったんです、この相談において事件性は感じられません、あくまで私の直感ですけれど、まあ、兄様も同じように判断するでしょう、妹さんにどんな形であれコンタクトをとっている、つまりヨウコさんは自らの意志で動いていることになります、赤座さんに対して悪意ある動き、脅迫やら嫌がらせやら、そのようなものもありませんしね」

「確かに、」赤座は頷く。ここまでは赤座が考え得ることだった。しかし淡々と声に出されると抉られるものがある。「確かに」

「赤座さんとヨウコさんは常識的に考えて、普通ではない歳の差があります、赤座さんが感じていなくても価値観の違いがヨウコさんにとって引っかかるところは大いにあったでしょう、その違いはある場合には魅力的だった、しかしある場合には愛を深く傷つけ得る要因となった、十二年の歳月はそれはそれは大きなものだった」

「それは一般論として?」

 リツコは一度窓の方を見て、小さく首を振る。「事実、私はヨウコさんとは何度も話をしています、あまり具体的な話をしたという訳ではありませんが、抽象的に、恋することのすべてについて、相談という形式ではありませんでしたし、ヨウコさんは思い詰めたような感じでもありませんでしたが、真剣に正解らしい何かを発見したがっていたように思います、心に開いた穴をぴったりと塞ぎ得る何かを、その点、私では力不足だったと思います、私はまだ十七歳で、正直申し上げまして恋愛経験はありません、私は短い人生の中で比較的多くの本を読んできました、その中で恋だとか愛だとか、そういったものは無意識下に語られる命題のようなものですが、恋することのすべてが本に書かれているといえばそうではありません、私は精一杯の想像力を働かせてヨウコさんの質問に答えてみたりもしました、時には引用を試みました、けれど一度たりともヨウコさんを満足させる答えやヒントのようなものを提出することが出来たかと言えば残念ながらそうではなかったと思います、ヨウコさんはとっても優しく明るい人です、私に落胆したような素振りは見せませんでしたが、しかしいつだって無理に笑ってごまかしているようでした」

「ごまかしている?」

「はい、なんというか、自らの現在地のようなものについて」

「自らの現在地、」赤座はリツコの言葉を反芻する。「自らの現在地」

「このままでいいのかな?」リツコはヨウコの口調を上手く真似て見せた。「ヨウコさんは厭世家のような横顔をしてよく言っていました、このままでいいのかな? あれかこれか、キルケゴールです、振り子のように行ったり来たり」

「あれか、これか、迷っていた?」赤座はヨウコの綺麗な顔を思い浮かべる。「自らの現在地について」

「そうです、ヨウコさんから感じませんでしたか?」リツコはストレートに赤座の目を見る。「迷いのようなものを」

「分からなかった、」赤座はコーヒーの苦みを感じながら首を振る。「僕には本当に突然だったんだ、ヨウコが消えたことは」

「冷静に考える時間が必要だった、あなたがいると冷静さが消える、だから離れた、だから逃げなければならなかった、自由にならなければならなかった、」リツコは詩を朗読するように言う。「現在地を確かめる、あるいは発見する作業を滞りなく行うために」

「本当にそうだろうか、」赤座は目を瞑りリツコの詩のような言葉を租借する。「自由にならなければならなかったのだろうか?」

「もちろん、私の想像に過ぎませんけれど、いずれにせよ、ヨウコさんは必ず連絡をくれると思いますよ、それは今夜かもしれませんし、一週間後かもしれません、もしかしたら一年後かもしれませんけれど、必ず、ヨウコさんは律儀な人ですから」

「追いかけるのは迷惑かな?」赤座は動き出すための準備を始めようとしていた。四十リットルのカリマーのリュックは既に押し入れから出してある。

「さあ、どうですかね?」リツコは首を振る。「私には分かりません、もしかしたらヨウコさんは追いかけられたいのかもしれません、追いかけられるために逃げている可能性もあります、赤座さんの愛を確かめるために、これは比較的楽観的な意見になりますけど」

「悲観的な意見は?」

「邪魔されたくないかもしれません、コンパスの針を揺らすようなことは止めた方がいい、これは悲観的な意見です」

「なるほど」

「兄様が動いてくれると言っていました」

「本当に?」

「ええ、忙しい合間を縫って赤座さんのために仕事をすると言っていましたよ、きっと居場所くらいは簡単に突き止めてくれると思います、」リツコは赤座を励ますように微笑む。「だから赤座さんは辛抱強く待っていて下さい、時には動かないことも大事です、これは兄様の意見です」

「そうだね、そうかもしれない、」赤座は頷き、でも首を振る。「でもそうじゃないかもしれない」

「まあ、赤座さんは動くでしょうと、兄様は言っていましたけれど」リツコは口元に手を当てクスリと笑う。

「……ねぇ、どうしてヨウコは自分がファンシィ・キディ・ラビットのコレクターだって嘘を付いていたんだう? どうして僕にギターの話をしなかったんだろう?」

「野暮なことを聞きますね」

「野暮?」

「ヨウコさんにとってそれは、心に関わるような大事な部分だったんですよ」

「心に関わるような大事な部分?」

「秘密ですよ、」リツコは人差し指を立てて言う。「その秘密のドアを開けて声を聞けていたなら何かが変わっていたかもしれませんね」

「えっと、つまり、」赤座は腕を組み、婉曲的なリツコの物言いを少し考える。「どういうこと?」

「赤座さんはヨウコさんのことを全然分かっていないってことですよ、」リツコは愉快そうに笑う。「変わらなきゃいけないってことですよ、ヨウコさんの秘密のドアを一つでも多く開けるために、とにかく、赤座さんは野暮ですよ」


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