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第8章

 私が草太を探しに出たのは夕刻だった。

 母は私の手に包帯を巻きながら「そっとしといてあげなさい。そう遠くへ行ける筈もないし、すぐに戻るわよ」と言った。私は(お母さんがそう言うのだから、その方がいいのだろう)と思ったが、それは先刻の草太に恐れを感じたことへの言い訳だったかもしれない。

 私は浜へと自転車を走らせた。草太が長い時間を過ごす場所は他に思い当たらなかった。砂浜へ降りる階段の前で自転車を停め、海の方へと目を凝らす。草太が遠く、沖まで泳いでいってしまうかもしれないと思った。だが波の上には誰の頭も見えない。浜辺にも帰り支度をする人々がわずかにいるばかりで、草太の姿はなかった。私は監視台に係の人がまだ居るのを確かめて安堵した。

 ペダルを踏む足が次第にゆっくりになる。駅へ向かう道と岬へ続く道、どちらへ行こうかと迷った。

 祖父の眠る墓か、ひとりきりの海か。

 太陽はもう山の向こうに隠れて、西の空はオレンジの光を滲ませていた。岬の方には明かりがない。明るいうちに行った方がいい。私はスピードを上げてハンドルを右に切った。養殖場の塀が終わる所に自転車を乗り捨てて、細い急坂を登った。

 トンネルの入口で足を止める。

 真っ暗だ。

(こわい)

 私は唇をぎゅっとかんで駆け出した。

 こわい。こわい。こわい。

 何かがふいに肩をつかんで私を捕らえそうな気がした。

 トンネルの真ん中の明かりはまだ消えたままだ。

「そうたああああ!」

(いやだ。こわい)

(ひとりがいいなんて嘘だ)

 出口が逃げていくようだ。

(ひとりになっちゃだめだ)

 突然、蝉の声が私を包んだ。

 私はトンネルを抜けた林に転げ、鼻先に草の匂いを嗅いだ。

 蝉の声は絶え間なく続き、私は夢から覚めたように空を仰いだ。

 この時ほど、私は自分がここに在るということを意識したことはなかった。

 ゆっくり起き上がると、擦りむいた膝に草の汁がついていた。私は展望台へと続く道を急いだ。




 展望台にも草太はいなかった。辺りは何事もなかったというように、空は紫色に暮れて、山の影は黒く、海からの風は強く、波音は変わらず、星が昇り……、私をなだめようとするかのようだった。

「草太ー!」

 私の声を波音がかき消す。

 届かない声だった。

 私はこの前通ったのと同じ、山の反対側を廻る道を選んで下った。崖下は満ち潮で水位が上がっている。私は岩を伝って波の寄せるぎりぎりの所に立ち、薄暗い周囲に向かって叫んだ。

「草太ー!草太ー!」

 崖下で何かが動いた。

 目を凝らしてじっと見ると、崖下の窪みに草太が膝を抱えて座っていた。私は靴を履いた足のまま、膝まで波を受けながら草太に近づいた。

「探したよ。帰ろう、草太」

 草太は「帰れないよ」と答えた。私は岩を登って窪みに入り、草太の傍らに座って「どうして」と訊ねた。

「…おじいちゃんと俺のハハオヤが、親子の縁を切ったのってどうしてか知ってる?」

「ううん…」

「ハハオヤのお腹に俺ができたから」

「え?」

「その時、本当の父親とはまだ結婚してなくて、父親は俺ができたって知った途端、トンズラしちゃったんだ。おじいちゃんは、ハハオヤが俺を産むのに反対して、それで」

「……」

「…俺、いらない子供だったんだ。父親にも、おじいちゃんにも」

 ≪ザザザザ…≫

 波が私たちの爪先を濡らした。

「でも…」

 どう言えば草太を慰められるのだろう。それは慰めに過ぎないのかもしれなかった。本当の救いというものがこの世にあるのか疑わしかった。

「でも聡子叔母さんは、反対されても草太を産んだんでしょ。いらないなんて、そんなことないよ…」

 もう日は沈みきったのだろう、明かりのない地の果てに、ふいに夜の闇が降りてきた。(見えない、)と私は目を瞬いた。突然の話に、祖父の心がわからなくなってしまった。だから、草太に対する祖父の気持ちを語ることはできなかった。波がただ私たちの足首を濡らしては海へ帰っていった。

「いらない人なんて、いないよ…きっと…」

 うまく言えなかった。

 独りがとても怖いこと、誰かにいてほしいこと。

 ザブンと波が大きな音を立てて、私たちの抱えた膝まで届いた。

「うわっ」

 私たちは窪みを這って、波がそこまで来ているのを見た。私が歩いてきた岩はもう水面に隠れていた。「泳いで戻ろう」と言う草太を止めた。波が高すぎる上に、辺りは岩だらけだ。草太は呆然と海を見た。

「どうしよう…」

「大丈夫、お母さんも探してるから…きっと…」

 私は草太の手をぎゅっと握った。

「…大丈夫だよ。自転車…、養殖場の所に置いてきたから、私がこっちに来たってわかる…。きっと探しに来てくれるよ」

「…うん」

「私がついてるよ」

「うん」

 波は私たちの腰を濡らすまでになっていた。私たちは窪みの奥へ下がって波を避け、手をつないで、震えながら、じっと辺りの気配に耳を澄ましていた。

 体が冷えていく。

「もしもの時は、泳げるか」

「うん」

「怖いか」

 怖い。でも、怖くない。

 独りじゃないから。

「大丈夫」

「よし」

 長い長い時が過ぎたように感じた。

 おーい、おーい、と呼ばれた気がして立ち上がった。腕を引っ張られた草太も立ち、窪みから身を乗り出すと、懐中電灯の光が揺れていた。

「おーい!」私たちも叫び返す。波音は荒く、声が届いたのかわからなかった。草太は私の手を放し、腕時計のライトを点けて手を高く挙げた。私は「おーい!」と叫び続けた。

 光がこちらに向けられた。私たちはここにいると、大きく腕を振った。

 光が丸を描いた。途切れ途切れに声が届いた。

「今ァー、船を廻すからー、動くんじゃないぞー!」

「助かったァ」

 私たちが顔を見合わせた時、ドンと大きな音がして、何も見えなくなった。




 何も。

 冷たい。

 波に呑まれたのだと気づいた時には、身動きもできなかった。

 自分が目を開けているのか閉じているのか、それすらわからない。

 苦しい。息ができない。重い腕を動かしてもがく。水面は、

 …どこ?

 草太。

 草太はどこ?

 草太を助けなくちゃ。

 手をはなしちゃいけなかったのに。

 ひとりにしちゃいけなかったのに。

 だめだよ、手をはなしちゃだめだよ。

 ずっと一緒だって言ったじゃない。

 いやだよ。

 こわいよ。

 ひとりにしないでよ。


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