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第2章

 泳ぎ疲れてぐっすり眠った昼寝の後、夕飯までの時間に宿題をしていると草太があれこれと話しかけて邪魔をする。「話しかけないでよ」と言うと、草太は部屋にあった大きなパンダのぬいぐるみを相手にプロレスを始めた。

「うるさいなあ、もう、あっち行ってよ」

「あっちってどっち」

「自分の部屋」

「やだよ、何にもないんだもん」

 昨夜、草太は客間で眠った。普段は使わない部屋で、何も置いていない。宿題も持って来なかった草太は暇を持て余して私の部屋へ来たのだった。「漫画見せてよ」と本棚を覗き込み、「ねえ、少女漫画しかないの?」と言ってうろうろと歩き回った。「ないよ」と睨んで目をノートに戻す。草太が後ろの方に座るどすんという音がした。しばらくして静かになっていることに気づいて後ろを振り向くと、草太が『りぼん』を読んでいた。おかしな感じに目を瞬くと、玄関の方から、帰宅した父の声が聞こえた。

「草太、お父さん帰って来たよ」

「うん。もうちょっと」

 結局母に呼ばれるまで待った。草太はあんなに熱中して読んでいたくせに、「少女漫画なんてつまんねえ」と本を投げ出して先に部屋を出て行った。

 居間では母が夕飯をちゃぶ台に並べていた。仏様用の、一本足の生えた小さい器に一口分ほどのご飯をよそって「ハイ」と草太に差し出した。草太はそれを受け取って、私に「行こう」と促した。

 仏壇は祖父の部屋にある。祖父のいない今も、家具も文机も祖父の生前と変わらずそのままにしてある。違うのは仏壇に祖父の位牌と写真があることくらいだ。

 昨夜、こうしてご飯を供えに来た時も、草太はやや緊張した面持ちで仏壇に向かっていた。草太は「こう?」と昨夜私がしたように鈴を打ち、手を合わせた。その斜め後ろで私も手を合わせる。軽く頭を下げ、見ると草太はまだじっと手を合わせて何か祈っている様子だった。(何を祈っているんだろう)と思って見ていると、草太は「はあー」と深い溜息をついてようやく顔を上げた。「ちなつ」と呼んで振り向く。

「こういう時って、ちなつはどんなこと考えてる?」

「別に何も考えてないよ。ご飯お供えするだけだもの」

「そうなの?俺なんか、変なこと考えてバチ当たんないかと思ったよ」

「変なことって、何考えてたの」

「だから、何考えていいかわかんないとバチ当たるかと思って、バチ当てないでください、って」

「バカ」

 居間に戻るとお風呂から上がった父がコップにビールを注いでいるところだった。「草太、海はどうだった」と笑顔を向けられ、草太は私の横に正座しながら「はい、楽しかったです」と答えた。草太は父の方をあまり見ない。小さな声で「いただきます」と言って味噌汁の椀を手にした。父は「そうか、一日でずいぶん焼けたな。千夏も」と私を見て一人頷き、冷えたトマトに塩を振った。

 私は母の日焼けした顔を見ながら、初めて会った時の叔母を思い出していた。化粧の上手い人だ、というのが聡子叔母さんの第一印象だ。白い肌には控えめに差した口紅も鮮やかで、海辺の田舎町で育った私には初めて見る垢抜けた女性だった。ゆるくカールした髪を肩まで垂らし、顔の輪郭に沿って落ちた淡い影の底から、草太と同じ濃いまつげに縁取られた大きな目が光って見えた。

 突然現れた見知らぬ人々。血のつながりなど感じられなかった。

 思えばあれは不思議な光景だった。

 集まっていたのは、まず私が生まれる前に他界した祖母の筋の親戚たち、これも私にとっては初対面も同然の、あまり馴染みのない人たちばかりだった。

 それから、母方の親戚。母は六人兄妹の末で、一番上の伯父などはもう年寄りに見えたし、その子らであるいとこたちは私が物心ついた時には既に成人していた。つまり、私にとって親戚とは『おとなのひと』のことだった。

 大人たちは何年も何十年も前のことを昨日のことのように話す。時に誰かが誰かの思い出話を訂正し、そうだったそうだったと笑った。

 その何年何十年が『まるで昨日のように』彼らの中から噴き出していた。

 大人たちが集まる場所では、時間が狂う。

 そしてその日、時間を狂わせているのが聡子叔母さんだということだけは私にもわかった。母方のいとこと変わらぬ歳にも見える叔母は、集まった大人たちの時間を切り裂いた裂け目をくぐって現れたように見えた。

 だから、その背後から私の前に飛び出して手を取った草太は、狂った時間を更に切り裂いて抜け出してきた現実だった。

 鮮やかに現れた見知らぬ人々。

 家へ戻る道すがら、父は私に言った。

「草太は素直ないい子だな。千夏、仲良くするんだよ。いとこなんだから」

 いとこだとなぜ仲良くしなければならないのかわからなかったが、私は頷いた。

 帰宅してすぐお風呂を沸かした。「遅くなったから」と父が私に先に入るように言った。一番風呂は祖父と決まっていたのは、祖父が病に倒れる二年前までのことだった。少しお湯が熱いのは、祖父の好みに合わせて沸かしていた名残だ。

 あれは祖父が倒れる前の年の夏だった。友達と喧嘩して帰ると、祖父が縁側で夕涼みをしていた。庭木のざわざわという葉擦れと、風鈴のチリリンという音が、波のように往きつ戻りつ、辺りを満たしていた。祖父は「おかえり」と私の顔を見た。私は答えずに庭先に立ったまま俯いた。

「千夏。ただいまくらい言いなさい」

「……ただいま」

 上目で祖父を見ると、祖父はうちわを扇ぐ手を止めて私を見ていた。

 ≪チリリン≫

 風鈴の音が、祖父の方から私の方へと流れてくるみたいだった。

 ふいに祖父はうちわを縁側に置いて立ち上がり、台所の母に向かって「千恵子さん、桃があったろう」と言いながら家の奥へと消えた。

「すぐに夕飯できますから。千夏がご飯残すでしょう、お義父さん」

「一個だけ、千夏と半分にするから」

 そんな声を聞きながら縁側に腰掛けた。祖父は桃と皿一枚を手に戻って「どっこらしょ」と私の横にあぐらをかいた。赤く熟れた桃の皮を指でするすると剥いて、「ほら」と私に差し出した。指先から滴る桃の汁を皿で受けながら、私は一口かじった。

「うまいか」

「……うん」

「じいちゃんにもくれ」

「うん」

 そうして、私と祖父は一口ずつ、代わる代わる一個の桃を食べた。

 私だけの祖父だったひととき。

 私は湯船に浸かって膝を抱えた。洗った髪からぬるいお湯が顔を伝い落ちる。私は桃の汁を啜るように唇を濡らすお湯をなめた。

「千夏はわかりにくい子だなァ。でもじいちゃんには、よーっく、わかるからな」 

 あの日、祖父は桃の皮を剥きながら言った。その桃の甘さを思い出して、私はそっと泣いた。




 夕飯の後片付けを済ませて、私は客間の草太を訪ねた。障子のはめ込みガラス越しに、草太が畳の上に寝転がっているのが見えた。私は障子の桟を軽くぽんぽんと叩いて「草太」と声をかけた。草太は「何?」と答えるだけで、寝転んだままだ。私は障子を開けて部屋に入り、草太の横に座った。

「お風呂。先に入っていいよ」

「うん」

「……あのさあ」

 私が声を低くすると、草太は目だけ動かして私を見た。

「さっき、お供えする時、別に何も考えてないって言ったけど」

「うん」

「いつもは考えないんだけど、何か良いことあった時とか、やなことあった時とか、心の中でおじいちゃんに話しかけるんだよ」

「…おじいちゃんに?」

「うん」

 草太は軽く唇をかんで黙っていたが、ゆっくりと起き上がると「風呂入ってこよ」とスポーツバッグから着替えを取り出した。こちらも見ずにすっと立って部屋を出て行った。明かりが点けっぱなしだ。蛍光灯の紐をカチカチと引いて廊下に出ると、お風呂ではなく仏間に入る草太の後ろ姿が見えた。


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