青の甘さ
暖かな春一番を胸いっぱいに吸い込めば、それは甘さ控えめな蜜の味。
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「先生」
放課後の、オレンジ色の夕日が差し込む教室で異様に長いスカートの生徒は口を開いた。既に教室には女生徒とこのクラスの担任の男性教諭しか残ってはいなかった。それだけ聞けば怪しく聞こえたりもするが、二人がしていたのはなんてことはないただの掃除だ。少しばかり綺麗好きな二人は、放課後にこうして二人で掃除しているのもおかしい光景ではない。示し合わせたわけでもなく、掃除中に会話があるわけでもない。事務的に行っている行為だからこそ、今この瞬間、彼女が口を開いたことに彼は驚きを隠せなかった。理由はそれだけではないが。
「…どうしたの?」
自分は教師であるということをすぐに思い出し、平然と返事をした。彼女は自在箒を動かす手を止めることはないが、彼と目を合わせる。
「青色は、甘いと思いますか」
クエスチョンが限りなく収縮されたアクセントで尋ねた彼女は自在箒に満足したらしく、塵取りに持ち替えた。
「…甘くはないと思うけど」
聞いてきたのが他の生徒だったら軽く一蹴しているところだったが、少なくとも彼女は、教師相手に冗談でそんな質問はしないと思っていたし、そもそも彼女が彼に話しかけること自体珍しいのだ。掃除中であっても、なくても。必要以上の会話は好まない彼だが、一応担任を持つ生徒なのだから少しくらい会話は必要だと必死で次に続く言葉を探る。
「好きなの?青」
「ええまぁ、先生は」
「好きな方かな」
しまった、と思った。会話が終わった。これはもしや会話を拒否されているのかと一瞬思ったが、ここで引いたら負けだ。
「どうして、好きなの?」
苦し紛れの質問だったが彼女もまさかここまで彼が聞いてくるとは思っていなく、少し考えてから口を開いた。
「だって、世界の大部分は青でできてるんですよ」
彼が理解をするより早く、いつの間にかゴミ捨てと掃除用具を片付け終え、鞄を掴んだ。
「電気だけ、お願いしますね」
そう言って教室を出ていく。彼は乾きかけの雑巾を教卓に軽く投げ、椅子に体を預けた。今日もわからなかった。眉間に軽く手を置くと、スピーカーから校舎施錠の放送が流れた。
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翌日もまた同じように、教室に残った二人は淡々と清掃作業を行っていた。声をかけるべきかかけざるべきか、彼は何度も彼女に目を向ける。気づいているのかいないのかはわからないが、窓の施錠確認を執拗に行う。閉まっていることを証明するガチャガチャという音に、毎度安心したように息をつく。全ての窓を確認し終え、カーテンに手を触れた。
「…甘い」
ぽつりと呟かれた言葉に彼が驚いて振り返れば、彼女と目が合う。具合の悪そうな紫がかった唇が微かに開き、名前を呼んだ。
「____先生」
なに、と聞こうとして詰まってしまう。おかしな声を不思議に思ったのか、首を傾げた。
「…甘い、色はなんだと思います?」
また変な質問だと思いながらしっかり考える。
「ピンクとか?」
「暖色系、ですか」
「うん」
「暖色と言えば辛そうなんですけど…そっか…甘い」
「そっか、確かに辛いかも」
「…どっちですか」
不満気な声色でも、表情は崩さない。
「…甘いって難しいね」
人差し指で頬を掻くと、彼女はゆっくりとカーテンから手を放し、鞄を掴む。
「帰ります」
少し焦ったように言うと、教室から飛び出していってしまった。
「えっ…と?」
困惑しながら呟いても、彼女の返事はなかった。
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あっつ…と呟いて服をパタパタと動かす。夏が近づいていることがよくわかる。
「…暑くないの?」
長袖のブラウスを着ている彼女を見ても、高速で机を揃えながらまるで何を言ってるのかとでも言いたげに逆に見られる。
「…暑いんですか?」
「うん、まぁ」
彼は今日から服を半袖に変えたが、いつもの紺色ジャージは変わっていない。決まったスポーツブランドのもの以外は着ないという決まりを自分の中で作る彼は、季節が変わり服の形が変わろうが、他の何かが変わるわけではない。
一方彼女はと言えば、一年を通して半袖を着ることは一度もなく、入学時に買ったものが二枚あるが、着たことはないし着る気もない。日焼けを気にしているとかいうことでもなく、肌を出したくないのだ。
彼は着るとはいえ半袖を着ている期間は短い。彼は体の細い人の中でも特筆して細く、秋口から長袖でなければ過ごせないレベルなのだ。冬は長袖のシャツの上にジャージ。その上からベンチコートを着て午後を過ごす。そんな彼が五月の初め既に半袖を着ているのは、運動会の練習が始まったからだ。この中学では五月の初めから運動会の練習が開始になり、五月の終わりにには運動会本番が待っている。まだ五月の初めと言えど校舎内に比べて外は暖かく、教師も各種目担当として動くので自然と体は温まる。ただ彼は教師の中でも力がなさそうに見え(実際ない)、肉体労働を免除されている部分は多いが。
「じゃあ先生今日は赤なんですね」
「赤?」
「…暑いのでは?」
「…そうだね」
理解するのに多少の時間はかかったが、暑いを色で表すと赤だということを言いたいのだと理解した。昨日言っていた甘い色か辛い色かの話の延長だろう。彼女が少しでも話を広げたことが驚きだが。
「紫って、どんな味なの?」
「…使用した食材によると思いますが」
「そうじゃなくて」
床に落ちていたジャージを拾いはたきながら彼を見る。彼女が本気で言っているのか理解できているのにふざけているのかが判断しづらい。
「味というよりかは禍々しい色ですし食欲はそそられませんし。…食べたら死にそう」
ジャージを綺麗に折りたたんで持ち主の机に置き、
「…毒味?ですかね?」
なんて真面目そうに言う。
「…死ぬんだったら甘くはないね」
そう言って二人で頷きあうと、どちらとも掃除に戻ってしまった。
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いつもは二人しかいない教室には、この一ヶ月と少しの間で初めて、もう一人の女生徒の姿があった。
「うん、だから…」
「んー、わかったよ、英語はもうわかったから先生数学教えてよ」
「俺は英語しか無理だよ」
「先生ほんと英語以外できないよねー」
きゃははと高い声で笑う女生徒と楽し気に笑う彼を横目に、彼女は淡々と清掃をこなす。笑い声を不快だと思いながら、早く終わりにして家に帰ろう。不快なのはその高い笑い声だけではなく、一緒になってニコニコと胡散臭い笑顔を振り撒く彼にイライラとしていた。何が楽しいのかわからない。あの二人だけで机を四つほど占領しているせいで自分の中で掃除を終えられない。早く、帰りたい。イライラして何かを口走る前に。何が補習だ、ろくに勉強なんてしないくせに。もう全てをあの教師に押し付けて帰ってしまおうと鞄を掴んで無言で教室を出る。追いかけてきたのは女生徒の中傷を目的とした言葉だった。
「毎日あーやって掃除してから帰ってるの?…ふーん、でもさ、あの子根暗って呼ばれてるし、毎日残ってって、先生のこと好きなんじゃないの?早めに断ったりした方がいいって、ああいう子は絶対、調子のるよ。好かれてるなんて思ってさ」
普通そういうのは、もっと遠くに行ったと思ってから言うんだよって、そう思いながら、先生の答えに聞き耳をたてる自分を、ずるいと思った。
「…でも俺は教師だから生徒にそういうこと言えないんだよね。一応今は、彼女の担任だし」
「なに、それ」
小さく呟く。今は、ってなに?ほんの少しだけ、心がきゅうって、苦しくなるのを感じた。




