起
「ガニアン侯爵、アルフォンシーヌはどこだ?」
あまり聞き覚えのない、明らかに怒気を滲ませた若い声にまるで詰問されるかのように声をかけられ、ガニアン侯爵家当主オーレリアンとその妻アンジェリーヌは首を傾げながら振り返った。
果たしてそこにあったのは、彼の一人娘の婚約者である第四王子のカミーユの姿だ。その傍らにはまるでカミーユに縋りつくように寄り添っている、いかにも儚げな少女もいる。こちらはまるで見覚えのない少女である。豪奢なドレスを身に纏ってはいるが、普段着慣れていないのだろう、どこかその豪華さに着られているような印象さえ感じられる。はっきりと言ってしまうのなら、聊かどころではなくこの場には不似合いともいえる少女である。
「これはカミーユ殿下。申し訳ありませんが、私どもは陛下方へのご挨拶もまだなのでございますが」
「そんなことはどうでもいい。アルフォンシーヌはどこだと聞いている」
騒めきに満ちた夜会会場には、声高に叫ぶカミーユ王子の声も、並の男をはるかに超える巨躯を持つオーレリアンの声もよく響いた様だ。もしかしたら少し離れた場所で参加者の挨拶を受けている国王夫妻や他の王子たちの耳にも届いたのかもしれない。たちまちのうちに好奇に満ちた視線が集まってくる。そのうちのいくらかは嘲りに染まり、また別のいくらかは色濃い不安を滲ませていた。
「はぁ、すでにお伝えして、陛下にも許可を得ていると思っておりましたが……娘は現在所用により夜会等は参加しておりませんのです。今夜も、同じく不参加でございますが……娘に何か、用でも?」
怪訝そうにオーレリアンが訊ねるのも無理はない。一応婚約者とはいうものの、これまでほとんどカミーユはアルフォンシーヌとの接触はなかったからだ。それこそ十四歳の夜会の際一度だけ共に夜会に出た程度である。
本来ならあり得ないことではあるが、元々騎士を幾人も輩出してきたガニアン侯爵家の気風と特殊性、現当主が優れた武勇を持って婿入りした庶民であることもあってか、そのあまりにも度の過ぎた没交渉ぶりは改善される事はなかったし咎めだてられることもなかったのだ。つい、先日までは、であるが。
「逃げたか。ふん、勘のいい事だが、この俺の命令を無視するとはいい度胸をしているものだ」
「はぁ……? 一体、何事で御座いましょう?」
「何事も何もない。ここにいる私の最愛の人カーラを、卑劣にもアルフォンシーヌは身分を笠に責め苛んだのだ。王族の寵愛を受ける者への非道、許されざると思わぬか?」
あまり馴染みのないとはいえ、仮にも王族で娘の婚約者である人物とは思えない発言に、オーレリアンは思わずきょとんとした子供のような表情を浮かべてしまっていた。その隣では、侯爵夫人が形の良い眉を顰めている。
「……殿下、妻が何やらお訊ねしたいことがあるようなのですが、発言しても?」
「構わぬ」
「殿方の会話に割り込んでしまい申し訳ありません。我らが娘アルフォンシーヌが、そちらのお嬢様を責め苛んだと仰せですが、わたくし、そちらのお嬢様がどちらのお家の方なのかも存じ上げませぬし、具体的に娘が何をしたかも判らぬのですが、お教え願えますでしょうか?」
淑女の礼を取りながらも言葉を紡ぐアンジェリーヌを、咎める様な目で見下ろしながらカミーユは踏ん反り返る。元々、このアンジェリーヌも跡取りのないガニアン家にどこの馬の骨ともわからないながら養女に入ったと言う経緯があるのだ。貴族でありながらほとんど庶民と変わらないガニアン家が気に入らなかったと言うのも、カミーユの態度に拍車をかけていたのかもしれない。責め立てるだけの疵を見つけた今、まるで鬼の首を取ったかのようにいつも以上に居丈高になってしまっている。
「ふん、庶民にも等しい分際で、これまで社交界で大きな顔をしていた癖に娘の動向も把握していないとはな。カーラはベルダン伯爵家の娘だ。確かに侯爵家より家格は劣るとはいえ、今のガニアン侯爵家よりもよほど由緒正しい家柄だぞ? それから、アルフォンシーヌは一月程前より影でカーラの悪い噂を流したり持ち物を壊したり、果ては三日前には人目のない場所へ呼び出した挙句階段から突き飛ばして殺そうとまでしたのだ。許されざる事だとは思わんか?」
「はあ、三日前にアルフォンシーヌに突き飛ばされたと……なるほど、ベルダン伯爵令嬢は、見た目によらず随分と頑丈な身体をお持ちの様ですなぁ。いまだ女性騎士は少ないとはいえ、推薦したいほどです」
「オーレリアン様、違いますでしょう? 殿下、三日前に相違はありませんわね? あと人目のつかない場所と仰られてましたけれど、それはどちらなのでしょう?」
庶民ながらも若くして国一番の武勇を勝ち取った男のあまりにも頓珍漢な発言に思わず脇腹を小突きながら、アンジェリーヌはカミーユに念を押す。国王夫妻にも聞こえているのは顔色を見ていればわかるから、別の言い方をするならば、言質を取ろうとしているとも言えるだろう。
「ああ、確か王城の北塔の階段だそうだ。ご丁寧に最上階まで呼び出されたと。探し出した時には可哀想にあんなに震えて……」
「……では、此度の夜会に必ず出席する様にと書き添えられていたのは、それらの事を糾弾するためとみてよろしいのですわね? 撤回するつもりは……御座いませんのね?」
「無論だ。そしてそのような所業を為す女を正妃に迎えるなど有り得ん。アルフォンシーヌ・ディアモン・ガニアンとの婚約は破棄とする!」
怯えた様に縋りつく伯爵令嬢を抱き寄せたまま、カミーユは力強く頷く。慌ててこちらに向かって来ていた国王夫妻の顔色は青を通り越してすでに白く額には脂汗がびっしりと浮かんでいたのにも、恐らくは気が付いていないのだろう。
「……北塔、ですか? あの細くて急な? すみませんが、ここ一巡ばかりあそこは人目がない筈はないのですが……深夜であれば話は別ですが、その様な刻限に、王城に出入りする事が、お役についていない身で、火急の用件もなくできましたかな?」
「は?」
相変わらず惚けたような表情のまま、厳つい顔と体躯の割りに子供のような仕草で首を傾げ呟くオーレリアンの言葉に、思わずカミーユは目を丸くしていた。そう、確かに北塔の階段は、最上階がかつての物見の塔でしかないためやたら高く、しかも荷物を運ぶ必要性もないため細く碌に整備もされていない。それこそ近隣の国々との条約が成り平和となって数十年は経つ今となっては無用の長物である。当然寄り付く者はいない。
しかし、最近になってそのやたらと長く細く急な階段を持つ塔の存在を知った騎士団長がいた。その男は、その階段を鍛錬に使えないかと国王に申請を出し、まさかのその申請は通ってしまったこともあり、一巡、つまりは七日ほど前よりその階段は実用装備を身にまとった騎士たちが幾往復も駆け回り、挙句其処此処に力尽き転がっている風景が当たり前となってしまったのである。
当然、その脳筋とはオーレリアンの事だ。当の本人は死屍累々と横たわる部下たちを後目に鼻歌混じりに板金鎧に従軍用の背嚢を背負った姿で最上階まで何往復もしてみせ、恐れ慄かれたと言われている。
「現在あそこは騎士の鍛錬場所として使われておりまして。当然お……私も、共に鍛錬しておりましたが、申し訳ないのですが、カーラ嬢のお姿を拝見したのは今日が初めてです。もちろん娘の姿も見ておりませんな」
「……ついでに、言うのでしたら最上階に呼び出されて突き飛ばされた、のでしたわね? もし、アルフォンシーヌが本気でそちらのお嬢様を殺そうとして突き飛ばしたのであれば……良くてかろうじて原形が残っている程度、悪ければ挽肉になっていてもおかしくはありません、わ。勿論、どちらにしろ命はないでしょうけれど」
「え?」
侯爵夫人の言葉に、王子はさらに困惑したような声を上げる。見た目だけならカーラと同年代にしか見えないアルフォンシーヌの母の言葉の意味が理解できず、呆然とするしかできないようだ。反面、傍らのカーラ嬢は最初から徹頭徹尾、どこか虚ろにも見える呆けたような表情のまま、カミーユに縋りつくばかりである。
「な、え? い、いったい、それはどういう……」
「言葉の通りですわ。それに、あの子は今この王都にはおりませんの。もうあの子も十六ですから、我々の成人の儀に取り掛かっております。もちろん長期の不在となりますから、在学している学園にも休学の届けは致しましたし、陛下にもきちんと事情を説明しておりますわね。半年前の事です。しっかり周知してくださいますようお願いしましたもの、当然殿下もご存じですわよね?」
嘘だ、と思わず叫びだしたくなったカミーユは、それでも漸く駆け付けてきた父王の顔を見て何も言えなくなってしまう。
カミーユを二十歳ばかり年を取らせたような風貌の王は、顔色こそ蒼白で今にも倒れそうでありながらも、これまでカミーユが見たことが事がないくらいに怒りを滲ませた表情でカミーユを睨みつけている。因みに母親である王妃はどうやらすでに気を失ってしまった様で、護衛を兼ねた侍女たちの手によって部屋へと運び込まれているのが人込みの合間から見えていた。
「カミーユっ……この馬鹿者が、此処がどこかを忘れたのかっ……一体何をしているっ!!」
「ち、父上っ、しかし……」
怒り狂った父親と、その迫力に押される末息子の口論にもならない口論は、しかし勃発する前に傍らからの一声によって遮られる。遮ったのは、若くたおやかな美貌の侯爵夫人である。本来止めるべき侯爵はと言えば、相変わらず茫洋とした雰囲気を纏って王族の親子を眺めていた。
「……親子喧嘩は後にしてくださいな、陛下。契約は破棄されたのですから、わたくしたち、そろそろお暇いたしたいのですが」
「な?! あ、アレはこの馬鹿息子が勝手に言った事で、まだ手続きはされておらぬ。そなた達に出ていかれては困るのだっ……故に……」
「わたくしたちにとって、契約と言うものがどれだけ重要か、陛下はまだ理解しておいでではなかったのですね。そうね、口を酸っぱくしてお伝えしたのは先代様でしたもの。改めて、言いますけれども、わたくしたちにとっては書面など意味はありません。そこに強固な意志があれば、契約は破棄されますのよ? そもそも契約を文字にしなければならないのは人族のみの風習でしょう。それに、この数十年の間でさえ、決定的とは言えないまでも結ばれた約定のいくつかに、すでに抵触しておりますもの。ええ、わたくしたちはよく耐えたと思っているのですけれども、貴方方にとってはそうではないのかしら。人間にとって、契約とはそんなにも軽々しいものなのかしら?」
見た目はにこやかな笑みを浮かべながらも、アンジェリーヌは言葉を紡ぐ。笑ってはいてもその美貌は壮絶なまでの迫力を湛えており、それを目にした王も王子も、ついでに言うなら野次馬の貴族たちですらもすっかり竦み上がって動けなくなってしまっている。
「……アンジェ、そこまで。人間は弱いから、そのままでは心の臓が止まってしまいかねないよ? そんな事よりも、本当なら帰ってくるまでが成人の儀だけれど、もうそれも意味がないから、早くアルフォを迎えに行こうよ。その後は、今度は三人で世界中を旅するのはどうかな?」
「……そう、ね。そうしましょうか、旦那様? ああ、ついでにあの子達も連れていきましょう? 大人数の旅がダメなら、どこかに拠点を作ってそこの管理をしてもらうの。それなら今とあまり変わらないでしょう?」
人目を憚らず自身を抱き寄せ窘めた夫に、先ほどまでとはうって変わった蕩けるような笑みを向けると、アンジェリーヌはすでに夜会からもその場にいる国王親子を含む人々からも興味を失ってしまったように、オーレリアンと共に歩み去って行ってしまう。
その場にいる凍り付いてしまった人々が気がついたのは仲睦まじい二人が立ち去ってから大分経ってからの事であり、正気に戻った王が慌ててガニアン家に使いを出すも、それは余りにも遅すぎた。
王の使いが見たものは蛻の空となった古びた屋敷と、優雅に飛び去って行く大きなゴンドラを下げた蒼い竜の姿。
先代の王が若かりし日に約定を交わしてから数十年、この国を守護してきた神姫竜アンジェリーヌとその契約者オーレリアンが彼らが育ててきた従者達と共に自由な空へと飛び出して行く瞬間であった。




