02
先刻まで西園寺が座っていた椅子に、漆田が座っている。
が、彼は持参したノートパソコンを一人で触っているだけで、少年たちには視線を向けようともしていない。
「……あの」
三十分ほど経過したところで、紫月が声を発した。別に故意に無視していた訳ではないようで、漆田は軽く顔を上げてきた。
「ん? 暇だった?」
「いえ、そうじゃなくて。……何か、あったんですか?」
意を決して尋ねてはみたものの、西園寺が口を濁していったその理由を、そう簡単に聞き出せるとは思っていなかった。
「うん。ちょっと、今、本部が襲撃を受けていてね」
だが軽い口調で返された内容に、二人の少年は顔を見合わせる。
「本部……って、ここですよね」
「そうだね。今のところ、私が所属する組織の本部は他にないな」
「それって大ごとなんじゃないのか?」
半ば呆れて咲耶が呟いた。
「まあねぇ。西園寺くんが頑張ってくれるだろうけど、ちょっとばかりタイミングが悪いなぁ」
「四郎が?」
咲耶があからさまに嫌そうな顔になる。
漆田はそれに対して面白そうな顔で見返した。
「心配かい?」
「頼りないって意味ではな」
そろそろ、からかう言葉に乗らない程度には状況に慣れてきたらしい。漆田が肩を竦める。
「うちのホープに手厳しいね。君と何度もやりあって生還してるんだから、実力は認めてくれてるんだと思っていたよ」
「……手加減してやってんだよ」
むっとして言い返す少年に、ふいに漆田の表情が真面目なものに変わる。
「君が? 敵対するモノは瞬時に一切の容赦なく叩き潰すように仕込まれている君が、西園寺くんに手加減するって? 本気でそう思っているなら、君はちょっと西園寺くんを見くびりすぎている」
「……あんた」
眉を寄せ、咲耶が椅子の背から身体を起こした。肘を机につき、やや身を乗り出すような姿勢をとる。
「まあ、今日はタイミングが悪いんだよ。ちょっと事情があって、警備が手薄だったからね」
しかしさらりと青年は話題を変えた。たん、と手元のパソコンのキーを叩く。
そして、画面をくるりと少年たちへ向けた。
ディスプレイに表示されたウィンドゥには、対峙する二人の人間が映し出されている。
一人は、つい先ほどまでここにいた男。
そしてもう一人、まだ幼い少年の姿に、二人の拝み屋は小さく息を飲んだ。
「知り合い?」
その表情を観察するかのように、漆田は短く問いかけた。
西園寺とその犬神に前後を挟まれて、しかし焦ったような表情を全く見せず、少年は右へと飛び退いた。
それを見越していたように、西園寺の銃が連射される。
ざざ、と少年は靴底で土を抉った。いつの間にか、道路から外れてしまっている。
瞬間、僅かに顔色が変わった。身を低くし、数十メートルを走り抜ける。
その足跡を追うように、地面が次々に爆ぜた。銃弾ではない。
この敷地の中には、各所に地雷のようなものが埋めこまれているのだ。ただし上から重量がかかることにではなく、未登録の『呪紋』に対して反応する。
無論、その爆発は現実的肉体のみに被害を与えるものではない。
「……やるものだ。人間風情が」
おそらくは安全圏であろう道路に戻って、少年が小さく呟く。
無造作に一振りした右手に触れることなく、再度飛びかかった次郎五郎が撥ね飛ばされた。くるん、と身体を回転させて着地すると、低く唸りながら少年の動きを伺う。
「開発者に伝えといたるわ。きっと泣いて喜ぶで」
銃口を相手に向けたまま、西園寺が告げる。
「生きて伝言を伝えることができるとでも思っているのか?」
道路の幅は、約五メートル。建物に通じる方向には西園寺が立っている。しかし少年は特に困った様子もなかった。
「安心せぇ。生きたまま逮捕するように誠心誠意努力するさかい」
にやりと笑って、黒衣の男は少年の足元に向けて銃弾を放った。
軽くバックステップでそれを避ける。更に次郎五郎の突進を、半身をすり抜けるようにしてかわした。
西園寺の笑みが深まる。
「存分に、喰らえ。九十郎!」
少年の細い喉笛を狙い、漆黒の犬神が解き放たれた。
「……二匹目!?」
紫月が驚いて呟く。
「彼に憑いている犬神が一匹だけだなんて、誰かから聞いたのかい?」
ちょっと意外だったように、漆田が尋ねた。
「いえ、そういう訳じゃなくて」
そもそも、紫月は『犬神使い』という存在をさほど理解できていない。
異なる術理論への理解が深まるほど、自ら扱う術への懐疑が深くなる、というのが咲耶の持論であり、それに則って彼は紫月に余計な情報を与えることはしないのだ。
だから、単純に書物を調べれば出てくる程度のことしか紫月は知らない。
『犬神使い』。厳密には、『犬神憑き』。
犬を、首だけ地面から出すような形で土に埋め、決して届かない距離に食物を置く。そしてその犬が飢えに苦しみ、人を恨み、それが死によって頂点を迎えようとする瞬間に、その首を落とすのだ。
犬の恨みは術師に対して向けられるが、それを操り、自分の目的の為に使うだけの力量が術師には必要となる。勿論、その支配はいつ覆されても不思議はない。
自らに対して恨みを持つ憑きものを、二体も使役するというのは、常識外れではあった。
咲耶が、不機嫌そうに小さく鼻を鳴らす。
画面の中で、少年が黒い毛並みの犬神に引き倒された。
九十郎に抑えこまれた少年に銃口を向けたまま近づく。ここで気を抜くつもりなど、毛頭ない。
「よぅし。ゆっくりと両手を頭の上に上げぇ」
左手で器用に手錠を取り出し、数歩手前で足を止めた。
少年は、じっと空を見上げている。
「……なるほど。仕方がないな」
低く呟いて、上体を起こしかける。九十郎が、胸の上にかけた前肢に力をこめた。
「最終的には全てを潰してしまえばいいだけか」
ざわり、と空気が変わる。
ほんの一瞬で、地面に膝をついてしまいそうになり、息を詰めた。
眩暈ではない。これは、絶対的な畏怖の、しかもその端切れだ。まだ。
目の前の小さな少年の身体から、想像もできないほど深い何かが繋がっている。
正体不明の相手に対し、何が起こるか判らないと覚悟していなければ、瞬時に卒倒していたかもしれないほどの、圧迫感。
「堪えぇ、九十郎!」
叫ぶような西園寺の指示に、毛を逆立てた犬神が唸る。その鼻面を、無造作に少年が掴んだ。
「忠義だな。だが、愚かだ。主人のことなど聞かず、すぐに逃げていればよかったものを」
「……まずい……!」
紫月と咲耶の顔色が変わる。
画面を通してしか判断できない漆田には判らないだろう。
だが、地上の空気が明らかに変わったことを、地下深くでこの二人は察していた。
それは、二か月前に一度経験していたからかもしれない。
「漆田さん」
真剣な瞳で、紫月が目の前の青年を見据えた。
びりびりと空気がひび割れる。
これは、殺さずには済ませられないかもしれない。
僅かに眉を寄せて、覚悟を決める。
ここで自分が殺されるかもしれないとは考えない辺りが彼の強みだ。
空気に、別種の雑音が混じる。
不審に思ったと同時、それは地上一帯に響き渡った。
「太一郎くん、そこまでだ!」
敷地内のスピーカーから、最大音量で弥栄紫月の声が放たれたのだ。
「……坊ン?」
「紫月」
呆然として呟いた二人は、そのまま顔を見合わせた。