02
「……ところで」
むっつりと黙りこんでいる相棒をしばらく見つめたあとで、紫月は話を振ってみた。
「彼の車は見つけられそうなのか?」
〈桂〉は、咲耶の召喚する式神の一体だ。白い鳥の姿をし、こうして背に人を乗せて飛ぶことができる。鳥のように羽ばたいてはいるが、動きは滑らかで、乗っている人間の安定性は上々だ。こうして腰かけている場所は、本当は目に見えているのとは違う形状であっても、不思議はないぐらいに。
そして、公道を走る車よりも飛ぶスピードは速い。道路を辿る必要がない分、なおさらだ。しかし、マンションを出た時点で数分の遅れがあり、かつ上空から見下ろしているのではあの男が乗っていた車は既に街の中に埋没してしまっている。
「大丈夫だ。道案内を残していっている」
無造作に指さす先には、小さく銀色の獣の姿が見えた。車が行き交う間を、ぶつかる様子もなくすいすいと走っていっている。
「……ああ、やっぱりあれは普通の犬じゃなかったんだ」
呟きに、呆れ顔を向けられる。
「お前……。マンションの十階から無傷で飛び降りてきた時点で、あれを普通の犬とか思うなよ……」
「飼い主を含めて紹介されてなかったからね」
さらりと嫌みを言うと、咲耶の眉間の皺は更に深くなった。しかし一つ溜息をついて、口を開く。
「あの男は、西園寺四郎。変質者だ」
「へん……?」
思いもしなかった紹介内容に、小首を傾げる。
「元々は、実家の方で繋がりがあった家でな。まあ、遠い繋がりだけど。それが、何でか知らないが去年ぐらいから時々俺を殺しにわざわざ大阪から来るんだよ」
「それは……、彼が無事でいるのが不思議だな」
守島咲耶。若き陰陽師として拝み屋の仕事を請け負う彼は、その業務に関しては酷く潔癖だ。特に不法行為に関わることは頑として拒絶する。
しかし、私事においてはひたすら自己中心を貫く。先月、幻とはいえ自らの関係者を十名ほど躊躇なく抹殺したばかりだ。その立ち位置は、おそらく相手が実存在だったとしても変わるまい。
ばつが悪そうに、咲耶は前髪を掻き上げた。
「調子が狂うんだよ。あいつは。俺に、冗談でも殺すなんて言ったらどんなことになるか、日本で活動してる術者で想像できない奴はいない。それを面と向かってはっきり言いやがったくせに、のらくらへらへらしやがって……ッ!」
思い出し怒りで、彼の両手の指が鉤爪状に曲がる。その手には、しっかりと黒革の手袋が嵌められていた。黒革の上着を着ているのは前から気づいていたが、ベランダから出てきたのにスニーカーまで履いているのを見て、なるほど身支度を整えたせいで初動が遅かったのかと納得する。
西園寺四郎とやらが、彼の言うように油断できない相手なのであれば、いつにも増して僅かな隙も作りたくはあるまい。
「それで、あの犬は?」
咲耶の苛立ちが沸点を超える前に、知りたいことを聞き出そうと促してみる。話題によっては更に激昂する可能性もあったが、彼は何とか気分を切り替えたようだ。
「ああ、あれか。……あいつの、『四郎』って名前なんだけど」
「話が戻っていないか?」
「聞けよ。西園寺の一族では、『四郎』ってのは忌み名だ。敢えてそれをつけたのは確か祖父さんだったから、それに関してあいつに非はないけどな。で、その理由は『四郎』ってのは、『死狼』に通じているからだ」
「死狼……」
小さく、口の中で呟く。咲耶の真面目な口調が、その名前の不吉さを増大させた。
そろそろ街外れも近い。視線の先で、銀色の犬が高さ五メートルはある塀を難なく飛び越えた。その内側は廃工場だ。だだっ広い駐車場跡地に、一人の男が立っている。
彼に、まっすぐに犬が走り寄る。慣れた仕草でその頭を撫でてやりながら、西園寺四郎は楽しげにこちらを見上げてきた。
その、ただ純粋な期待だけが現れている表情が、何故か酷く禍々しいものに見える。
「……あいつは、『犬神使い』だ」
とん、と地上に少年たちが降り立つと、咲耶はすぐに式神の召還を解いた。
「久しぶりやな、咲耶。ちょお痩せたんちゃうか? 今年の夏は暑かったさかいしゃあないけど、気ぃつけなあかんで」
「うるせぇよ。先月会ったばっかじゃねぇか」
吐き捨てるような咲耶の言葉に、男は少しばかりきょとんとした。
「前にこっちに来たんは三ヶ月前やったけど」
「あー……。ああ、悪ぃ。思い違いだ」
渋い顔のまま告げる少年に、西園寺がにやりと笑う。
「ん? なに、思い違いするぐらいにワシに会いたかったん?」
「違うっつーの! 揚げ足取るんじゃねぇよ、謝っただろうが!」
自分に殺意を抱いている相手に対して、それでも律儀に謝罪する咲耶に、斜め後ろに立っていた紫月が小さく笑いを零す。じろり、と咲耶が少年を睨めつけた。自然、西園寺の視線も紫月へと向けられる。
「そりゃそうと、何で坊ンまで連れて来とるん? 自分、そんなにワシとの愛の交歓を他人に見せつけたいんか?」
「黙れ変質者」
腕を組み、咲耶はばっさりと切り捨てる。
紫月が僅かに違和感を覚えて、小首を傾げた。
「あい……?」
そもそも、人を殺そうとしている人間が、その対象とこんなににこやかに会話をするだろうか。
紫月の戸惑いを気にすることもなく、西園寺は更に口を開いた。
「ん、まあ見とるぐらいはワシも構へんけど。参加はちょお遠慮して貰えるか? ワシはこれでも結構一途やねん」
「死ね変質者」
平坦に言い返されて、西園寺は笑い声を漏らす。純粋に、ただ純粋に楽しそうに。
「ほな、やろか」
言葉が空気に散った瞬間、銀色の犬神が疾った。
「檀!」
咲耶の言葉に応え、犬神の進む先に新たな式神、金毛四尾の狐が出現する。
「……存分に、喰らえ。次郎五郎」
〈檀〉の首筋を目掛け、次郎五郎がとびかかる。
するりとそれを避けて、〈檀〉が雄叫びをあげた。次郎五郎の周りを囲むように炎が迸る。その高さは、一瞬で三メートルほどにもなった。
僅かな足音も立てず、咲耶がその炎の壁に隠れるように走り出す。あまりそちらを見ていると西園寺に気づかれるような気がして、紫月は正面のやや上方へ視線を固定した。
咲耶が口の中で小さく呪を呟き続け、小さな身振りで印を切る。彼の、普段から主張している戦い方は、少なくとも対人においては至極理に適っていた。
ばしん、と音がして、西園寺の足元のアスファルトがひび割れる。
その割れ目から、ぬるりと黒い影が漏れだした。男が薄く笑みを浮かべる。
ひび割れから遠ざかると思いきや、大股に中心部へと一歩進んだ。後ろへ回りこもうとしていた咲耶が、驚愕に眼を見開く。
身体を捻り、ひゅん、と音を立てて、西園寺は背後へ脚を蹴り上げた。爪先が目の前を掠めて、慌てて咲耶が足を止める。
「お。惜しい」
にやりと笑ったまま、呟いた。
「てめぇ……!」
だが、黒い影はそのまま西園寺の下半身にまとわりつき、動きを止めようとしている。
西園寺の手の中で、小さく金属音がした。ライターの蓋を空けた音のようだ。
「……南無八幡大菩薩」
歌うように口に出して、火をつけたライターを、身体の周囲にまるで何かをぶちまけるような勢いで回す。炎が一気に回り、ちりちりと、黒い影は紙が燃え尽きるような動きをして消えていった。
「呪を略すなって言ってんだろうが!」
怒声を上げて、咲耶が手を伸ばす。
「ほんまに堅苦しい奴っちゃな。発動するんやからええやん」
軽くそれをかわして、西園寺が返した。
「よくねぇよ!」
咲耶の言い分は、紫月にもしつこいぐらいに言っていたことだった。それは、敵対する相手に発するには、少し筋が違うのではないだろうか。
微妙な違和感が募っていく。
西園寺が、とん、と軽く咲耶の肩に触れた。少年の身体の向きが僅かに変わり、それに反するように自らの位置を滑らかに移動させる。結果、あっけなく西園寺は咲耶の背後に回っていた。
「く……」
焦って、咲耶が肘を上げて身体を回転させようとする。だが、男は腕をするりとその内側へ回し、手際よく咲耶を羽交い締めにした。
「よ、っと」
「てめ、離せ……っ!」
苛立たしげに、身体を大きく動かして振り解こうとする。だが、笑みを含んだままの唇を西園寺は少年に近づけた。
「そんなに暴れんなや。うっかり、一口目で動脈を喰い破ってまうかもしれへんで?」
吐息が、首筋に触れる。
瞬間、怒りが腹を灼く。その熱さを通り越して、背筋が凍えるように冷えた。
咲耶が西園寺が顔を寄せている側の腕を上げた。無造作に、男の黒髪を鷲掴みにする。
小さく囁いた言葉が消えると同時、その手が紅い光に包まれる。
「うぉあっ!?」
驚愕に叫びを上げて、西園寺が反射的に身体を離し、後退した。ほんの一瞬でその光は消えたが、周囲には僅かに焦げたような臭いが漂っている。
「無茶すんなぁ……」
「うるせぇな、煙草臭いんだよ。この変質者が」
軽く頭を振り、呆れたように呟く西園寺に、素早く向き直った咲耶が吐き捨てる。