02
廊下を数メートル戻って、横手の扉を開く。薄暗い室内には、幾つかの書棚が立っていた。
「トゥキ」
小さな呼び声に応じて、重厚な机の上に小柄な老人が姿を見せた。深々と頭を下げている。
「こちらは西園寺さん。昨日伝えておいた資料を見に来られたんだ。用意はできているか?」
フードに顔を隠したままの老人の背後に、ふっと書籍の山が現れた。二十冊は下らない上に、一冊がかなり分厚い。
「ご苦労さま。西園寺さんの尋ねられることにはできるだけ応えて欲しい。僕の判断が必要なら、いつでも呼んでくれていいから」
「御意」
短く承諾するトゥキに頷いて、背後の西園寺へと向き直る。
「西園寺さん、これはトゥキ。杉野の書庫の管理人もやっていた者です。僕よりも蔵書については詳しいと思いますから、何でも訊いてください。僕に何か用事があったら彼にそう言って貰うか、直接呼んでくれればすぐに来ますから」
穏やかにそう告げる。
勿論、杉野の手による書類や、一部の書籍はここには出されていない。トゥキ・ウルにも紫月自身に関することは表に出さないように言い含めてある。そう、彼は何に注意すればいいのか、紫月よりもよく判っている。
「おぅ。よろしく頼むわ」
そんな意図を察しているのかいないのか、気軽に西園寺は片手を上げる。
「じゃあすみません。僕は向こうで勉強の続きをやってますから」
「ああ。鬼みたいな保護者に気をつけぇや」
揶揄する言葉に苦笑して、紫月は部屋を出た。西園寺が改めて書籍の山を見つめる。
「しかし何日かかるかな……。ワシも専門やないし。あ」
思いついたように、傍に控えるトゥキに目を向ける。
「これ、表紙とか中身とか、写真に撮っても構へん?」
数秒沈黙して、トゥキが口を開く。
「フィルムカメラであれば、宜しいかと。デジタルですと少々不都合が生じるかもしれませんな」
「そうなん? 魔術的な何か?」
西園寺の言葉は、やたらと軽い。悪魔、しかも仮にも容疑者の使い魔と話しているにしては。
「そうではなく、拡散としての問題です。フィルムカメラでは、ネガフィルムと現像した写真、一枚辺り精々が十数枚増える程度でしょうから、写真から何かあっても被害はさほど広がりません。ですが、デジタル写真ですと、カメラ、データカード、パーソナルコンピュータ、その他記憶媒体、果てはインターネットで一瞬で拡散が可能です。写真が何らかの反応を起こした場合、収拾をつけるのは困難となりましょう」
重々しくトゥキが明言する。ふぅん、と小さく西園寺が呟いた。
「しかしよぅ知っとるんやな。悪魔からパソコンとかデジカメとかいう単語、聞くとは思わへんかったわ」
その言葉に、白い髭に隠れた唇を小さく歪ませる。
彼は、情報を司る悪魔だ。彼以外にも、人間に知識を与える悪魔は多く存在する。人間の作りだしたものに対する情報など、彼らにとってごく自然に取得できる。
「ん。ほなまあ、一冊ごとに大体の内容と杉野さんがどんな風に使っとったか、ちょっと説明つけてくれるか」
「かしこまりました」
意外と軋轢も生じず、二人は作業を始めていった。
ドアを閉め、向きを変えて紫月は動きを止めた。リビングの入口で、太一郎が立ちはだかっている。
「どうかしました?」
戸惑いがちに尋ねると、苛立ったように睨め上げられた。
「守島と話をする。いつもみたいに大声で呼ぶな。奴には知られずに行きたい」
師の命令に小さく肩を竦める。リビングに移動し、普段は使わないインターホンを取り上げ、上階を呼び出した。
『何だ?』
すぐに反応があった。幸い、不在ではなかったらしい。
「太一郎くんと上に上がってもいいか? 彼が話したいことがあるらしい」
『太一郎が? まあ構わねぇよ』
あっさりと許諾されて、彼らはリビングの片隅にある階段を登った。上の部屋へ通じる扉を開いて内部を一瞥し、絶句する。
リビングとベランダの間には、二組の掃き出し窓がある。そのガラスがそれぞれ一枚ずつ割れてしまっていた。外部から段ボールを貼りつけて応急処置をしてあるが、それでも隙間風は入ってきている。
「どうかしたのか?」
呆れたように太一郎が尋ねる。畳に座ったままで咲耶が肩を竦め、答えた。
「四郎だよ。一昨日、あいつの犬神がご丁寧にそっちから入ってきて、こっちから出て行ったんだ」
勿論、単純に通過しただけでは済まなかったに違いない。卓袱台の近くの畳が、一部茶色く変色している。
「損害賠償を請求するなら、弁護士を紹介するぞ」
さらりと告げられて、まじまじと少年を見つめた。
「お前、金に関することは何かシビアだよな……」
「現実的なんだ。どうする?」
咲耶は小さく首を振る。
「止めとくよ。防御が足りてなかったのは、俺の落ち度だ」
きっぱりとそう告げて、改めて来客に視線を向ける。
「で、何の用事だ? 二人揃って。引越の挨拶なら斎藤さんがしてくれたぞ」
「今、紫月の部屋に、あの無能警官が来ている」
太一郎の言葉を聞いて、咲耶はあからさまに眉を寄せた。
「四郎が? そんな状態で、何で部屋を空けてんだ?」
「トゥキが相手をしてくれてるからね。下手なことはされないと思うよ」
紫月の説明に、一応納得したのか頷いた。
「だが、今後もこんなことが続くとなると話は別だ。あんな男に、これ以上周囲を嗅ぎ回られたくはない」
「んなこと言ってもな。しつっこいんだよ、四郎は」
うんざりしたように、咲耶が呟く。
「僕ならあいつを追い返せる。勿論、お前たちの協力が不可欠だが」
「よし乗った」
即座に長い黒髪の少年はそれに応じた。呆れたように、紫月がそれを見つめている。
「どうやってそんなことができるんですか。僕や咲耶を逮捕させるとか、他に適当な犯人をでっち上げるとか、西園寺さんに危害を加えるとか、そういう理に適わないことはやめてくださいよ」
「最後のは別に構わないだろ」
さらりと咲耶が異議を唱えて、紫月に睨まれる。
「心配するな。誰も偽らない、誰も騙さない、誰も裏切らない。円満解決と行こうじゃないか」
珍しくにやりと笑って、太一郎は宣言した。
「けど、とりあえず、今日の昼間は避けて貰ってもいいか? 窓ガラスを替えにきてくれる予定なんだよ」
咲耶がいきなり出鼻を挫くが、特に太一郎は気にした様子もなかった。
「構わない。僕の方も準備がいるからな。今夜、奴を呼び出せ。場所は殺害現場だ」
有無を言わせぬ口調で言い渡すと、太一郎は出口へと向かった。がらりと扉を引き開け、外へ足を踏み出す。
半ば呆れてそれを見送っていた咲耶が溜め息をつく。
「紫月。いつかあいつに、九階や十階のベランダから出入りするなって言いきかせてくれないか」
「僕も彼にはもう少し分別をつけて欲しいんだけどね……」
夕方の六時を回ると、もう陽はとっぷりと暮れている。
つい一月前ぐらいには、まだまだ明るかったのになぁ、と思いながら、ふと隣に立つ相棒に顔を向ける。
「去年も、これぐらいの時期はもう暗くなってたか?」
いきなり問いかけられて、相手はきょとんと見返してくる。
「そりゃそうなんじゃねぇの? 数分の差はあるだろうけど、日の入りの時間なんて、年によってそう変わらないだろ」
自分の問いかけを訝しがってはいるのだろうが、一応きちんと答えてくれる。
しかし、記憶にない。
いや知識としては持っているし、それを不思議に思っている訳ではないのだが。
去年やそれ以前に、日が短くなったな、とか寒くなってきたな、とかいう感慨を抱いた覚えがないのである。
「……そうか」
僅かに表情を緩ませて、小さく呟く。ことさらに問い質すこともなく、相棒はそれを聞き流していた。
やがて、静かな住宅街に車のエンジン音が低く響いてくる。
車が駐車場に入って、その人物が中庭に現れるまで、五分。
「おぅ。何や? 話したいことって」
ふらり、と黒い背広を着た男は彼らの前に姿を見せた。