01
翌朝、さほど早くもない時間にインターホンが鳴る。
結局昨日は家に戻った時点で、窓の修理には間に合わなかった。慌てて業者に連絡を取り、懸命に拝み倒してまた今日来て貰えることになったのだ。
しかし、今回もエントランスからではなく、玄関先からの呼び出しである。
警戒を怠らずに、受話器を上げる。
「はい?」
『あ、おはようございます、守島さん。斎藤ですけど』
共用廊下にいたのは、夏木太一郎の世話役として勤務している青年だった。
「あれ、どうしたんですか? 今日、家庭教師の日でしたっけ」
太一郎が請け負った紫月への授業は、一般人には知られては困ることも多々あるため、斎藤は同席を許されていない。大抵、咲耶の部屋で時間を潰すことが多かった。
だが、斎藤はにこやかな口調のまま続けた。
『いえ、実は夏木と私は、お隣に引っ越してきたものですから、ご挨拶に』
「……はぁああああああ!?」
慌てて玄関の扉を開けると、いつものようにきっちりとスーツを着こんだ斎藤が立っている。
「わざわざすみません。これ、つまらないものですが」
両手に持った箱を差しだしてくる。きちんと包装されたそれは、有名百貨店のものだ。
「いや、引越って、何で? 確か、隣は人住んでましたよね?」
二世帯の家族が住んでいた筈だ。上階にいた若い夫婦とは、顔を合わせれば挨拶ぐらいはしていたから、間違いない。
「ええ。昨日の朝に夏木が引っ越すと言い出しましたので。色々あって、引越は今朝になってしまいましたが」
元々、斎藤は住み込みの仕事をしているようなものだ。私物は最低限だろうし、太一郎が今までの住居から引き続き運んできたいと思うものなど、精々書籍ぐらいだろう。他に必要なものなら、こちらで揃えればいい。あの少年は、そういう世界に住んでいる。
それよりも、前の住人を説得し、代わりの住居を提供し、一晩で彼らの引越を完了させるとは。
「……無茶をするな……」
天下の夏木ホールディングスに勤める青年は、咲耶の呟きの真意を判っているのか、にこやかに微笑んでいるだけだ。
「基本的に私がこちらのフロア、夏木は下のフロアで生活する予定です。と言っても、私は殆ど下にいるとは思いますが」
おそらく、太一郎の目的は紫月から目を離さないことだろうから、それで下のフロアを占有したのだろう。
そう思っている矢先に、階下で勢いよくドアが開く音がした。
「太一郎くん!?」
驚愕した声が聞こえてきて、咲耶と斎藤は何となく顔を見合わせ、苦笑した。
「本当に無理をする人ですね……」
ソファに腕を組んで座り、こちらを見上げている少年に、紫月は呆れたような呟きを漏らした。
「お前は目を離すとどんな厄介ごとに巻きこまれているか判らないからな。それに、あの別荘にいなくてはならない事情はもう済んだ」
平然と答えられて、紫月はやや眉を寄せた。その事情とは、つまり、先月太一郎が自分を陥れようとしたことだ。
まあ今更そんなことを咎めだてしても仕方ない。
「少し前から、引越を検討してはいたんだ。これほど急に、これほど近くにという予定ではなかったが」
言い訳するように告げて、太一郎は新たに自分の居住することになった部屋の方向へ意味ありげに視線を向けた。
「邪魔になるから、あの壁は取り壊すか」
「止めて下さい」
あまりにもあっさりと戸境壁の撤去を言い出した少年を、寸分の隙も挟まずに紫月は制止した。
「何故だ? 建物の耐力が心配なら、そこはちゃんと小細工するが」
「いやむしろ僕のプライバシーを尊重してくれませんか」
マンション崩壊の危機よりも自身の平穏な生活を優先して紫月が抵抗する。
だが、太一郎はその言葉に僅かに眉を寄せた。
「弟子如きがプライバシーを気にするなんて、百年早い」
「一体いつの時代の徒弟制ですか!」
断言されて、声を荒げる。
「前にも言いましたが、そもそも、僕も咲耶もそこまで貴方にお願いしていないんですが。一昨日のことといい、ちょっと過干渉気味なんじゃないですか? 一体何の意図で、そこまでしてくるんですか」
前日に西園寺から聞かされた話を根拠に、そう問いつめる。
僅かに空中を見上げ、数秒間沈黙してから太一郎は口を開いた。
「紫月。世の中には、知らなくていい事情と知ってはいけない事情があるものなんだ」
「……帰って貰っていいですか?」
目を眇めて少年を見下ろしつつ、紫月は要請した。
しかし、実際八歳の少年でしかない太一郎が引越の最中である自室に戻ったところで作業の邪魔にしかならないだろう。
結局紫月が折れ、太一郎は臨時に教師を務めることになった。尤も、今日の授業内容は表向きの理由に則って、大学受験に備えたものになっていたが。
「いや太一郎くん。そんなブロークンなスラングは教えて貰わなくてもいいんです。本場仕込みって、どんな本場に足を踏み入れてたんですか。一応子供なのに」
「全く我が儘だな。じゃあ、西海岸と東海岸のどっちが望みだ? 英国式でも構わないが」
「日本の受験用英語でお願いします」
午後を過ぎた辺りで、授業だか文句だか知れない二人のやりとりをインターホンの電子音が遮った。
「斎藤さんかな?」
腰を上げ、傍らの壁に設置されたインターホンを覗きこむ。それは訪問者が玄関前にいることを示していた。
『おぅ、坊ン。今、構へん?』
紫月についてリビングに入ってきた西園寺は、昨日と変わらず黒の背広を着ていた。しかし昨日着ていたものは手酷く破ってしまっていたのだから、別の服だろう。
その男は、ダイニングの椅子に腕組みして座る少年を認め、眉を寄せている。
「何や、今日も保護者同伴か」
「伴っているわけじゃない。お前がこちらへやってきただけだろう、悪徳警官。母国語ぐらいは正しく使え」
その視線は、物理的に見上げているにも関わらずあからさまに見下げるような蔑みに満ちている。
「……太一郎くん」
溜め息混じりに諫めて、紫月は西園寺を少し離れたソファへと誘導した。彼らを近づけておくのはあまり賢明ではない。
「今日は、何のご用事ですか?」
「いや、昨日言うとったやろ。杉野さんの資料を見せて欲しいて。ええかな?」
「構いませんよ。持ってきますね」
身軽に踵を返したところに、太一郎の声がかかる。
「お前が接待するほどのことじゃない。管理人がいるんだから、そいつの相手は奴に任せろ。受験に失敗してもいいのか?」
そう言われても、紫月の受験まではまだ一年以上あるのだが。太一郎の言い分はおそらくただの口実だ。彼は彼で、紫月と西園寺を近づけておきたくないと思っているのだろう。
「判りましたよ。西園寺さん、こちらへ」