05
気配は感じるが、まだ姿は見えない。それでも、おそらくはさほど力の強いものたちではなさそうだ。その代わり、数がそこそこ多い。二十体は下るまい。
紫月は、気配だけで相手の正体を掴むということができない。探知するための術をかける必要があるのだが、それはあまり広範囲には使えない。その探知の及ぶ範囲の生物情報を、逐一受け取らなくてはならなくなるからだ。明確な『精神』を持つものだけに限られるとはいえ、情報量が多すぎると他の行動を取るのに差し障る。
ゆっくりと近づいてきた気配が一つ、熱く空気を燃やす衝撃と共に四散した。
先刻、カルミアに命じて周囲に撒いたのは、杉野の遺した〈火竜の棘〉だ。
今まで、養父が関わっていたというだけでそれは嫌悪の象徴だったのだけれど。
しかし昨日、西園寺と咲耶が殺し合っていた時や、その後『本部』に襲撃をかけた太一郎を迎撃していた時に、漆田や西園寺が数々の道具を効果的に使用しているのを目にして、やや認識を改めたのだ。
勿論『本部』という組織が使っているものと、個人である杉野が作ったものとでは性能が段違いではある。
だが、行動を有利に運ぶための使い方は、さほど違いがある訳ではないだろう。
紫月は相棒や師が言うほど、自分に才能があるとは思っていない。
道具によって底上げができるのであれば、由来に拘る必要はないという判断だ。
立て続けに、〈火竜の棘〉が弾けた。同時に周囲の芝生も大きく抉れる。
無駄に回りに被害を出すのはちょっと改善の余地があるな、と思いながら、紫月は小さく呪を唱えた。
ざあ、と煙を吹き飛ばすように一陣の風が疾る。
隣を進んでいたものが爆破されていても、変わらずに近づいてきていたものたちが、それに触れると同時に切り刻まれた。
苦痛の呻きが周囲に満ちるが、紫月は表情一つ変えることはなかった。
すいすいと裏通りを進んでいた〈榊〉が、ある地点でふいに消失した。
のんびりとその後ろを歩く咲耶が、軽く眉を寄せる。
結界が張ってあるのだ。しかし、何となく、術師が通常使用するものとはちょっと違う。
難なくその結界を通り抜けて、咲耶は注意を怠らず、足を進めた。
人気のない公園には、僅かに焦げたような嫌な臭いが漂っている。
一体何が焦げたのか、ということに思い至って、その臭いに咲耶は更に顔をしかめた。
周囲に気を配りながら、木立の中の小道を辿る。
その先、小高くなった芝生の上に、捜し人は立っていた。
柔らかな茶色がかった髪を、そよぐ風が揺らしている。
彼を中心に、半径五メートルほどの地点で、芝生が抉られている場所が幾つかあった。
その円の内側に、黒い鱗に包まれた、奇妙な獣のような生命体が数匹、紫月に迫っている。
小さく少年の唇が動いて、指先がふわりと舞う。
瞬間、獣たちがずるり、とその形を崩した。どろりと溶解し、地面に不気味な染みを作っていく。
最後の一体が原型を留めなくなったところで、紫月はゆっくりと周囲を見回した。
「やあ、咲耶」
「……何やってんだよ」
静かな声をかけられて、呆れて言葉を返す。
「うんまあ、色々と実験を」
「そのためにこいつらを呼び出したのか? それはちょっとむごいな」
非難するような口調に、紫月が苦笑する。
「まさか。襲撃されたから、いい機会だと思ったんだよ」
「襲撃?」
改めて周囲を見回す。微かに残る臭いは、その数と質を彼に伝えてくる。
「襲撃ってほどの強さか?」
「真剣じゃないだろうねぇ」
のんびりと返して、紫月はやや高くなっている芝生から通路へと下りてきた。
「考えられる要因は、まあ幾つかある。昨日、太一郎くんがちょっと本気を出してただろう。あの日一番長く一緒にいたのは僕だったから、彼の力に誘われて出現したのが偶然僕のところだったのかもしれない。……あとは」
少し言い淀むように間を空けて、紫月は続けた。
「君の実家から牽制をかけられたのかもしれないね」
「は?」
その内容に反射的に苛立ったが、それでも咲耶はそれを抑えこんだ。
「あのな。うちは、陰陽道だぞ。こいつらの臭い、明らかに西洋悪魔だったろうが。他流派の術を使うことは、俺たちには禁じられている。そりゃそういう奴らが世界に全然いないなんて断言するつもりはないが、うちの内部にはいないってことは確かなんだよ」
紫月には、そういった内情はよく判っていないだろう。そう思って説明したのだが、紫月は静かに頷いた。
「うん。でも、君の実家は、他流派にもよく顔が利くっていうから。大ごとになるでもない、この程度の頼みであれば、聞いてくれるところもあるんじゃないかと思ったんだよ」
どこの後ろ盾がついている訳でもない、ただ一人の少年に対する牽制であれば。
咲耶が小さく舌打ちをした。それぐらいは、確かに充分あり得る話だ。
どう言葉をかけようか、迷っていた時に。
「それはそうと、咲耶。先刻は、少し言い過ぎた。悪かったと思ってる」
さらりと謝罪されて、数度瞬いた。
「……お前」
「あと、一つだけ君に言っておきたいことがあるんだけど」
まっすぐに友を見つめ、紫月は強く言葉を紡いだ。
「僕たちには、本当は、世界だって狭いんだよ」
毒気を抜かれたような、呆れたような顔で立ち尽くしていた咲耶が、小さく笑みを零した。
「全く、大きく出るな。お前は」
ふらり、と身体を揺らして向きを変える。自然に、紫月がその隣に並んだ。
「そうだな。のんびり探すか」
唐突にそう呟かれて、紫月は小さく首を傾げた。
喫茶店の扉を開けて、少年たちは周囲を見渡した。
「あ、お帰りなさい咲耶さん、紫月くん」
華やかな笑顔を浮かべて、真弓が声をかける。
「ただいま、真弓さん」
「こんにちは。……西園寺さんは?」
ここで待っている筈の男の姿が見えなくて問いかける。
「四郎さんはお仕事があるから帰るって。お代は先に頂いてるから、お好きなものを注文してね」
にこにこと笑みを絶やさず、真弓が告げる。
「何だあの野郎、引っかき回すだけ引っかき回しやがって」
ぶつぶつと呟きながら、咲耶がカウンターに座ろうとする。その服の裾を少し引いて、紫月は少し離れたテーブル席へと移動した。
「どうした?」
相棒の前の椅子へ座りながら問いかける。
「うん、正直、君に言うことでもないかと思ってたんだけど。……西園寺さん、さ」
微妙に難しい顔をしながら、紫月は続けた。
「多分、まだ、君のことを諦めてないと思う」
「……気持ち悪ぃ言い方すんな」
衝動のままに一回殴ってやろうかと思いながら、咲耶が力なく呟く。
「ああいや、何て言うかさ。昨日、西園寺さんが『仕事』に取りかかってからは、君と必要以上の関わり方はしていなかっただろう? 仕事と趣味は別、っていう感じで」
「趣味なのかよ」
数時間前の紫月と同じ感想を漏らす。
「でも、先刻、僕と二人で話していた時には、そんなに割り切っているという感じでもなかったんだ。上手く説明できないけど。だから、彼が仕事中だからって、気を抜かない方がいいと思う」
「……ああ、まあ、そんなことは一切期待もしてなかったけどな……」
段々と小声になりながら、咲耶は肩を落とした。
「まぁ仕方ねぇだろ。言ってみりゃ、今までと変わりゃしねぇよ」
不審に思った真弓が注文を取りに来た先で、少年たちは揃って長く溜め息をついた。
電子音が、薄闇を切り裂いて響く。
「はい?」
『おぅ、今から行くさかい、飲もうや』
流れ出た、予想に違わない声に、苦笑する。
「あのね、西園寺くん。私はまだ仕事中なんだけど」
『開発部の主は二十四時間仕事中やろ。今日はそろそろ休んでワシと飲め』
「君もう一人で始めてるのか?」
一言嫌みを言って、それでも漆田は机の上に空間を作り始めた。
「ファザコン、てどういう意味やと思う?」
ビールをそれぞれ一缶は空け、西園寺が持ちこんできた肴を摘んでのんびりとし始めたころ、男は口を開いた。
白衣を脱いでいない漆田が、目を細める。
「心理学用語について、私に一席ぶって欲しい訳じゃないだろう?」
「それは長ぁなりそうやな」
手酌でコップにビールを注ぎ、西園寺が笑う。今は流石に背広姿ではなかった。
「せやな。父親が不明、幼少期に育ててくれたらしい男の記憶はない、その後保護者になった男には愛情らしきものがかけらも見られへんかった。これで、十代男子がファザコンになる要因があると思うか?」
「結局仕事の話じゃないか。休めって言った癖にさ」
わざとらしく唇を尖らせて言った後に、漆田は、ぎし、と体重を椅子の背にかける。
「父親という関係性に乏しかったから、他人にそういったものを求める、という傾向にも繋がるよ。身近な年上男性に父性を見るわけだね。……懐かれた?」
「待て待て、八歳しか違わへんでワシら」
その年齢差で父性を求められるのは、流石に、何というか、困る。
「それに、多分、ワシは関係ないからなぁ」
苦笑して、コップに唇をつける。
「で、どうなの? 目星はついているのかい?」
しかし続けて尋ねられて、眉を寄せた。
「あんな、まだ始めて二日やで。そんな簡単に挙げられるか」
「だって頑張らないと、そろそろ君、朝食の納豆に耐えきれなくなる時期じゃない」
にやにやと笑いながら揶揄されて、憮然として西園寺は残ったビールを飲み干した。