04
守島咲耶は、憮然としてカウンターに座っていた。目の前には半分ほど減ったアイスコーヒーが置かれている。余談だが二杯目だ。
「どうかしたの、咲耶さん?」
他に客がいないからか、トレイを抱えたウェイトレスが声をかけてくる。彼女は明るめの茶色の髪を一つに束ねていて、染みひとつないエプロンをかけていた。どちらかというと小柄で、少々華奢な印象だ。咲耶へ、純粋に気遣わしげな視線を向けている。
「いや。……真弓さんはさ、人生に夢とかって持ってる?」
投げかけられた質問はかなり唐突で、彼女は小首を傾げた。
「そうねぇ。隆司さんのお嫁さんになることかな」
自分から言っておいて、照れたようにカウンターの中へと戻っていく。ちょっと呆れて、咲耶は黙々とグラスを磨いているマスターへと目を向けた。彼はボタンダウンの白いシャツに、濃い目のブラウンのベストを着ていた。ふっくらと締めたネクタイは、深い臙脂だ。いつものように隙一つない服装に、少しだけ安心する。
「マスターは? 何かある?」
「夢か? ここで店を持っている時点で、判りそうなものだけどね」
それは色々と双方向だ。夢が叶ったのか、夢が破れたのか。
だが咲耶はそれを追求するほど無神経ではない。
真弓が小さく膨れた。
「私のお婿さんになることじゃなかったの?」
「それは私には大それた夢だな」
棚に並べる時にグラスが触れあって、小さく透き通った音を立てる。
咲耶が溜め息をついたのは、別に真弓が嬉しそうな笑みを浮かべていたからではない。
「夢か……」
幼い頃から、将来の夢などは持っていなかった。
家業を継ぐことだけを期待され、そのように育てられていたからだ。
兄たちのように、それに何の疑問も持たずにいたのなら、それはそれで幸せだったのかもしれない。
半ば本気でそう思いかけるが、実際そうはなっていないのだから、仮定に意味はない。
実家を飛び出して、一年半。
実際のところは、生きていくだけで精一杯だった。
最初の一ヶ月ほどは、雇ってくれるところも見つからずに過ぎ、膝を折りそうになったことも度々あった。
やがて身につけた技術を使って少しずつ仕事ができるようになる。
正直、家にいた頃はこの技で金銭を得ることができるなどとは思っていなかった。そう言う意味では、自分は身一つで飛び出した他の家出少年たちの中では恵まれている方だと言える。
今は、裕福だというほどではないが、それなりに余裕を持って生活することができている。
だが、将来の目標は勿論、今夢中になれる何かすら自分は持ってはいないのだ。
苦々しい顔で考えこんでいるうちに、喫茶店の扉が開いた。
反射的に振り向いた真弓の顔が明るくなる。
「あら、四郎さん」
「おぅ、お久しぶりお姫さん」
陽気に返す男の背広とワイシャツは無残に破れている。マスターが眉を寄せた。
「酷いな。私の服でよければ着替えていくか?」
「おおきに。けど、ええわ。『会社』に戻ったら着替えはあるし」
「また喧嘩? 手加減してあげなさいな、咲耶さん」
真弓が呆れたような視線を咲耶に向ける。
「あれは違ぇよ」
憮然としたまま少年が答えた。西園寺が、きょろ、と周囲を見回す。
「そう言えば坊ンは?」
「来てねぇよ。一緒にいたんじゃなかったのか」
「五分ぐらい前に先に行かせたんやけど。階段登るとこまでは見とったから、ここに来た筈なんやけどなぁ」
その答えに、咲耶が小さく喉の奥で笑う。
「やられたな。あいつはその気になれば、簡単に人目から逃れることができる。俺も前にまかれたしな」
得意げに告げるが、よく考えればそれは彼が威張ることではない。
「むぅ。逃亡されたか」
男は呑気にそう呟くと、ぽん、と咲耶の肩に手をかけた。
「ほな、とりあえずお前追いかけぇ」
「何で俺なんだよ! お前の仕事だろ!」
思いのままに怒鳴るが、堪えた様子もない。
「いや令状も取っとらへんし」
「お前そんなもん要らねぇって言ってたじゃねぇか!」
「あかんわー。ちょっと放りすぎとったから拗ねよったでこいつ」
視線をカウンターの中のマスターと真弓に向けて告げる。二人は苦笑を堪えながらこちらを見ていた。
「よし判ったお前今すぐ殺すからちょっと表出ろ」
「えー勘弁してぇな。ワシ、隆司さんの特製エスプレッソ楽しみにしとったのに」
立ち上がった咲耶を巧みに避けて出口へと身体を向けさせる。
「お前……っ」
「ほれ、早ぅ見つけてけぇへんかったら、奢りはなしやで」
「……死ね! 今まで吸った煙草の本数分死ね!」
罵声を残して、咲耶は荒々しい足取りで扉を抜けた。
「なぁに、咲耶さんたら紫月くんとも喧嘩したの?」
「ホンマにしゃあない奴っちゃなぁ」
笑いながら、西園寺は咲耶が座っていた隣の椅子に腰を下ろした。カウンターの上に出した手を、ちらりと見下ろす。
つい数十秒前、咲耶の肩に触れていた、手。
ぎゅ、とそれを互いに握り合わせた。
片方の眉を軽く上げて、カウンターの中に立っていたマスターが口を開く。
「エスプレッソで?」
「頼んます。……紫月くんと咲耶って、よぅ喧嘩するん?」
視線を上げて、にこやかに答える。台詞の後半は真弓に向けて尋ねていた。
「うーん。時々、かな。男の子だもんね、しょうがないわ」
それすらも許容するように微笑みながら、真弓が返す。時々、と西園寺が口の中で呟いた。
弥栄紫月は、路地裏をゆっくりと歩いていた。
本当はきちんと咲耶と顔を合わせ、話をしようと思っていたのだ。
しかし、車を降りた途端に感じた不穏な気配に、予定を変更した。
西園寺の乗っている車は防御に関しては素晴らしいものなのだろうが、外の気配を掴み辛いという欠点があるようだ。
小さく口を開く。
「トゥキ」
紫月の肩の上に、背の高さが三十センチほどの老人が現れた。
「ここに」
「この近くに、ある程度の空間が確保できて多少破壊しても人目を引かない場所はあるか?」
トゥキ・ウルは情報を司る悪魔だ。ここが例え見知らぬ土地であったとしても、簡単に知りたい情報を得ることができるだろう。
老人は僅かに溜め息をついた。
「この街なかで、そのように簡単に廃ビルや廃工場や採石場が見つかるものではありませんよ」
「採石場?」
小首を傾げて尋ねる。
「そうですね……。少し先に、公園があります。人払いをして結界を張れば役には立つでしょう」
疑問には答えられなかったが、先に知りたいことは判ったので紫月は特に気にしなかった。
「判った。それから、倉庫から道具を出してきてカルミアに渡しておいてくれ。公園で彼を呼び出そう」
「御意」
トゥキ・ウルは紫月の指示を全て聞き終えてから、その小さい手で目の前の空間に手慣れた様子で紋様を描いた。ふわり、と浮かびあがった光の球は、昼間であることを考慮してか淡い緑色だった。
それが先導するようにすぅっと先へ進むのを確認して、忠実な管理人はその姿を消した。
その公園は、木立の中を小道が通り、それを辿っていくと敷地のほぼ中央に芝生の植えられた空間がある構成になっていた。
やや迷って、芝生へと足を進める。樹木に被害が出ては、ごまかすのも手間がかかりそうだ。
中央の少し小高くなっている場所に立って、周囲を一瞥する。大方満足して、紫月は短く名前を呼んだ。
「カルミア」
その呟きに反応して、目の前に群青色の肌の上に銀の鎧を纏った戦士が現れる。
「持ってきたか?」
主の問いかけに、一つ頷いて使い魔は掌を開いて見せた。そこには、鈍い金属質の光を放つ、小さな円筒形の物体が幾つかある。
「設置を頼む。足止めできる程度でいい」
もう一度頷いて、彼は姿を消した。
「……家族、か」
ぼんやりと、紫月は今の状況に似つかわしくない言葉を呟いた。
「もしも僕が死んだら、半狂乱で取り縋ってくれるような人がどこかにいるのかな……」
最も身近な数人の顔を思い浮かべる。その中でも情が深そうなのは教団の教主だが、それでも悲しんでくれるのがせいぜいだろう。そこまでの気持ちを要求するなど、無理に決まっている。
ふと気づくと、困ったような気配でカルミアが立っていた。彼は滑らかに地面に膝をつくと、細身の剣を抜き放ち、紫月へと掲げた。
少年が小さく苦笑する。
「ありがとう、カルミア。気持ちは嬉しいよ。でも、お前はちょっと大袈裟だね」
それを聞いて、忠実な使い魔は更に困った気配を増した。
階段を一番下まで下りて、咲耶は周囲を見渡した。勿論、視界に入る範囲に相棒の姿は見えない。
吐息を一つ漏らして、身体を屈める。指先を軽くコンクリートの床につけた。
「榊」
指の周囲から、ぶわ、と黒いもやのようなものが吹き上がる。
「紫月を探せ」
命令が発せられると同時、もやの形状が変化した。まるで浅いところを魚が泳いで行くときに水を切っていくような形で、地面から発せられるもやがある方向へと進んでいく。
その跡を追って、咲耶はのんびりと足を進めた。急ぐ理由はない。さほどは。
ずるり、と結界を何かが通り抜ける感触に、視線を向けた。
結界自体は、全く無関係な一般人を遠ざけるためのものだ。彼らは何となく紫月のいる辺りには意識が向かないようになっている。
だが、術者や所謂『精神生命体』は、何の支障もなく近づいてこられる。
来て貰わなくては、困る。
カルミアがすらりと剣を抜いた。
紫月はその腕に軽く触れる。
「お前は、僕が取りこぼしたものの後始末を頼む。できるだけ残さないつもりだけど、まあ念のためにね」
不安そうに、騎士は主人を見下ろした。
「やってみたいんだよ。僕が、どこまでできるのか」