03
やがて、車は滑らかに路肩へと停車した。
後部座席の二人が、きょろきょろと周囲を見回す。それに、西園寺が声をかけた。
「咲耶。先に上に行って何か飲んでぇ。ワシは、ちょっとここで坊ンと話しとるさかい」
そこは、咲耶の古い友人が経営する喫茶店の前だった。
「は? 何でお前にそこまで指示されないといけないんだよ」
あからさまに不機嫌に、咲耶が返す。
「奢ったるがな。勿論」
「……しょうがねぇな」
小さく呟き、長い黒髪を揺らして彼は車から降りた。隣にいる相棒へ一瞥すら向けようとしない。
再び、車内に沈黙が満ちる。
先にそれに耐えられなくなったのは、紫月だった。
「僕に話があるんじゃなかったんですか」
「ん。まぁな」
苦笑して、西園寺が返す。続けようとしたところに、紫月が呟いた。
「……咲耶は、贅沢だと思います。両親がいて、兄弟がいて、彼らに望まれている。どうして、その期待に応えようとしないのか、僕には判らない」
紫月の顔色は、いつもよりもやや白い。膝の上できつく拳が握られていた。
のんびりと、西園寺が口を開く。
「せやなぁ。坊ンの家族が、もう一人もおらへんのは、確かに坊ンのせいやない。それと同じぐらい、咲耶の家族があんななんは、別に咲耶のせいやないやろ」
「あんな……?」
訝しげに、少年が尋ねる。
「例え話をしよか。男子中学生がおったとする。野球部で、甲子園を目指せる高校に進学したい。彼自身も才能豊かで、成長したらプロにもなれるような実力がある。彼が野球の道に進まへんのは、業界の損失やと言ってもええぐらいの逸材や。せやけど、両親はそれに反対しとる。彼らは、せやな、医者で、息子には自分の跡を継いで欲しい。野球にうつつを抜かすよりも勉強させたいと思っとる」
「嫌みですか?」
自分が主張してきたことを揶揄するような話に、紫月が眉を寄せた。だが、西園寺は小さく笑う。
「例え話や言うたやろ。もう一つのケース。野球部で、甲子園を目指してて、両親は医者になって欲しいと望んどる。前のと違うのは、本人に全く野球の才能がないってことや。プロどころか、スタメンになれるほどの実力もない。あるのは、ただ熱意だけや。ひたすら、野球を続けたい、その情熱だけ。その代わりに頭はええから、両親は何とかして勉強に意識を向けさせたがっとる」
西園寺の意図が判らなくて、紫月は思考を巡らせている。
「もう一つ。野球部で、甲子園を目指してて、才能がない。頭もさほど良くはない。両親は、医者じゃなく、小売りの自営業。八百屋とか魚屋とかそんな感じや。息子に、できるだけええ高校に、更に大学に行って、手堅く大企業に勤めて欲しいて考えとる。……で」
西園寺が肩越しに振り向いた。面白がるような表情を浮かべている。
「この三つのケース、どの親の思惑が正しいて坊ンは思う?」
ざっと状況を整理する。
子供の夢を認めず、その才能を折ろうとする親。
子供の夢が無駄になるよりは、他の長所を伸ばそうとする親。
同様に、子供が堅実に生きる道を提示しようとする親。
どれが正しいのか。
いや。
正確には、『西園寺は、どれを正しいと思わせようとしているのか』、だ。
紫月は迷う。彼は長い間、大人の思惑を読みとり、その意向に従うことに慣れていた。彼の最も尊敬する大人も、最も憎悪する大人も、等しく。
しかし、西園寺はどうにもその『大人の望む答え』を求めているとは思えない人物だ。
更に、控え目に言ってもこの二日で色々なことがありすぎた。紫月の判断力がやや鈍っていても不思議はない。
「……判りません」
低く呟く。特に意外だったという素振りも見せず、西園寺は頷いた。
「簡単に言うたら、全部間違っとる。子供に才能があろうが、頭がよかろうが、そのどっちでもなかろうが。継がせたがっている仕事が高収入だろうが、大企業に就職させたがってようが、そんなもんは全然関係あらへん」
紫月が飲みこめていないのを察して、男は更に口を開いた。
「そうやな。虐待、って言葉は聞いたことあるか?」
「はい」
「最近はニュースとかでよう出てきとるからなぁ。困ったもんや。で、虐待には、幾らか種類がある。暴力を振るったり、食事を与えへんかったり、言葉や態度で脅したり、世話をせぇへんかったり、子供には相応しくない性的な状況に陥らせたり。まあ、虐待って状況は大体が子供には相応しくないけどな」
僅かに眉を寄せて、西園寺がつけ加える。
紫月が、きつく唇を引き結んだ。
「こういう、悪意若しくは無関心による虐待の他に、好意による虐待も存在する。親が、子供のためを思ってする行動が、却って子供の健全な育成を邪魔する結果になってまう。……過干渉、や」
「過干渉……」
「先刻の例で言えば、全部のケースで、親が自分の意見を曲げようとしてへん。子供の意思を一切考慮してへんかった。子供の人生を、自分の思うようにコントロールしようとしている。日本ではまだあんまり問題視されてへんけど、これも虐待の一種や。……咲耶の場合は、お国のためやなんて、例え話よりもスケールがでかいさかい、あんまりぴんとけぇへんかもしれん。けど、咲耶が、子供が、自分の思うように生きたいと思ってるなら、本来は親兄弟がそれを否定するべきやないんや」
「自分の、思うように?」
小さく繰り返す。
「なんや。不満そうやな」
「いえ、そういう訳では」
慌てて紫月が否定する。
「まあ、坊ンにはすぐに納得できることやないかもしれへんけど。ワシから見たら、咲耶も守島の家も、今のままで充分安定しとるからなぁ」
「西園寺さんは、どうなんですか?」
突然尋ねられた言葉に、男はきょとんと見返した。
「ワシか?」
「西園寺さんは、どういう風だったのかな、って。あの、犬神憑きというのは、技量よりもむしろ血筋が重要だと本で読みました。なのに警察に就職するっていうことに、ご家族から反対とかされなかったのかな、と思って」
小さく唸って、西園寺は眉を寄せた。
「変なことを訊いて、すいません」
少し不安になって、謝る。ひらり、と西園寺は片手を振った。
「ああいや、訊かれて困ることやない。せやな、うちはどっちかっていうと過干渉て言うより不干渉やった。大学出るまでの面倒はみたるから、後は好きにせぇ、みたいな感じや。まあうちはもともと分家やし、お父ンは普通の会社員やからな。そもそも、西園寺は守島ほど大した家やない。格が違う」
「かく……?」
呟いたが、それに対して男はすぐに口を開かない。
ふいに思い出したのは、清孝の西園寺に対する態度だ。
いや、むしろ西園寺に対していない態度、か。
おそらくはこの男の存在を故意に無視しようとし、しかしあからさまな嘲りが透けて見えた、あの表情。
それは、太一郎が紫月の使い魔に対して取るものとよく似ていた。尤も、彼の場合は嘲りすら見せないほどに徹底して認識していないのだが。
弟子にあたる者の更に使い魔、というのであれば、確かに格が違うのだろう。だが、清孝と西園寺は、明らかに同じ人間であるのに。
ぎし、と座席が軋んだ。身体を捻り、西園寺が今までよりもまっすぐに紫月に向かっている。
「ついでに、一つ忠告しとくわ。守島の家を、あまり甘く見ぃひん方がええ」
その言葉が意外で、数度瞬く。
「甘く……とか、そんなことは思ってないですけど」
「言葉が悪いかな。礼儀正しゅうて、寛容で、論理的。そんな印象に捕らわれたらあかん。守島の家が、日本におる全ての陰陽師を統べて、ほぼ全ての他流派に睨みを効かせられるんは、人徳があって慕われとるからやない。清孝さんはまだお若いさかい、さほど老獪でもないけど、例えば当主にしてみたら、坊ンなんぞをあしらうんは赤子の手を捻るよりも簡単や」
「そう……なんですか?」
戸惑いがちに、尋ねる。
「咲耶が今まで何も言わへんかったとしたら、自分ちのえげつなさをよぅ知っとったからやろ。それに、一応身内のことをそう悪く言いたなかったからやろうな。尤も、タイミングはともかくとして、この先ずっと坊ンに接触せぇへんとは考えられへんから、ちょっと咲耶も迂闊やけど」
タイミング、という単語の意味がよく判らない。
無言の紫月を気にもしないように、体勢を戻し、西園寺が続けた。
「にしても、清孝さんとはいえ、あんだけ真っ向から向かって行きよるとか、咲耶はホンマ相変わらずや」
楽しげに、喉の奥で小さく笑う。
今まで彼はずっと穏やかだったが、今度の笑みにはやや翳りが伺える。
二人は、しばらくの間互いの思いに沈んだ。
大人の思惑を読みとり、その意向に従うこと。
落ち着いて思い返してみれば、自分のその習慣が、清孝に対しても従うように誘導されていなかったとは言い切れない。
紫月は、膝の上に置かれた手を組み直した。
「……正直、まだよく判りません。貴方の言うことも、咲耶の言いたいことも。でも、多分、少なくとも、僕は、……そこまで踏みこむには、少し無遠慮だったのだと思います」
やがて、考えながら告げた言葉に、西園寺がまた苦笑する。
「坊ンは生真面目やなぁ」
そして、ドアのロックが開いた。
「ワシはもう少ししてから行くさかい、先に行っとき。あんまり長いこと放っとくと、咲耶は酷く意固地になりよるさかいな」
頷いて、車から降りる。少年が喫茶店へと通じる階段を昇り始めるのを確認しながら、西園寺は胸ポケットから煙草を取り出した。
「憎ぅて憎ぅて憎ぅて堪らんかった養父、か……。怨恨か遺産目当てかどっちやろなぁ」