01
目的地まで、歩いて五分。
その程度の距離を敢えて残して、西園寺は車を停めた。
大きく一度深呼吸して、覚悟を決める。
「……行こか」
「待て」
むっつりと咲耶に制されて、開けかけたドアに頭をぶつける。
「何やねん、ボケるにしてもタイミング良すぎやろ」
「誰がそんなタイミング見計らうか。お前じゃあるまいし」
咲耶が助手席から冷たい視線を向ける。
「お前、うちを出る前に言ってたの、あれ、どういう意味だ」
「何か言うたか?」
さらりと流そうとするが、相手はそれを許さない。
「言っただろうが! あいつらが、お前のところにやってくると思ってた、って」
返す言葉が見つからなくて、顔を逸らす。
「……お前、あいつらを一人で迎え討つつもりだったのか? 昨日の太一郎ん時みたいに」
「いやまあ一人やないで。本部もある程度バックアップしてくれる予定やったし」
ごまかすように告げた言葉に、溜め息をついた。
「莫迦だろう、お前」
「莫迦とか言うなや。傷つくやんか」
西園寺がわざとらしく気弱に言い、片手を胸に当てて視線を遠くへ向けた。拳をごつ、とそのこめかみに当てると、咲耶が腰を浮かせる。
「行くか」
「おぅ」
高い塀に沿って、歩く。
一歩前を進んでいた咲耶が口を開いた。
「そう言えば、お前、ここに来たのは何回だ?」
「一回だけや。お前と会うた、新年のご機嫌伺いの時」
「お決まりのやつか。……じゃあ、知らないな」
肩越しに振り返る。苦々しい表情で連れに告げた。
「銃は絶対に使うな。ていうか、攻撃するな。ひたすら避けることだけに専念しろ」
「何言うてるんや。ワシかて常識ぐらいはあるで。大体、攻撃とか考えてもなかったわ」
「そういう問題じゃない。もしも犬神を出現させでもしたら、一瞬で消滅させられるぜ。お前のは、俺のと違って替えが効かないんだからな」
犬神は、つまるところ死霊である。それには明確に個の区別がある。もしも滅してしまえば、その存在は完全に失われてしまう。
対して咲耶が扱う式神は、その場に存在する精霊を集め、型に嵌め、使役するものだ。術師個人に起因する個性はあるが、もしも一度消滅しても同じものを再度呼び出すことは容易い。
「ん? なに? 心配してくれとるん?」
にやにやと笑いながら放たれた言葉に、あからさまに嫌そうな顔をする。
「莫迦か。単純に、後味が悪いだけだよ」
そう言って、前に向き直る。
漆喰で白く塗られた塀がようやく途切れ、木製の格子状に組まれた門扉が現れた。
門柱には、白木の表札が掛けられている。
『守島』
墨跡鮮やかなそれを見上げて、二人は一呼吸置いた。
「行くぞ」
ぎゅ、と黒革の手袋を締め直し、咲耶が門扉に手を伸ばす。
指先がそれに触れた瞬間、凄まじい雷光が迸った。
「何やぁ!?」
緊張はしているものの、緊迫はしていなかった西園寺が驚愕の叫びを上げる。
何かが焦げるような臭いを発しながら、守島は断固として桟を掴み、勢いよく引き開けた。
発光自体は咲耶の手が離れた瞬間に収まったが、代わりに門の奥からは押し潰されそうなほどの圧力が感じられる。
「……何なんや」
「あー。やっぱり知らなかったか。うちは、招かれざる者が来た場合、大体こうだ。修行がてら、門弟たちが全力で潰しにかかってくる」
ま、滅多にないけど、と呟く少年を、まじまじと見下ろす。流石に、こんな事態は想定していなかった。
「いやちょお待ってや。ワシだけやったらまだそれも判るけど、お前がここにおるやんか」
「前もって連絡入れてないんだから、俺だって不法侵入だよ。さ、とっとと押し通るぞ」
しれっと告げて、薄く煙を上げる右手を軽く振る。
「いやいやいや、守島の本家の門弟って、一体どれぐらいおると」
「うるせぇなぁ。ここまで来てるんだから、腹括れよ」
眉を寄せて、咲耶は門の内側へ一歩踏みこんだ。
瞬間、ひょい、と首を左へ曲げる。正面から長い針のようなものが、耳を掠めるように飛来した。
門扉を抜けることなく消え失せたそれを目の当たりにして、西園寺が喉を鳴らす。
「ああもう、行ったるわ!」
踵を叩きつけるようにして、前進する。即座に半身を捻り、放たれた二手目をかわした。
「覚えがいいじゃねぇか」
先行する少年が皮肉げに呟くのを睨めつける。
「いちいちやかましいわ。そもそもこれはワシの仕事や!」
「上等だ」
そして二人は清められた白い砂利の上を並んで進み始めた。十数メートル先で曲がり、松の影へと抜けていく道の先は全く伺い知れない。
僅かに圧迫感を感じて、紫月は庭へと視線を向けた。
築山には、色づいた紅葉が華やかさを添えている。
「どうかされましたか?」
静かな声が掛けられて、慌てて視線を戻した。
「いえ、別に」
ごまかすような返事に、目の前に座る男は、再度問い返そうとはしなかった。
咲耶の兄だと言い、清孝と名乗った男は、どう見ても成人していた。おそらくは二十代後半から三十代前半。咲耶が今年十七歳の筈だから、かなり歳が離れている。
鈍い濃い灰色の地に、藍の模様が入っている着物を身につけ、細めの銀縁の眼鏡をかけている。その服装は日常的なものなのだろう、違和感は全く感じない。表情は顔を合わせてからずっと生真面目で、少しばかり神経質そうだ。
そのような相手が、自分に対して丁寧な物腰で接してくるのに、紫月は僅かに居心地の悪さを感じていた。
だん、と咲耶が強く片足を踏みしめた。靴底と地面の間で、何かが弾けるような音を立てる。
西園寺が僅かに身を屈めた。二人の頭上を掠め、空気が鋭く鳴る。
どちらともなく、小さく吐息を漏らす。男の頬に汗が流れているのを目にして、咲耶がにやりと笑みを浮かべた。
「どうした? そろそろキツいか?」
「あ? 特殊公務員なめんな! こんなもん、通常訓練よりちょっとばかり厳しいだけや!」
「厳しいのかよ」
呆れた口調で呟く。
そして、滑らかに、西園寺の胸の前へと咲耶が腕を伸ばす。革の手袋に包まれた掌に何かが衝突し、奇妙な声を上げて煙と化した。
「……咲耶」
眉を寄せて西園寺が呼ぶ。
「何だよ」
「お前、何ワシのこと庇っとんねん」
「うるせぇよ。お前を庇ってんじゃねぇ。お前が手を出したらまずいから、その前に攻撃されないようにしてんだよ」
「手は出さへんて。ちょっとは信用せぇ」
苛々と反論されるが、咲耶は首を振った。
「もう少し回りのことを考えろ。もしもお前がうちに面と向かって刃向かった場合、西園寺の一族はどうなる」
ぎし、と奥歯が軋む。
男の大きな手が、強引に咲耶の肩を掴んだ。ぐい、とそれを引き、力任せに前へと出ていく。
瞬間、鈍い音と共に、西園寺の上半身が揺れた。
「四郎!?」
咲耶が驚愕の声を上げる。
「……なめんな言うたやろ。覚悟なんか、七年前からとっくにできとるわ」
何かしらの攻撃が直撃したのだろう、黒の上着とワイシャツの腹部が無惨に破れ、その下から黒い、一見防弾チョッキのような素材が覗いている。
「お前……それ」
「ワシが辞令受けた時からずっと、何の防御もなく動き回っとるとか思っとったんか? この仕事の危険性は、本部が一番よぅ判っとる」
言い捨てて、再度足を踏み出す。
「そもそも、一市民に庇って貰うなんて、一切ありえへんってことぐらいお前も判っとけ」
小さく溜め息をついて、咲耶が続く。
「未だにお前のことがよく判んねぇよ」
「退屈せぇへんやろ?」
にやりと笑って、横合いから突っこんできた式神を腕を一振りして打ち払った。
「それに、いくらお前んちの関係者やからって、お前に関するワシの権利を横取りされる訳にはいかへんからなぁ」
「ちょっと待て! お前に、俺に関する何の権利があるってんだよ!」
呑気に続けられた言葉に、咲耶は怒声を上げた。