05
翌日、紫月は聖エイストロム教団へと足を向けた。
慣れた手際で通用門から中へ入る。元からあまり使われていない門だ。今日も、誰に会うこともなく前庭へと抜けられた。
礼拝堂跡地は、焼け落ちた瓦礫こそ撤去されていたが、未だ再建の目処は立っていない。円錐型の赤いコーンと黄色と黒が捩り合わされたロープでぐるりと周囲を囲み、立ち入り禁止にされている。
その内側、露わになった地下室を見下ろすように、黒服の男が一人佇んでいた。
「……西園寺さん」
驚いた風でもなく振り向いた男は、咥えていた煙草を手に移し、にやりと笑んだ。
「よぅ、坊ン。奇遇やな」
昨日会った時は、ジョギングに行こうとしていたままの格好だった。今日は、制服を思わせる白いシャツに紺のスラックスだ。昼間は、上着を着るほど寒くもない。
以前に住んでいた教団の顔見知りに会った時に、あまりだらしない格好を見せられない、という面はある。だが、主に西園寺へ向けての服装でもあった。おそらく、あまり効果はなかったのだろうが。
実際、声をかけたものの、どう続ければいいのか判らず、紫月は小さく首を振った。
「貴方に、会えるかと思って」
「へぇ」
軽く返して、西園寺は身体ごと少年へと向き直った。
「何や、思い出したことでもあるんか?」
「いえ、杉野のことではなくて」
「ん?」
別に失望した様子でもなく、促してくる。だが、紫月はそのまましばらく沈黙した。
無理にそれを促そうともせずに、西園寺は視線をふらりと横へ向ける。
「せやな……。下に降りてみるか?」
「下……って、礼拝堂ですか?」
戸惑って、彼との間を遮るロープへ視線を向ける。
「一応、責任者の了解は取ってある。自分、ここに住んどったんやろ? 色々詳しいやろうから、案内してくれや」
ふらりと先へ足を進めた。慌ててロープを跨ぎ、後へ続く。
「次郎!」
呼び声に、灌木の奥から銀色の犬神が走り出てきた。西園寺の横について、尻尾を振る。
「今日はその子だけなんですか?」
周囲を見回しても黒い毛並みの犬神の姿を見つけられず、尋ねる。
「ああ。九十郎は、勢いと力は強いんやけど、調査とかそういう細かい仕事はあんまり得意やないからなぁ。おかしいやろ。兄弟やのに」
「兄弟なんですか」
二匹の毛色は全く違う。ちょっと意外で、紫月は呟いた。
「似てへんよなぁ。けど、こいつらは生まれた直後からワシが大事に大事に育てたんやから、間違いないで。大事に、愛情こめて育ててやらんと、奴らはワシを呪ってくれへん」
苦笑して、西園寺は次郎五郎の耳の後ろを軽く掻いてやった。嬉しそうに目を細めて、犬神は頭を持ち上げる。
その姿は、信頼しあう犬と飼い主にしか見えない。
だがこの男は、その信頼してくる犬を、確かに極限まで苦しめてから殺したのだ。
別にその行為を咎めたい訳ではない。紫月が使う西洋魔術の中には、もっと凄まじいものだってある。
ただ、僅かな違和感が、どうしても拭えない。
意識して、視線を逸らせた。
ここへやってきたのは、杉野が死んだ日以来だ。
礼拝堂の床は可動式だったが、炎と放水に晒された結果、今は半ば開いたところで停止している。ぽっかりと開いた空間を横切る鉄骨に、僅かに錆が見て取れた。
西園寺はぐるりと礼拝堂を回りこみ、建物の奥にあった階段へと向かっていた。一階の床から下はコンクリート製で、その躯体はさほど損傷を受けていない。階段の隅に、庭から吹きこんできたのであろう砂や木の葉が溜まっている。
「部屋の中は暗いと思いますよ」
礼拝堂の地下は天井が半ば空いているからまだましだが、居室部分は完全に地下室だ。今は電気も通っていないだろう。
「心配いらん。明かりは持っとる」
胸ポケットから、やや太めのペンのようなものを取り出した。かちり、とどこかを捩ると同時、その先端から光が迸る。それを確認したところで、もう一度操作して光を消した。
「でも近くにおった方がええな。次郎、先に行け」
身軽に、次郎五郎は階段を駆け下りていった。西園寺は紫月が隣に並ぶまで足を止めている。
僅かに身体を緊張させて、紫月が西園寺へ近づいた。こちらは全く気負う様子もなく、男は階段へと足を下ろす。
地下一階は、殆ど全てを書庫が占めていた。
今も、暗い室内に書棚が林立している。が、その中身は全て空だった。
「本はどないしたん? 燃えたって感じでもないけど」
室内の家具や壁紙などは、火事の被害を全く受けていない。コンクリートの耐火性と、書庫の管理人の努力の成果だ。
「僕が受け継ぎました。今住んでいるマンションに大体は置いてあります」
「ふぅん。今度、見せてもろてええ?」
「ええ、どうぞ」
捜査令状など要求するだけ無駄なのだろう。断る理由もなく、紫月は快く承諾した。
彼が今書庫に使っている部屋は、ここよりも遙かに狭い。入りきらなかった本や何に使うのか予想もできない物体は、管理人である使い魔が所持する異界に保管されていて、必要な時に現世へ出してきている。西園寺に見られては拙いものがあればそちらに移せばいいだろうと、表情一つ変えずに紫月はしたたかなことを考えていた。
それでも、何もない部屋を西園寺は熱心に見て回っていた。地下礼拝堂へ降りていく階段に続く扉の付近は、次郎五郎にも嗅ぎ回らせている。
「坊ンの部屋は?」
少し離れてそれを見ていた少年に問いかける。
「下の階です。でも、何もないですよ」
「……ホンマに何もないな……」
以前紫月が寝起きしていた部屋に足を踏み入れて、西園寺は呆れたような声を上げた。
ここは、火事の被害があった訳ではない。
その前日に、彼は家出を目論んで家具を全て移動させるか、処分しきってたのだ。
まあ家出自体は失敗してしまった訳だが。
何も残っていないせいだろうか、あまり思い出すこともない。
ここには、楽しい記憶はさほどない。思い出さないというのはむしろいいことなのだろう、と小さく息を落としながら考える。
注意深く、西園寺がその姿を見守っていた。
地下礼拝堂の扉を開く。頭上から陽光が降ってきて、暗がりに慣れた目を眇めた。
屋内と違って、こちらは随分と荒れている。床に貼られていたフローリング材はあちこちが焼け焦げているし、祭壇は横転してしまっている。枯れ葉や砂に混じって、明らかにごみと判る物体も吹きだまっていた。
「ここ、か」
小さく呟いて、西園寺がぐるりと全体を見回す。
「全然雰囲気が違うものですね」
紫月が感想を漏らした。
「どんな感じやったん?」
世間話程度の積極性もなく、西園寺は尋ねる。おそらくは表向きだけなのだろうが、しかしその興味の薄さに救われて、紫月も軽く口を開いた。
「昼間に床を開くことはなかったですから、太陽の光が入ることがまずありませんでした。灯りも最低限で、上の窓から月の光が入ってくることがあるくらいでしたね。でも天井が高くなってしまいますから、余計に闇が深くて、全てがそれに紛れてしまうようでした」
苦痛も、屈辱も、侮蔑も、諦観も、全てが。
「全て、か」
ふらりと西園寺は奥へと足を進めた。一段高くなっている場所へ上がり、こちらへ向き直る。
次郎五郎は鼻面を床へと向けて、熱心に動き回っていた。
「……何も判らないと思いますよ。ここは既に一度、炎と水で浄化されました。何も残っていないでしょう」
何より、『あの男』が残していくことを許す訳がない。
紫月の苦痛も、屈辱も、侮蔑も、諦観も、全てを。
「そう言われても、まあワシも仕事やからなぁ」
のんびりとそう答えられて、僅かに笑みを浮かべた。
「坊ンは、ここで、杉野さんの手で何が行われとったか、知っとるんやろ?」
だが、その言葉に笑みは凍りつく。
生前、杉野がやっていたこと。
それは、不特定多数の人間からの依頼で、多種多様の呪いを振りまいていたこと、だ。
「……貴方は、何をどうやって調べたんですか?」
硬い声で尋ねると、西園寺は無造作に肩を竦めた。
「杉野さんの死に方は、普通に見ても不審死や。関係者から話を聞いとったら、そのうち色々と漏れてきたからな。取り巻き連中も、カリスマが死んでしもたら、保身に走るしかないもんや」
杉野の所業の具体的なところについては、二人ともが明言を避け、相手を探り合っている。
「……杉野のしたことは、貴方が裁くに値すると思いますか?」
「んー。どっちにしろ亡くなっとるからなぁ。被疑者死亡やと、どうしようもないわ」
「もしも」
紫月の声が、更に硬さを増す。
「もしも、杉野が生きていたら。生きていて、貴方が捜査をしていて、それで」
意味のない、仮定だ。
しかも、下手をすると、自分が共犯として裁かれるかもしれない。
その懸念があったことは、確かだ。
しかし。
「せやなぁ。もし、そういう状況やったら、……裁くことになるんかもしれんな」
おそらく、かなりの配慮が混じった言葉が発せられる。
強く、紫月が唇を引き結んだ。
あの養父の行為が、法によって罰せられることであると知っていれば。
自分は何年にも渡って希望の見えない闇に身を置き、憎悪と殺意に身を焦がすことはなかったかもしれない。
「坊ン?」
気配が変わったのを気づいたか、西園寺が声をかける。
「……貴方に、もっと早く会えていたらよかった」
低く零した声が、僅かに震える。
紫月の視界には入っていなかったが、西園寺は小さく眉を寄せた。
軽い足取りで近づいてきた次郎五郎が、その長い毛並みを紫月の脚にすり寄せる。
「ん、まあ、あれや。昨日も言うたけど、ワシは一応咲耶一筋やからな」
冗談めかして告げられた言葉に、僅かに苦笑する。
「貴方の言うことは、どこまで本気なんですか」
「酷い言われ方やな。仕事のことも咲耶のことも、ワシは全部本気やで」
含みのある笑みを向けられて、紫月は沈黙した。
銀色の犬神が、小首を傾げて主人を見つめている。
とん、と西園寺は壇から降りてきた。
「そろそろ場所変えよか」