悪魔之哄笑
少年の耳に聴こえてきたのは、まずこんな唄だった。
「新シイ天ト新シイ地。最初ノ天ト地ハ去ッタ」
それは聖歌。ヨハネの黙示録。ただの聖歌であったのならばそれまで、しかし彼にとっての問題は唄っている人物だ。それは彼の憎んで止まない、自らの目の前で仲間を虐殺した怨敵。故に少年は激情に呑まれるほかなかった。まるでそれが少年にとっての『当たり前』なのだと言わんばかりに。
何だ、やめろ。何だそれは。今すぐその醜悪な音を垂れ流す口を閉じろ。うるさいうるさい黙れ黙れ。お前は悪魔だ、外道だ天狗だ人ではない。僕達の日常を壊しておきながら、救世主を騙るつもりかふざけるな!
世界は血に塗れていた。蒸せ返るようなら人間の臭いの中で、其処彼処には千切れた臓物、最早誰のものかも分からぬ程に潰された頭や身体が散漫している。
ここは流血の園庭。邪悪の園。それら凄惨極まりない状況を創り出したのは、紛れもなくこの中心で声高らかに黙示録を唄い上げる悪魔。これこそが常識であると言わんばかりに、一切血に濡れずに不敵な笑みを浮かべている少年の仇敵。
悪魔の唄う聖歌を背後に、少年の激情は留まることを知らない。転がりだした石が終わりに向けて加速を繰り返すが如く、鋼が海の底へ底へと沈んで行くが如く、男に釣られてより情念の炎は燃え上がっていく。
それこそ、自らを御伽噺か何かの英雄なのだと錯覚するほどには。
「神ガ人ト共ニ住ミ、涙ヲ拭ワレル、死モナク、悲シミモナイ」
無論、そんなことを歯牙にも掛けない悪魔は依然として唄をやめるはずもない。
周囲に花弁のように散り乱れた数多の臓物と肉体とぬらりと気味悪く光を反射する鮮血が、少年の仲間が身を挺し盾となり壁となり守護をしたことが伺えるだろう。
(少なくとも、少年はそう信じ込んでいる)
しかし少年は今、その身を焦がすほどの激情と憤怒の他に、何故だろうか? 疑問を抱いているのだ。一体何故、ああ本当にーー
何故自分は今、この鮮血と肉片を双眸に焼き付けて尚『美しい』と思えるのだろうか。と。
「ッーーーーー!!?」
しかしその疑問は抱いてはならない。皮肉のように聖歌を唄う悪魔と違って、己は素晴らしい正義を謳うもの。正義の味方が、仲間の絞り出した血液の一滴残らず、臓物の一欠片に至るまでを『美しい』などと思ってはいけない。
そのような隙、悪魔に付け入れられてしまう。
故にかぶりを振って否定する。否、否否否否断じて否。そんなことはありえない違う違うぞ絶対に違う。己は此の悍ましいほどの血の海を、散らばる肉片を見て美しいなどと思いはしない!!
平常に傾倒しろ、己を見失うなと心に刻め。頭は冷えたか? 激情の海から浮上したか? ならば敵を見据えて覚悟を込めろ。殺すべきものは、屠るべきものは、骸に変えるべきものは誰だ。
「其処ハイノチノ書ニ名ノ書カレテイル者ダケガ入ルコトガ出来ル」
問うまでもない。決まっている。そんなもの火を見るよりも明らかだ。そう、少なくとも少年の中では。此の場において己が最も滅殺すべきは、愛すべき仲間を奪い、嘲弄する此の悪魔以外に他はないのだから。
(それが既に男の術中だとも知らずに、少年は今も尚、己にとって都合の良い夢を見ようとしている。)
我らを舐めるなよ。滅す、滅す、滅ぼしてやる。そう願う少年の手に顕現するのは、轟々と燃え盛る真紅の剣。それこそ少年の心技によって召喚された、不浄を焦がし、悪性を滅ぼす《神ノ焔》の具現。悪は必ず滅び去る。故に此奴を斃し、幸せな結末を手にするのだと、悪魔へ向かって疾駆するーーーッ!!
「ーーーおおおォォォォオオオオオッッ!!!」
首を斬り、胴を斬り、脚を斬り、斬るだけでは飽き足らずその灰さえも残すまいと《神ノ焔》を走らせる。一振りでありがら都合八閃の焔を纏った斬撃。それを可能としたのは、先ほど剣を顕現したと同じ少年の心技。悪性への絶対性を有する剣を具現させ、物理の法則さえもを無視する。まさに主役。男は悪役という定めに則り、為すすべもなく消滅するーーー
「……くはっ、くはは、くはははははははあはははははははははッ!! 愉快痛快、いや寧ろ快感かぁアッ!? 効かないんだよ、痒くもねェわ。正義を謳う? 幸せな結末? こいつに殺られた仲間の為にも、俺がこいつを殺らねばならない? 何を勘違いしてんだよバーーーーーーーーーーカ!! きひひははははは!!」
筈だった。
無傷、無傷、絶望的なほどに無傷!! 男の身には切り裂かれたような跡も、また業火によって灼かれたような跡さえも存在しない。まるで少年の剣も轟々と燃え盛る焔も『そんなものはじめからなかったかのように』。ただ其処にあったのは、ゆらゆらと漂う陽炎のような影。
何故、何故、一体何故? 当たり前だ。少年の心技が絶対性を発揮するのは紛れもない悪役のみ。男は悪魔のようでありながら本来は悪役などではないのだから。だいたい悪魔が確実に悪役などと、一体全体誰が決めたのだ。他の国ならばいざ知らず、ここは日本だ、そんな法理は通用しない。
だか、相手の攻撃が一通り終わったら、そこから反撃が始まるのだという定石ならば、充分に通用する。
故にここからは男の番。悪魔を被るのならば悪魔らしく、言葉と態度で存分に貶そうではないか。ああ、愉しくなってきたぞ。
「だいたい仲間とかァ、正義とかァ、使命感とかじゃなくてェ、お前はもっとォ、枡掻きみたいな? そういう慰みものみたいな感覚でェ、正義正義喘いでいるのではと見とりまァァァァアアァァァァッす。正義狂いの腐れ淫乱猿が、長い棒を持って振り回しては喜んでるーーーきっはは。
そんな淫獣は精々、そこら辺の淫売の屍体にでも慰めてもらってるのがお似合いなんだよォォオ!! 正義ィ、正義ィ、て言うか性戯ィ? だいしゅきなのぉぉぉおおおおってなァ!! うわはははははははははは!!!」
貶す。汚す。そして暴く。相手が最も大切とし、愛し、信念としているものを徹底的に否定し侮辱し泥を塗る。否、それは最早泥など生易しいものではなく糞尿の類。溢れ流れる罵詈雑言は粘性の汚物となり、文字通り少年の心も体も狂わせる。それこそ愉悦、これこそ快楽。男が悪魔に徹する限り、少年のあらゆる感情は己の為の供物にしかならない。
そして不図、ここまで散々大声で捲し立てて飾り立てた男が、不意に少年へと近づき、耳許にて一言。それは酷く深く、暗く、何よりも悪意に満ちる声で囁いた。
「自分が英雄などにはなれないことくらい、自分が一番分かってるんじゃないのか?
自分に仲間など存在しないことくらい、自分が一番わかってるんじゃないのか?
どうなんだ? ■■■■■」
■■■■■。それはなんと言ったのか、それは当人達のみ知り得ること。だが然し、その一言が最後まで残っていた少年の理性を吹き飛ばしたのは事実であった。
「■■■■■!! ■■■■■■■■■ーーーー!!!」
少年は言語を棄てて咆哮する。そうして繰り出された至近に立つ男へと繰り出された剣戟さえも、また悪魔への供物としかならなかった。
愚か、実に愚かである。実態がここに在らず、またここが見知った現実ではないということにさえ気付かず必死の形相を剥き出しにし、ただ衝動のままに憎き相手と定められた幻影に牙を立てて食い千切ろうとするも、それさえ叶わず暴れ狂う。愚かでありながら、堪らなく愛おしいーーー
「神ノ子羊ノ玉座カライノチノ水ノ川ガ流レル」
そうしてこの段階まで来たのならば、既に意思を砕く必要は無くなっている。あとはこの汚物と侮蔑に塗れた幻影の中で、あの憐れな少年がその心に宿した心技を、宿った心技にとって『相応しくなくなるまで』留めておけばいいだけ。
それだけで此度の仕事は完遂する。そろそろ煩い相棒から連絡が入る頃だ。男は静かにそう思いながら己の悪魔としての幻影に込めていた意思を解く。
あとは幻影が勝手に少年の姿を模倣してやってくれる。まともな精神であったのならば万が一にも抜け出せられたかもしれないが、あの童は出会った元よりまともな精神など持ち合わせてはいなかった。
なにせ「屍体性愛者」。並びに「臓器と血液に対する偏執的な嗜好」。そこに加えて「英雄という概念への強烈な陶酔」「誇大しがちな妄想癖」「無意識の記憶改竄」あたりが元来のものとして在ったから堪ったもんじゃない。
英雄だの正義の味方だのと思考していたみたいだが、アレこそその真逆に位置しているものだ。嬲り、犯し、辱め、殺した屍体で自分だけの現実を育み、否定されたら英雄に成り切って人を殺す。つまりは死を自慰の玩具にするのだ。アレにとって仲間も、友も、より自分が気持ち良くなるための媚薬に過ぎなかったし、そもそもアレが仲間だ友だと囀っていたのはアレ自身がその手で殺して犯して解した男女含めた屍体だった。
アレは英雄でもなければ正義の味方でも、ましてや主役なんかでもない。アレはただの、心技という異能を宿してしまった兇悪な連続殺人鬼。真実なそれ以上でもそれ以下でもないのである。
男ーーー道樫札にとって、今回の出来事は仕事であった。人が黒くどろどろとした感情に侵されながら沈み堕ちてゆく様こそ、人としての真価が発揮される時だと信じている男は今回も今回とて、立派に愉快に職務を全うしたというわけだった。
今でもあの少年の耳には張り付いていて離れないのだろう。
少年自身が酔っている、英雄の哄笑がーーーー。