「余の帝国を返してもらおうか」〜傀儡だった兄と辺境の弟、腐敗貴族をざまぁ一掃する〜
帝国歴304年6月20日。
帝都ラーナの朝は、いつものように重い霧とともに明けた。 だが、その霧の向こうから現れたのは、ただの貢納部隊ではなかった。
「アンチアルマ総督イリアード殿下より、皇帝陛下への貢納の品々にございます。古代遺跡より発掘された、至高の宝石と金貨を積んでおります」
白亜宮の西門を守る近衛兵の前に、数十台もの重厚な馬車が到着する。 普段なら厳重な臨検が行われるはずだった。けれど、門を預かる近衛将校はすでにイリアードの黄金で買収済みだ。彼は形式的な確認だけ済ませると、あっさりと門を大きく開け放った。
「通せ。陛下がお待ちだ」
馬車が白亜宮の広大な中庭へと滑り込んだ、その瞬間。 荷台の覆いが、一斉に撥ね上げられた。
現れたのは、きらびやかな財宝などではない。 黒い夜襲装束に身を包み、古代の鋭利な武具を構えた、三千の精鋭たちだった。
「いくぞ。腐った巨木を、根元から叩き切る!」
隊列の先頭で剣を抜いたのは、イリアード親王。そして彼の傍らで、双短剣を構えるセシリア。 彼らは音もなく宮殿の内部へと突入し、事前に買収されていた近衛軍の手引きによって、シュタインベルク家の息がかかった守備兵をまたたく間に無力化していった。
◇
その頃、中央宮殿『白亜宮』の大広間では、定例の朝議が始まろうとしていた。
玉座に座る皇帝アラリックは、いつもと変わらぬ、生気のない「傀儡の顔」で重臣たちを見下ろしている。
「司徒リヒャルト。尚書省より提出された、新たな増税の件だが……」
アラリックが声を漏らした、まさにその時だった。
バァァァン!!
大広間の重厚な扉が、凄まじい轟音とともに内側へと叩き割られた。
「な、何事だ!?」
尚書令ジョヴァンニ・フォン・シュタインベルクが、傲慢な顔を驚愕に歪ませて振り返る。
大理石の床を踏み鳴らし、血に濡れた剣を手に突入してきたのは、アンチアルマ総督イリアード親王。 その後ろには精鋭たちの壁が幾重にも続き、大広間のすべての退路を瞬く間に封鎖していく。
「イリアード……! 貴様、地方の総督の分際で、兵を率いて朝議の場を汚すか! これは明白な叛逆であるぞ!」
ジョヴァンニが腰の飾剣を抜き、怒号を響かせる。 しかし、イリアードは冷ややかにあざ笑った。
「叛逆? 勘違いするな、ジョヴァンニ。私は、皇帝陛下の『御下命』に従って、ここにいる害虫どもを駆除しに来たのだ」 「戯れ言を!」
ジョヴァンニが周囲の近衛兵に「この逆賊を討て!」と命じようとした――が。 近衛兵たちは誰一人として動かなかった。
それどころか、彼らは一斉に剣を抜き、ジョヴァンニやリヒャルトの首元へと刃を突きつけたのだ。
「な、何だと……!?」
リヒャルトが初めて、その老いた顔に絶望の色を浮かべ、玉座の上座を見上げた。 そこには、今まで見たこともないような、冷酷で底知れない笑みを浮かべた皇帝アラリックの姿があった。
「祖父上。余の帝国は、本当に余のものだったのだろうか……。お前たちにそう問いかけた日を、覚えているか?」
アラリックはゆっくりと玉座から立ち上がり、廷臣たちを見下ろす。
「今日から、この帝国は真に余のものとなる。司徒リヒャルト、尚書令ジョヴァンニ。シュタインベルクの一族を、国家反逆および国庫横領の罪で捕らえよ」
第三十五章 血塗られた大理石
「おのれ、若造どもがァ!!」
すべてが仕組まれていたことを悟ったジョヴァンニが、狂ったようにイリアードへと斬りかかった。 門閥貴族としてのプライドだけが、彼の身体を動かしていた。
ギィィン!
大広間に鋭い金属音が響き渡る。 イリアードはジョヴァンニの生ぬるい一撃を、片手で容易く受け止めていた。 大秦国を滅ぼし、グラッデェの猛将タルスをも屠ったブランガの技を間近で見てきたイリアードにとって、帝都の温室で育ったジョヴァンニの武勇など、児戯にも等しい。
「身の程を知れ」
イリアードの容赦のない蹴りがジョヴァンニの腹部を捉え、彼を大理石の床へと無様に転がす。 そこへ、影のように肉薄したのがセシリアだった。
彼女の放った短剣の閃光が、ジョヴァンニの右腕の筋を正確に切り裂く。 剣を床に落とさせ、そのまま鮮やかにその身を組み伏せた。
「ジョヴァンニ!」
三公の長として帝国の頂点に君臨していたリヒャルトは、息子の無惨な姿を前に、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
「ゲオルグ! マートル! 貴様ら、なぜ黙っている! このような不条理を許すのか!」
リヒャルトは必死の形相で、中央官僚派の重鎮たちに助けを求める。 しかし、ゲオルグもマートルも、ただ冷ややかに彼を見下ろすだけだった。 彼らの懐にはすでにイリアードの黄金が収まり、袖の中には自分たちの弱みを握った「連判状」が忍ばされていたのだ。
「シュタインベルク公爵」
ゲオルグが薄汚い笑みを浮かべて言い放つ。
「我ら文官は、常に『法と皇帝陛下』の味方にございます。お前たちの専横も、ここまでだ」
完璧な孤立。 絶対的だったはずの門閥貴族は、若い兄弟の知略の前に、その権力のすべてを内側から食い破られ、音を立てて瓦解した。
◇
「連れていけ」
アラリックの冷徹な下令により、引きずられていくリヒャルトとジョヴァンニ。 彼らの豪華な衣装は、かつて自分たちの手下だった兵士たちの手によって無造作に剥ぎ取られていく。 あとに残された大理石の床には、シュタインベルク家の権威が完全に崩壊したことを示す、黒い血の跡だけが刻まれていた。
静寂が戻った大広間。 イリアードは剣を収め、玉座の兄アラリックに向かって、深く一礼した。
「陛下。帝都の『泥沼』の主、たった今排除いたしました」
アラリックは玉座から降り、弟の元へと歩み寄る。そして、その肩を強く抱きしめた。
「よくやってくれた、イリアード。そして、アンチアルマの同胞たちよ。お前たちがもたらした黄金が、この帝国の夜を明かしたのだ」
その傍らには、一切の隙なく夫を支え続けた皇后ロザリア、そして泥に塗れながらも見事に勝利を掴み取ったセシリアの姿があった。 さらに遠くアンチアルマの新城壁では、親王妃リゼリアが民たちと共に、帝都の成功を祈りながら新たな街の礎を築き続けている。
皇帝歴304年6月20日。 アルストラーナ帝国を長年支配していた巨大な門閥、シュタインベルク家はついに崩壊した。 没収された彼らの資産は、実に帝国年間予算の10年分に匹敵したという。
だが、これで平和が訪れたわけではない。 帝都の最高権力者が失踪したという衝撃は、またたく間に全土へと広がり、さらなる権力の空白を生むこととなる。
利権の泥沼を抜け出したアルストラーナ帝国は、今度はアラリックとイリアードという「二人の若き指導者」の双頭のもと、大陸の覇権をかけた、真の激動の戦乱へと突き進んでいくのであった。




